醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  716号  おもしろや今年の春も旅の空(芭蕉)  白井一道

2018-04-30 11:08:38 | 日記



  おもしろや今年の春も旅の空  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「おもしろや今年の春も旅の空」。注釈に「よとぎの詞」の初めに見える句とある。
華女 芭蕉の人生を窺わせる句ね。
句郎 軽く生きているということかな。
華女 しがらみがなかったのね。旅に死んでも平気だという気持ちよね。
句郎 この句を詠んだとき、芭蕉は四十六歳になっていた。元禄時代にあっては、もう初老だったんじゃないのかな。
華女 無一物。だから軽く生きられたのよね。
句郎 芭蕉には家族がなかった。親はもう亡くなっていた。旅に生きる俳諧師だったからね。
華女 旅を芭蕉は楽しんでいたのね。旅の毎日が面白くて、楽しくて、しょうがなかったのね。
句郎 腹の底から湧き上がって来る喜びでいっぱいだったんだろうな。
華女 句を詠むことが嬉しくてしょうがなかった。そんな人だったのかもしれないわ。
句郎 芭蕉とほぼ同時代を生きた漂泊の僧侶に円空がいる。この円空について哲学者の梅原猛は『歓喜する円空』という本を書いた。円空は仏を彫り、地域住民の幸せを祈った。生活に苦しむ人々のために祈り、木造仏を彫ることが嬉しくしてたまらない。芭蕉より十二年早く生まれ、芭蕉より一年長く生きた。芭蕉は病に倒れたが、円空は自分の死を悟り、即身仏になる道を選択した。生きることが嬉しくて嬉しくてたまらない。旅に生きることが嬉しくてたまらない。苦渋に顔が歪むことがない。怒る仏を彫っても、その仏に向かうと心が休まる。癒される。円空仏の本質は笑顔にある。「おもしろや今年の春も旅の空」。この芭蕉の句にも円空と同じような心があったのではないかと思っているんだけどね。
華女 芭蕉も円空も単に自分のためだけに生きていないと言うことかしら。
句郎 円空は木造物を彫っただけではなく、和歌も詠んでいる。「歓喜(よろこび)はいつも絶やせぬ春なれや浮世の人を花とこそみれ」。生活に苦しむ浮世の人は花なんだ。厳しい労働に疲れ切っている人の真実は花なんだという認識を円空は持っていたと梅原氏は理解していた。
華女 木造仏を彫り、地域住民と一緒に祈ると疲れ切った顔に笑顔が現れるということなのね。
句郎 芭蕉は俳諧の座を地域住民と一緒に囲み、俳諧を詠んで、微笑む。俳句を詠み合うことが嬉しくてたまらない。面白くてたまらない。
華女 俳諧の座には「歓喜する芭蕉」がいたのね。
句郎 俳諧の座にあって芭蕉は柔和な笑顔の人だったんじゃないのかな。
華女 芭蕉と一緒に俳句を詠み合いたいと思ってくれる人がいなくちゃ、俳諧師にはなれないでしようからね。
句郎 俳諧は笑いに本質があるようだからね。
華女 笑いは本質的に庶民のものなのよね。
句郎 そう、俳諧は本質的に農民や町人の遊びだった。楽しい遊びだった。笑顔に満ちた遊びだった。誰でもが気後れすることなく、遊ぶことができた。そのような座を芭蕉はつくることができた。
華女 厳しい旅が面白く、楽しいものだったからこそ、芭蕉は旅に生き、旅に死ぬことができたのね。

