醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  385号  白井一道

2017-04-30 14:19:54 | 日記

 私の大仏さま、それは唐招提寺金堂の廬舎那仏

 私にとっての大仏と言えば、奈良・唐招提寺金堂の毘盧遮那仏(大仏)である。奈良天平時代の大仏である。優しさに満ちたお顔は少年であった私を慰めてくれた。大学生になった私にカウンターカフェに働く女の子が聞いてきた。どうして奈良のお寺にある仏さんのお腹は出ているのかしら、と。顎もたれているでしょ。私は即座に思いついたことを言った。当時、今からおよそ1200年前の社会に生きた人々は皆、ガリガリに痩せていた。だから太った人は美しく、憧れの対象だったんじゃないのかな、とね。そうなんだ。私の思いついた出鱈目の話に納得した街の小さな喫茶店に働く女の子の顔が思い出される。更に私は色白の目の大きな小さな喫茶店に働く女の子にまくし立てた。奈良時代は太った女性や男たちが美しかったんじゃないのかな。スリムな女性や男性に魅力を感じる人々はいなかったんじゃないのかなと、言うと、女の子は言った。「奈良時代は太った女の子が持てたのね」。その女の子はクスクスと笑った。
 男は皆、綺麗な女の子が好き。女の子はイケメンの男の子が好き。人は美しい者を見て心の平安を覚える。ふくよかな体、優しい顔、体を羽織る薄い布、独りぼっちで苦しんでいる人を何の分け隔てなく、受け入れてくれる仏様、大きな体をした大仏さんはいつも同じ場所でずっと座っていてくれる。朝日が須弥壇に射す。今日も元気に頑張って下さいとエールを送ってくれる大仏さま。それは奈良唐招提寺の毘盧遮那仏が私にとっての大仏である。

醸楽庵だより  384号  白井一道

2017-04-29 14:22:32 | 日記

 中学三年14歳の少年棋士四段が羽生三冠を破る

 14歳、中学三年生になったばかりの将棋棋士四段の少年に知らない人がいない将棋界を代表する羽生3冠が丁寧にお辞儀をして敗戦を告げた。インターネットテレビamebaが主催した中学生棋士藤井聡太四段との七戦、最終戦は羽生三冠との対戦だった。
 藤井聡太四段が羽生三冠に勝利したことがNHKニュースになった。テレビのワイドショウ番組が紹介していた。イギリスの詩人、バイロンは『ある朝目覚めてみると、僕は有名になっていた』と言った。天才という冠を被せられた有名人に藤井聡太少年は2017年4月、ある朝目覚めてみるとテレビが自分を讃えている番組を見たことだろう。まったく無名の少年が一躍日本の寵児になった。
 将棋界は天才の集まりだと言われている。日本将棋連盟14代会長の米長邦雄は男四人兄弟の末っ子に生まれた。兄貴たち三人は皆、頭が悪かったから東京大学に進学したが、私は一番頭が良かったから将棋棋士になったとうそぶいた。確かに三段リーグを勝ち抜くために一年間、死に物狂いに頑張っても三段リーグを突破できず、将棋奨励会を退会し、勉強し東大准教授になった人がいる。
 藤井聡太四段は類まれな将棋の神様から愛でられた少年なのであろう。好きな科目は数学だという。将棋と数学を同じようなものだとしたら数学者から怒られそうだけれども、経験を積むことなく急激に高みに上り詰めることが可能なものなのかもしれない。難問を解くという点では数学と将棋は共通しているように思う。その解答に対しては実に謙虚である。白黒が明確だからだ。ここには経験知としての年齢を必要としない。
 羽生三冠46歳、彼は謙虚に自分の負けを受け入れ、丁寧に14歳の少年に頭を下げ、負けを告げた。この姿をネットでじっと私は見ていた。

