醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  501号  白井一道

2017-08-31 16:10:48 | 日記

「柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな」。延宝8年、芭蕉37歳

侘輔 「柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな」。延宝8年、芭蕉37歳。この句の前には前詞がある。ここのとせの春秋、市中に住み侘びて、居を深川のほとりに移す。「長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し」と言ひけむ人の賢く覚えはべるは、この身の乏しきゆゑにや。
呑助 「ここのとせの春秋、市中に住み侘びて」とは、伊賀上野から江戸に出てきて9年間住んだ日本橋に住み飽きて」ということでいいんでしょうかね。
侘助 芭蕉は寛文12年、1672年、29歳の年に江戸に出てたようだから足掛け9年間、市中日本橋に住んでいたことになる。
呑助 当時、深川は草深い漁村だったでしよう。
侘助 隅田川に流れる小名木川の畔に芭蕉は引っ越した。そこは芭蕉の弟子になっていた幕府御用魚問屋の杉風の生け簀のあった番小屋のような所に引っ越した。
呑助 「長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し」の「長安」とは、漢王朝の都ですよね。ですからここでは、日本橋、市中ということですか。そこはこれといった生活手段を持たない金のない者は生き辛いと人が言うのを聞くと最もなことだ。乏しい私にとってはこの言葉が身に沁みて分かりますということでしょう。
侘助 そんなふうに芭蕉は思い、「柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな」という句を詠んだんでしよう。
呑助 「茶を木の葉掻く嵐かな」とは、何を言っているですかね。
侘助 「柴の戸に」だから、雑木の枝を束ねて戸にしてあるところに嵐が木の葉を吹き寄せて来る。それは私にお茶を沸かす薪にしてくれているんだと思っていると、いうことなんじゃないのかな。風の吹き溜まりに集まった木の葉も大事にする生活をしているんだということじゃないのかな。
呑助 これが「侘び」ということですか。
侘助 この倹しい生活を私は楽しんでいる。
呑助 生活が苦しいと嘆くのじゃなく、その生活を愛しく思っているということですか。
侘助 「侘び」というのは人生観なんじゃないのかな。そうでしょ。
呑助 侘びしい生活を否定的に受け入れるのではなく、肯定的に受け入れたものが「侘び」という精神なんですか。
侘助 その気持ちから紡ぎだされた言葉が「侘び」というものなんだと思う。
呑助 「侘び」に生きる詩人は家族を持つことはできないですね。男は家族を食わせなくちゃなりませんから。
侘助 だから芭蕉は家族を持たなかった。いや持てなかった。
呑助 家族のぬくもりを捨てた者が詩人なんでしようかね。
侘助 詩人は家族を不幸にする。その可能性が高かったんじゃないのかな。
呑助 金持ちになった俳人が出てくるのは明治になってからですか。
侘助 そうなんだと思う。高濱虚子なんていう俳人は俳句を商売にして生きた人なんじゃないのかな。
呑助 虚子は俳句業者ですか。
侘助 俳句が大衆化し、芭蕉の時代にもあった俳諧宗匠のような生活もあったが、芭蕉はその生活ができなかった。その生活を悔やむのではなく、その生活を肯定した。