醸楽庵だより  715号  北朝鮮問題について(1)   白井一道

2018-04-29 16:17:36 | 日記


  北朝鮮問題について 1


華女 北朝鮮はなぜ核兵器やアメリカまで届く大陸間弾道弾を開発しようとしているのかしら。
句郎 核兵器や大陸間弾道弾を持っていれば、自国の存続が保障できると考えているからなんじゃないのかな。
華女 北朝鮮政府は自国の存続のために核兵器や大陸間弾道弾を持ちたいとなぜ持ちたいと思っているのかしら。世界中には北朝鮮と同じような小さな国はたくさんあるじゃない。それらの国々は皆、核兵器や大陸間弾道弾を持ちたいと思っているわけじゃないんでしょ。
句郎 北朝鮮は小国に間違いはないと思うけれど、一九五〇年に始まった朝鮮戦争はまだ継続中だからね。
華女 七十年間もの間、朝鮮半島の南と北の国は戦争をしているのね。驚きだわ。
句郎 一九五三年に朝鮮半島の北緯三八度線で停戦し、休戦状態がそれ以来現在に至るまで続いているんだ。
華女 半ば、戦争状態が半世紀以上も続いているというのは、両国の国民にとって厳しい生活が強制されているということなのね。
句郎 そうなんだ。一九五〇年代は北朝鮮の方が経済力においては上回っていたようなんだ。それは鉱物資源が北の方が豊かだったからね。戦前日本が植民地朝鮮に投資したのも北側だったからね。
華女 あっ、そうなの。でもだんだん南の方が経済的には豊かになって行ったのね。
句郎 そうなんだ。だからそのうち北朝鮮政府は自滅するに違いないアメリカ政府は予想していたようなんだ。しかし、いつまでたっても北朝鮮政府は自滅しない。北朝鮮の国民は貧しさに耐え抜く力が強いと思うようになったみたい。
華女 戦争はすぐやめたいと両国の国民は思わなかったのかしらね。
句郎 米ソ冷戦が第二次大戦後一九八九年十二月まで続いていたからね。
華女 冷戦が終わり、東欧諸国は自由化し、東西ドイツは統一を実現したのになぜ朝鮮半島では、朝鮮民族の統一国家の成立が実現しなかったのかしら。
句郎 北朝鮮の国民が自由化を望まなかったということなんじゃないのかな。
華女 信じられないわ。
句郎 北朝鮮は社会主義とは名ばかりの半ば封建的な独裁国家になっていたようなんだ。
華女 北朝鮮の国民は米ソ冷戦の犠牲にされていたということね。
句郎 そうだよね。プロレタリアートの独裁という少数者革命の結果、実現した政府は恐ろしい結果をもたらすという見本のような政府が北朝鮮政府なのかもしれないな。
華女 無慈悲な独裁国家の若い権力者金正恩氏と韓国大統領文在寅氏が休戦ライン上で握手し、手をつないだまま、休戦ラインを超えたテレビ画面を持て涙を浮かべていたソウル市民がいたわね。
句郎 韓国が設置したプレスセンターでも拍手が沸き起こったらしいね。
華女 歴史は確実に進んでいるのよ。そんな風におもうわ。
句郎 そう思うな。北朝鮮は信じられないという発言を聞くと喧嘩した方がいいと言っているのかなと感じるよね。
華女 そうよ。平和よ。平和。

醸楽庵だより  714号  うたがうな潮の花も浦の春(芭蕉)  白井一道

2018-04-28 12:11:38 | 日記


  うたがうな潮の花も浦の春  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「うたがうな潮の花も浦の春」。「二見の図を拝み侍りて」と前書きがある。
華女 「二見の図とは、伊勢二見ケ浦の夫婦岩の絵だと理解していいのかしら。
句郎 誰の絵なのか、分からないが夫婦岩の二見ケ浦のことだと思う。
華女 夫婦岩の二見ケ浦はなぜ有名になったのかしら。
句郎 夫婦岩の間から太陽が昇る。こうして日の出の遥拝所として有名になったんじゃないのかな。
華女 それが降臨する神の依り代となり、夫婦岩の浜は禊の浜、伊勢参りの垢離場(こりば)、心身浄化の聖地になったということね。
句郎 伊勢神宮の成立と共に二見が浦、夫婦岩が参拝者の清めの場所として認められていったのじゃないのかな
華女 江戸時代にお伊勢参りが盛んになったと聞いたことがあるわ。いつごろからだったのかしら。
句郎 芭蕉が生まれた十七世紀の中頃からだったんじゃないのかな。
華女 伊勢神宮には何が祀られているかしら。
句郎 天皇の御先祖様だと信じられている天照大神なんじゃないの。
華女 江戸時代にはそれほど天皇を敬い、崇拝するような信仰が農民や町人にあったとは思えないわ。
句郎 確かに東照大権現を祀る神社は徳川家崇拝として崇敬されていたように思うが天照大神を祀る神宮はそれほどではなかったように思うよね。
華女 それでも江戸時代の中ごろから伊勢参りが盛んになって行ったのは、どうしてなのかしら。
句郎 伊勢神宮の信仰を広める御師が現世利益を説き、暦や豊作祈願、商売繁盛のお札を配布して農村や街々に信仰を広めた結果だと思う。
華女 それで村や町では講を組み、お金を貯金して旅費を作り、代表者が伊勢参りをしたわけね。
句郎 順番に従って伊勢参りをした。この伊勢参りは巡礼のようなものではなく、慰安が目的だった。
華女 商工業が発展した結果、都市や農村に少し余裕が生まれた結果、慰安としての伊勢参りが普及したということね。
句郎 慰安としての伊勢参りが普及していく中で芭蕉は「うたがうな」の句が詠まれているんだ。
華女 分かるわ。「うたがうな」ということは、疑っている人が当時、多くいたということよね。
句郎 そうなんだろう。疑っちゃ、ご利益はないよ。間違いなく、ご利益はあると信じなくちゃ、だめだよと、述べているのが、この句なんじゃないのかな。
華女 伊勢参りが徐々に普及し始めたころに「うたがうな」の句は詠まれているということなのね。
句郎 信仰というのは、フェティシズムだから。思い込みがなくちゃ、信仰は成り立たないからな。
華女 夫婦岩の間から日が昇るように岸に打ち寄せ砕け散る波しぶきにも春が来ている。神は間違いなく私たちを見守ってくれている。このことを疑ってはならないものなんだと芭蕉は詠んでいるということね。
句郎 芭蕉にはこれといった深い信仰心があったようには思えないが、神や仏を敬う気持ちは持ち続けていたように思うんだ。その気持ちを詠んでいる。