醸楽庵だより  384号  白井一道

2017-04-29 14:22:32 | 日記

 中学三年14歳の少年棋士四段が羽生三冠を破る

 14歳、中学三年生になったばかりの将棋棋士四段の少年に知らない人がいない将棋界を代表する羽生3冠が丁寧にお辞儀をして敗戦を告げた。インターネットテレビamebaが主催した中学生棋士藤井聡太四段との七戦、最終戦は羽生三冠との対戦だった。
 藤井聡太四段が羽生三冠に勝利したことがNHKニュースになった。テレビのワイドショウ番組が紹介していた。イギリスの詩人、バイロンは『ある朝目覚めてみると、僕は有名になっていた』と言った。天才という冠を被せられた有名人に藤井聡太少年は2017年4月、ある朝目覚めてみるとテレビが自分を讃えている番組を見たことだろう。まったく無名の少年が一躍日本の寵児になった。
 将棋界は天才の集まりだと言われている。日本将棋連盟14代会長の米長邦雄は男四人兄弟の末っ子に生まれた。兄貴たち三人は皆、頭が悪かったから東京大学に進学したが、私は一番頭が良かったから将棋棋士になったとうそぶいた。確かに三段リーグを勝ち抜くために一年間、死に物狂いに頑張っても三段リーグを突破できず、将棋奨励会を退会し、勉強し東大准教授になった人がいる。
 藤井聡太四段は類まれな将棋の神様から愛でられた少年なのであろう。好きな科目は数学だという。将棋と数学を同じようなものだとしたら数学者から怒られそうだけれども、経験を積むことなく急激に高みに上り詰めることが可能なものなのかもしれない。難問を解くという点では数学と将棋は共通しているように思う。その解答に対しては実に謙虚である。白黒が明確だからだ。ここには経験知としての年齢を必要としない。
 羽生三冠46歳、彼は謙虚に自分の負けを受け入れ、丁寧に14歳の少年に頭を下げ、負けを告げた。この姿をネットでじっと私は見ていた。

醸楽庵だより  383号  白井一道

2017-04-28 12:17:29 | 日記

 芭蕉は日本のシェイクスピア

句郎 シェイクスピアの文学作品がイギリスのルネサンスだとしたら、芭蕉の文学作品は日本のルネサンスといえるんじゃないかなぁー。
呑助 そもそもルネサンスとは何なんですか。
侘助 ドイツの学者、トレルチは、著書『ルネサンスと宗教改革』という著書の中で、「人間の関心の方向を変えた」出来事がルネサンスだと言っている。
呑助 「人間の関心の方向を変えた」とは、どこからどこへ人間の関心をかえたんですか。
侘助 中世社会に生きていた人々は天上の世界、神の世界に関心を向けていた。しかしルネサンスは人々の関心をこの地上の世界に向けさせたということかな。
呑助 あぁー、それでルネサンスは近代世界の始まりだといわれているんですね。
侘助 そう、近代的なものの見方、考え方の始まりがルネサンスということなのかな。
呑助 芭蕉の文学作品のどこに近代的なものの見方や考え方があるんですか。
侘助 芭蕉の教えを聞いて弟子だった土芳がまとめて著した著作『三冊子』の中に次のような言葉があるんだ。「高くこころをさとりて俗に帰るべし」とね。この「俗に帰るべし」という言葉はトレルチと全く同じことを述べているのではないかと思うんだ。
呑助 「俗」とは世俗、この世ということですか。
侘助 そう、そう。農民や町人の日常生活の中に人間の真実があるという主張だと思うんだ。
呑助 貴族や僧侶の高貴で神聖な生活の中ではなく、庶民の生活の中に人間の真実を見たということですか。
侘助 そう、だから今までは上を向いていたのを水平方向に視線を変えたということだと思う。
呑助 芭蕉は西行が歌に詠んだ世界にあこがれていたんですよね。
侘助 そうらしい。『笈の小文』という紀行文の中で芭蕉は「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり」と述べている。西行が和歌で表現した人間も、宗祇が連歌で表現した人間も、利休が茶で表現した人間の真実と私が俳諧で追求し、表現しようとしている人間の真実は同じものであると、芭蕉は言っている。
呑助 高貴な人々の生活や心にだけ、美しい人間の真実があるのではなく、額に汗して働く、農民や町人の生活や心の中にも美しい真実があるということですか。
侘助 シェイクスピアが生きた十六世紀後半から十七世紀前半のイギリス社会は身分制社会であった。農民や町人など下層階級の人々の生活や心の中に美しい人間の真実があるとは誰も思わなかった。同じように江戸時代もまた身分制社会、人を身分によって差別することが当然とされていた社会であった。そのような中にあって、下層社会に生きる人々の生活や心の世界に人間の真実を発見しようとしたのがシェイクスピアであり、芭蕉だったんじゃないかと思うんだ。
呑助 へえー、芭蕉という人は偉い人だったんですね。
侘助 なにしろ、日本のシェイクスピに匹敵する人ですからね。