醸楽庵だより  500号  白井一道

2017-08-30 13:16:56 | 日記

「小野炭や手習ふ人の灰ぜせり」。延宝8年、芭蕉37歳

侘輔 「小野炭や手習ふ人の灰ぜせり」。延宝8年、芭蕉37歳。私はいい句だと思っているんだけどね。でもいい句だと言う人は少ないみたいだ。
呑助 昔は火鉢の灰に字を書いて覚えたんですかね。
侘助 火の熾った炭を火鉢にいける寸暇を惜しんで向学に燃えた少年は漢字を覚えた。そんな風景が目に浮んでいい句だと思ったんだけどね。
呑助 「小野炭」とは、普通の炭ではなく、何か特別の炭なんですか。
侘助 福島県阿武隈山地に小野と呼ばれる地域があり、そこで焼かれた炭を小野炭と言ったようだ。
呑助 ごく普通の火の熾きた炭を見て芭蕉は灰に字を書くような真似をして遊んだ少年の頃を思い出し、詠んだ句なんじゃないですかね。
侘助 そうなのかもしれないなぁー。「小野炭」の「小野」には小野道風を読者に想像させるような働きがあるのかもしれないなぁー。
呑助 平安時代の能書家ですか。「三跡」というんですか、「三筆」というのか、その一人でしたよね。
侘助 小野道風は「三跡」の一人のようだ。後の二人の藤原佐理(すけまさ)と藤原行成(ゆきなり)を合わせて三跡というらしい。
呑助 小野道風のように上手な字を書きたいと練習しているということですか。
侘助 小野道風を目標に字を一所懸命習っているということを詠んだのではないかと思っているんだ。
呑助 実際、昔の日本人は灰に字を書く練習をしていたのかもしれませんよ。
侘助 当時の日本の民衆の生活記録としての意義があるような句になっているよね。
呑助 今でも砂漠地帯に生きる子供たちは砂の上に文字を書いて覚えている映像をテレビで見たような記憶がありますよ。
侘助 「灰ぜせり」というから遊びとして字を練習していたのじゃないかな。
呑助 学校や寺子屋のような場所がなかった時代の平民、町人や農民の子供たちにとって字を書くことは遊びだったのかもしれませんよ。
侘助 そうかもしれない。学校という組織は子供たちに字を強制的に詰め込む拷問をするようなところだからね。
呑助 確かに、学校は嫌なところでしたね。勉強のできる子にとっては、良い所だったかもしれませんが、勉強の嫌いな子にとっては地獄以外の何物でもないようなところだったように思いますね。私なんか、そうでしたね。
侘助 学校で何か楽しかった思い出に残るようなことはなかったの。
呑助 休み時間ぐらいですかね。ほっとしたのは。
侘助 本来勉強というのは、自学自習だからね。勉強しようという気持ちがなければ、勉強は成り立たないからね。
呑助 ワビちゃんは何を勉強したんですか。
侘助 私は学校の勉強が大嫌いでね。小学校の頃は教師に叱られてばかりいたような気がするな。それが高校に入ると先生から怒られるようなことがなくなり。大学に入ると学問というものに興味関心が高まったような気がするな。それで、私は宗教というものに興味を持ってね、仏教やキリスト教の本を読んだような気がするな。いや小説を読んだのかもしれない。

醸楽庵だより  499号  白井一道

2017-08-29 16:00:02 | 日記

 「いづく時雨傘を手に提げて帰る僧」。延宝8年、芭蕉37歳

侘輔 「いづく時雨傘を手に提げて帰る僧」。延宝8年、芭蕉37歳。この句を芭蕉百句に選んでいる人がいる。
呑助 六八五の句ですね。
侘助 この句を読むリズム感は五七五音なのかもしれない。
呑助 「五七五」というのは文字数ではなく、音なんですか。
侘助 定型というのは何が何でも文字数が五七五になっていなければならないというものではないんじゃないのかな。だって芭蕉の句には「五七五」の定型になっていない句があるからね。
呑助 問題は句になっているか、どうかということなんですね。
侘助 そうなんじゃないのかな。「いづく時雨」という語句が季語「時雨」を表現しているのかもしれないなぁー。
呑助 どこで時雨にあったのか、びっしょり濡れた番傘をもって寺に帰ろうとしている僧侶がいるということですよね。
侘助 時季は初冬の夕暮れ、肌寒く感じる頃なんじゃないかな。質素な衣を身に付けた僧侶が一人下駄音もなく、歩いて帰る姿が目に浮かんでくる。
呑助 その番傘は借りてきたものかもしれませんね。
侘助 紙に塗ってある油も剥げ落ち、紙に雨水が沁み込んで重くなっているのかもしれないな。
呑助 いろいろ想像が膨らんできますね。
侘助 みすぼらしい僧侶のイメージだよね。
呑助 高僧のイメージはないですよね。
侘助 市井に生きる貧しい僧侶を芭蕉は表現している。これが芭蕉の俳諧というものだったんだろうね。
呑助 ごく平凡な当時の庶民の姿を詠んだのが芭蕉の俳句だったんですか。
侘助 そうなんだろうね。和歌が詠んだ対象は貴族の生活や高僧の世界を詠んだのに対して芭蕉の俳諧は当時の庶民、平民、下層な社会に生きる人々の中に美を発見したのが芭蕉の俳諧だったんだろうね。だから新しい文学が創造できたんじゃないのかな。
呑助 芭蕉の俳諧を楽しんでくれたのも町人や農民など当時の庶民たちだったということなんですね。
侘助 だから、当時の庶民が読めるような言葉で俳諧を表現した。
呑助 漢文の読み下し文のような文体ではなく、より口語に近い言葉で書いているんですね。
侘助 「いづく時雨傘を手に提げて帰る僧」。現代日本に生きる者にでも日常語として読めるような文体になっているよね。この句を詠んだのが今から三百年前の人が書いた句だということが凄いことなんだと思う。
呑助 明治になってから言文一致体の文体ができてきたというようなことを高校の頃教わった記憶がありますが、そうじゃないですね。言文一致というのはすでに俳諧に於いて行われてきていたというなんですね。
侘助 そうなんじゃないかな。芭蕉にも漢詩文調の句があるが、それらの句はまだ芭蕉本来の句ではないようだから、今の高校生が何の抵抗もなく読めるような句が芭蕉の句なんじゃないのかな。
呑助 そのような句の一つとして「いづく時雨傘を手に提げて帰る僧」があるということなんですか。
侘助 そうなんだと思うね。難しい言葉がないからね。

