「柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな」。延宝8年、芭蕉37歳
侘輔 「柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな」。延宝8年、芭蕉37歳。この句の前には前詞がある。ここのとせの春秋、市中に住み侘びて、居を深川のほとりに移す。「長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し」と言ひけむ人の賢く覚えはべるは、この身の乏しきゆゑにや。
呑助 「ここのとせの春秋、市中に住み侘びて」とは、伊賀上野から江戸に出てきて9年間住んだ日本橋に住み飽きて」ということでいいんでしょうかね。
侘助 芭蕉は寛文12年、1672年、29歳の年に江戸に出てたようだから足掛け9年間、市中日本橋に住んでいたことになる。
呑助 当時、深川は草深い漁村だったでしよう。
侘助 隅田川に流れる小名木川の畔に芭蕉は引っ越した。そこは芭蕉の弟子になっていた幕府御用魚問屋の杉風の生け簀のあった番小屋のような所に引っ越した。
呑助 「長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し」の「長安」とは、漢王朝の都ですよね。ですからここでは、日本橋、市中ということですか。そこはこれといった生活手段を持たない金のない者は生き辛いと人が言うのを聞くと最もなことだ。乏しい私にとってはこの言葉が身に沁みて分かりますということでしょう。
侘助 そんなふうに芭蕉は思い、「柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな」という句を詠んだんでしよう。
呑助 「茶を木の葉掻く嵐かな」とは、何を言っているですかね。
侘助 「柴の戸に」だから、雑木の枝を束ねて戸にしてあるところに嵐が木の葉を吹き寄せて来る。それは私にお茶を沸かす薪にしてくれているんだと思っていると、いうことなんじゃないのかな。風の吹き溜まりに集まった木の葉も大事にする生活をしているんだということじゃないのかな。
呑助 これが「侘び」ということですか。
侘助 この倹しい生活を私は楽しんでいる。
呑助 生活が苦しいと嘆くのじゃなく、その生活を愛しく思っているということですか。
侘助 「侘び」というのは人生観なんじゃないのかな。そうでしょ。
呑助 侘びしい生活を否定的に受け入れるのではなく、肯定的に受け入れたものが「侘び」という精神なんですか。
侘助 その気持ちから紡ぎだされた言葉が「侘び」というものなんだと思う。
呑助 「侘び」に生きる詩人は家族を持つことはできないですね。男は家族を食わせなくちゃなりませんから。
侘助 だから芭蕉は家族を持たなかった。いや持てなかった。
呑助 家族のぬくもりを捨てた者が詩人なんでしようかね。
侘助 詩人は家族を不幸にする。その可能性が高かったんじゃないのかな。
呑助 金持ちになった俳人が出てくるのは明治になってからですか。
侘助 そうなんだと思う。高濱虚子なんていう俳人は俳句を商売にして生きた人なんじゃないのかな。
呑助 虚子は俳句業者ですか。
侘助 俳句が大衆化し、芭蕉の時代にもあった俳諧宗匠のような生活もあったが、芭蕉はその生活ができなかった。その生活を悔やむのではなく、その生活を肯定した。