醸楽庵だより  382号  白井一道

2017-04-27 14:00:03 | 日記

 過去を知るにはまず時代区分

侘助 日本史の時代区分について考えてみたいんだけどね。
呑助 時代区分ですか。
侘助 過去のことを知るためにはまず過去の時代を区分することから始めなくちゃならないんだろう。
呑助 区分することは物を知る第一歩なんでしようね。
侘助 そういうことになるね。まず江戸時代とは、どのような時代だったのかを知るために長い日本の歴史の中で江戸時代とはどのような社会だったのかを他の時代と区分けしてみる。これが時代区分なのかな。
呑助 高校三年になって初めての日本史の授業が時代区分だったのを覚えていますよ。記憶に残っているのは、原始・古代・中世・近世・近代というものだったようにうっすらと覚えているな。
侘助 江戸時代はどこに出てくるの。
呑助 近世だったように思うな。近世って聞いた時、変な気がしたのが記憶にありますよ。
侘助 どうして変だなと感じたのかな。
呑助 高校二年の時の世界史の授業では、近世という時代区分はなかったからですよ。
侘助 そう、世界史というか、西洋史では近世という時代区分をしていないからかな。
呑助 どうして日本史には近世という時代があるですかね。
侘助 ヨーロッパには絶対主義時代というのがあるでしょ。江戸時代はその絶対主義王政に似ているから近世と言った学者がいたようなんだ。
呑助 じゃー、どうして西洋史では近世という時代がないんですか。
侘助 だから西洋史の場合もルネッサンス以降の西洋の社会を近世と表現する場合もあるんだ。
呑助 へぇー、歴史と言うのは解釈なんですか。
侘助 歴史とは現代の人が過去の社会を理解することなんだ。
呑助 歴史とは現代に生きる人の創造物なんですか。
侘助 まぁー、そうなんじゃないの。
呑助 それで過去を知ることは現代を知ることだということになるんですね。
侘助 尾藤正英という人の『江戸時代とはなにか』を読んだんだ。この人の時代区分は全然違うんだ。日本の歴史は大きく分けて二つに分けて考えることができると主張している。
呑助 どのような区分なんですか。
侘助 古代・中世はほぼ同じような社会だったと主張し、戦国時代を境にして近世・近代という時代の社会には共通した特徴があると言っているんだ。
呑助 へえー、江戸時代と明治時代には共通したものがあると主張しているんですか。
侘助 この尾藤氏の主張を読み、成程と納得する部分があったんだ。例えば、芭蕉が生きた時代はまさしく江戸時代、五代将軍綱吉の時代だった。今からおよそ三七〇年前に生まれ、五一歳で亡くなっている。今から三百年前の句、「古池や蛙飛び込む水の音」、「荒海や佐渡に横たふ天の川」が現代の中学生にもすっきりと分かる。これは現代文とも言っていいような句じゃないかと思うんだ。芭蕉の俳句は近代の俳句だとも言い得る文章だと思う。近代日本語は芭蕉に始まると言っても過言ではないと感じているからね。