醸楽庵だより  498号  白井一道

2017-08-28 13:30:33 | 日記

「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」。延宝8年、芭蕉37歳 

侘輔 「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」。延宝8年、芭蕉37歳。この句は芭蕉の秀句の一つのようだ。この句を芭蕉は「枯朶に烏のとまりけり秋の暮」とも推敲している。「とまりたるや」と「とまりけり」ではどのような違いがあるのかなぁー。
呑助 「たり」と「けり」の違いですか。烏が枯れ枝に「留まっている」と「留まっていた」の違いですよね。
侘助 画讃が残っている。「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」の句が書かれている絵には烏が27匹描かれている。それに対して「枯朶に烏のとまりけり秋の暮」の句が書かれている絵には一匹の烏しか描かれていない。
呑助 「たる」と「けり」では烏の数が違ってくるんですか。
侘助 芭蕉は「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」の句には何匹もの烏が枯れ枝にいるのがふさわしく、「枯朶に烏のとまりけり秋の暮」の句には、烏は一匹がふさわしいと考えていたのじゃないのかな。
呑助 芭蕉の主観の違いですか。
侘助 なぜ芭蕉は、「烏のとまりたるや」の場合は、烏が複数になり、「烏のとまりけり」になると烏が一匹になると考えたのかということが問題なんだと思う。
呑助 何匹もの烏がとまっているのを見かけることもあるし、烏が一匹電信柱にとまっているのを見かけることがありますね。
侘助 遠い昔、高い木の枝にとまっていた烏の記憶は一匹のような気がしたんじゃないのかな。実景としては何匹もの烏がいても、記憶に残る烏の数は一匹のような気がするでしよう。
呑助 そうなのかな。秋の暮れに見た高い木の枝にとまっている烏は一匹だったような記憶が残っているのかもしれません。
侘助 高い木の枝に見た烏は一匹だった。秋の暮れの頃だったなぁーと、ね。
呑助 実際には何匹もの烏を見ていても記憶には一匹の烏しか記憶には残らないということですか。
侘助 一匹の烏だと秋の暮れの感じが表現されたように思うでしょ。
呑助 何匹もの烏がかぁー、かぁー鳴いていたんじゃ、秋の暮れの感じがしないかもしれませんね。
侘助 芭蕉は秋の暮に一人家路についていた時、烏の鳴き声を聞き、記憶にある枯れ枝に留まっていた一匹の烏を思い出し、詠んだ句が「枯朶に烏のとまりけり秋の暮」だったんじゃないのかな。
呑助 じぁー、実際に枯れ枝に烏が一匹とまっているのを見たということですか。
侘助 それじゃー、違うな。間違いだ。芭蕉が実際に見たのは何匹もの烏が枯れ枝に留まっている姿だったんだよね。
呑助 そうですよ。実景を詠んだ句が「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」だったんじゃないですか。
侘助 この句を推敲していく中で芭蕉の心に残っている秋の暮に枯れ枝に留まっている烏は一匹になっていったということか。一匹の方がより深く秋の暮が表現できると芭蕉は気がついたんだ。
呑助 枯れ枝に烏がとまっている心象風景は一匹だったんですよ。
侘助 そうなんだ。だから「枯朶に烏のとまりけり」とは、芭蕉の心象風景なんだ。その心象風景の烏は一匹なんだ。

