震災の経験を小説に
ぼくら親子はいつ死刑判決が下されるか分からない未決死刑囚のようだね、と長男が母親に話した。被爆者の戦後生まれの息子二人が最近相次いで急性白血病で突然亡くなったことを母親は知り合いの被爆者から聞いた。戦後三十年を経ての話だった。
一九四五年八月九日長崎での被爆と三十年後の急性白血病の発症にどのような因果関係があるのかないのか、分からない。ただ被爆者である親もその子も自分が発病するのではないかという漠然とした不安に苦しみ続けてきた事実がある。原爆投下は被爆者に被爆二世にも負の遺産を一九四五年八月九日から現在に至るまで背負わせ続けている。
自分が死んだときのカルテとして書き残す必要がある。私は長崎で原爆投下を経験した。その証拠が私の書く小説だ。被爆体験を書くことは私に課せられた使命なのだと自覚したとき、林京子は小説「祭りの場」を書き始めた。
自分の体験を書く使命のようなものを感じたとき、人は体験記や小説を書き始める。歴史における個人の役割を自覚するということだ。
民主文学二〇一一年八月号に載った中村恵美著「海と人と」、同上九月号に掲載された野里征彦著「瓦礫インコ」は二〇一一年三月一一日東日本大震災被災経験を書いた記録文学といえるものであろう。
二〇一一年三月一一日東日本大震災には無限の事実があった。この無限の事実を一人の被災者が経験できるものではない。無限の事実の中の極く一部分を経験しただけである。更に自分が実際に経験したすべてを書き記すことはできない。自分が経験した極く一部を作者は選び取り、書き記した。その書き記した内容は作者の考えによって選ばれた事実によって組み立てられた主観である。
実際に経験したことを限りなく忠実に書いたと作者が考えたとしても出来上がった作品はフィクションである。
酷いようであるが、中村恵美著「海と人と」の作品は自分が選びとった事実の報告に過ぎず、文学にまではなっていない。東日本大震災の極く一部の記録にはなっている。これが私の感想である。被災経験が余りにも生々しかったので具体的な事実に作者の心が支配され、その事実についての考察が不十分であった。
また野里征彦著「瓦礫インコ」、この作品は東日本大震災の一断面を切り取った短編文学作品になっている。
「『キロは、あの漁師によくなついているようだ。お前にはもう必要のないものだ。』
父親はそう言って、道を真っすぐに走った。」
この最後の文章は読者に深い感動を与える。この感動に人間の真実があるのではないかと思う。
「ガンバレヨ、ガンバレヨオイ」と言葉を発するインコが家族を失い、家を失い、仕事を失った漁師を励ます。このインコの言葉は高校入学試験を控えた中学生をもつ父親が息子を励ますために息子の部屋にインコを入れた鳥籠を置いた。その鳥籠が大震災で壊れ、鳥籠から逃げ出したインコが被災した漁師を励ます。このインコになついている漁師を見た元インコの持ち主はインコを返してほしいと申し出ない。ここにこの小説が読者に与える感動なのだ。