醸楽庵だより  497号  白井一道

2017-08-26 13:03:01 | 日記
  
 「夜ル竊(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿ツ」。延宝8年、芭蕉37歳

侘輔 「夜ル竊(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿ツ」。延宝8年、芭蕉37歳。この句は名句のようだ。そんなイメージがあるでしょ。そう思うでしょ。
呑助 想像の句だね。
侘助 季語は「月下の栗」、晩秋のようだ。栗名月、十三夜を「月下の栗」から想像できるのかもしれない。
呑助 「虫」も季語なんじゃないですか。
侘助 そうだよね。芭蕉の頃はまだ「虫」は季語として俳諧師たちに認められていなかったのかもしれないよ。
呑助 この句は「月下の栗」を詠んでいるんだよね。
侘助 月明りの中で芭蕉は栗の木を眺め、虫は人に知られることなく、一心不乱に栗を食べているに違いないと想像している。
呑助 分かりますな。
侘助 秋の夜長、月明りが窓から入って来る部屋で一人一生懸命勉強している姿が瞼に浮かんできたりしてね。
呑助 人間の生きる姿ようなものが表現されているということなんでしよう。
侘助 いろいろなことを想像させる句がいい句なのかもしれないなぁー。
呑助 漢字の多い句ですね。
侘助 漢詩文調の句だよね。まだ芭蕉本来の文体をもった句を模索していた頃の句なんじゃないか。
呑助 自分独自の文体を創造することは大変なことだったんでしよう。
侘助 苦しんだんだと思うね。きっとそうだよ。
呑助 芭蕉の文体とはどんなものなんですかね。
侘助 例えば、「道のべの木槿は馬にくはれけり」のような句に芭蕉の文体を見ることができる。
呑助 なんでもない日常の風景の中に人生の真実のようなものを表現したということですかな。
侘助 蕉風を開眼していく過程にある句なのでしよう。だから岩波文庫の『芭蕉俳句集』番号116が「夜ル竊(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿ツ」。次の句が「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」だからね。この「枯枝に」の句は蕉風の一歩手前まで来ている句なんじゃないかと思う。
呑助 なるほどね。「月下の栗」の句は「十三夜」の景に栗を穿つ虫に発見したところに芭蕉の手柄があるということですか。枯れ枝の烏に秋の暮れを芭蕉が発見したようにね。
侘助 芭蕉は実際に栗を穿つ虫を見ているんじゃないのかな。その虫の記憶があって、初めて「夜ル竊(ひそか)ニ」の句が詠めたんだとは思うがね。
呑助 銀色に冴えわたる月の光と栗を穿つ虫のささやかな音が静かな世界を表現している。この静かさが良いんだよね。
侘助 句を読んだ時に読者の心に静かさを呼び起こすような句が良い句なのかもしれないなぁー。
呑助 そうなんでしよう。「枯れ枝に」の句にも静かさがありますね。
侘助 そうだよね。芭蕉の名句と言われているものはすべて読者の心に静かさのようなものを吹き込んでくる。そんな感じがするね。
呑助 言われてみれば、そんな感じがしますね。
侘助 そうでしょ。それは芭蕉の句が文学作品になっている証拠なのかもしれませんよ。
呑助 昔、法隆寺の百済観音を見ていた若い女性が一人いつまでもじっと見ている姿を思い出しましたよ。百済観音の前に立つと静かな心が満ちて来るのじゃないですか。