醸楽庵だより  713号  しばらくは瀧にこもるや夏の初め(芭蕉)  白井一道

2018-04-27 14:27:55 | 日記


  しばらくは瀧にこもるや夏の初め  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「しばらくは瀧にこもるや夏の初め」。元禄二年。『おくのほそ道』には次のような言葉を書いている。「廿余丁山を登つて滝有。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭(へきたん)に落たり。岩窟に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也」。
華女 元禄二年というと西暦では何年になるのかしら。
句郎 一六八九年かな。イギリスではグローリアス・レボォルーション(名誉革命)が一六八八年から一六八九年にかけてあった。イギリスではすでに市民革命があったころに芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出ていた。
華女 日本はイギリスに比べて歴史の進み具合が後れていたのね。
句郎 それほど後れていたとは思っていないんだけどね。
華女 市民革命とは、どのような社会をどのように変えた出来事だったのかしら。
句郎 イギリスの絶対王政を廃止し、国王は「権利の章典」を受け入れた結果、法の支配が実現したということなのかな。
華女 「権利の章典」とは、憲法のようなものなのかしら。
句郎 そうなんだ。国王といえども憲法たる「権利の章典」には従わなくちゃならなくなったということかな。
華女 憲法に基づく政治をするようになったのが名誉革命ということなのね。
句郎 大日本帝国憲法が発布されたのが一八八九年だから、日本はイギリスと比べる二百年ぐらい遅れてしまったということなのかな。
華女 やっぱりそうなんじゃない。
句郎 でも元禄時代はかなり商工業が発達し、いわゆる市民階級の台頭があったのじゃないのかな。
華女 裏見の滝とは、日光にあるのよね。
句郎 現在では東武バスで東武日光駅から十五分、バスを下車して徒歩四五分ぐらいかかるようだ。
華女 細い山道を七、八分歩いて行った覚えがあるわ。凄い立派な滝だったので驚いた記憶があるわ。芭蕉は何月の頃に行ったのかしら。
句郎 『おくのほそ道』には「卯月朔日、御山に詣拝す」とあるから四月一日に日光に入り、『曾良旅日記』によると四月二日(新暦五月二十日)、天気快晴。辰の中尅(午前八時)宿を出て、一里ほど歩いて裏見の滝に行っている。
華女 いい季節に芭蕉は日光に行っているのね。
句郎 裏見の滝は高さが四五mもある滝の裏側に入った芭蕉は涼しさに癒されたことだろうな。
華女 本当にしばらくの間、滝の裏側で休んだんじゃないのかしら。
句郎 これが本当の夏安吾(げあんご)だと芭蕉は感じたんじゃないのかな。
華女 汗をかいた後の滝の涼しさに癒されたのね。
句郎 そうだろうな。日光は夏になっても蚊がいないからね。五月下旬の頃から十月ぐらいまでの日光は本当に過ごしやすいからね。
華女 夏、日光から東武電車に乗り、帰って来て浅草に下りると下界に下りてきたというような気持になるわ。
句郎 ドアが開き、ムッとした空気の中に入ると蒸し風呂に入ったような気持になるな。

醸楽庵だより  712号  小林多喜二短編小説『健』を読む  白井一道

2018-04-26 12:07:06 | 日記


 多喜二の短編小説『健』を読む


 福島原発事故を経験して多喜二を読む。
 「健」という初期短編小説がある。一九二二年、多喜二が十九歳のときに「新興文学」の懸賞に投稿し当選した作品である。
 粗筋は以下のようである。
 伯母のよしが、大きな財産を小樽に拵えておおっぴらに、自分の故里(くに)に帰っていけるようになった。成金風をふかし、昔、侮蔑した者たちが反対に下っ腹をすってくるのを痛快に思ったからだ。あるとき、甥の健には見所がある。どん百姓にしてはいたわしい。健を小樽に連れ帰ってものしてやる。両親を説得する。親には不安があったが偉くなるんだ。小樽にさえ行けば皆んな偉くなれるんだと親たちは思った。
 秋田の田舎から旅立った健にとって初めて乗る汽車に驚く、教科書で見たものとはその迫力が違う。海と汽船に目をみはる。小樽で伯母と乗った馬車に驚く。四階建ての石造りの銀行が並び立っている街にびっくりする。
 茅造りの暗い百姓家との違いに心を奪われる。肥料と泥の匂いのない家、白米
を毎日食べる生活におびえる。故里では学校が楽しかったのに、小樽の学校では秋田弁とやじられ、先生にまで笑われてしまう。健は偉くなるには我慢しなければと思うが学校に行けなくなってしまう。一年後、健は故里に帰してくれと、伯母に頼む。伯母は理解しかねるが、泣いている健をもてあまし、故里に帰すことにする。最後は伯母の言葉で結ばれている。
「あれも馬鹿なものさ、だまって学校に入っていれば立派なものになれるのに::。まあ村で馬のけつ
でもたゝくさ、フゝゝ。」と笑った。そして独言のようにつけ加えた。
「子供って馬鹿なもので、
わし()が帰る頃はもう元気ではしゃいでいたよ」
 この伯母の言葉について、岩波新書「小林多喜二」の著者、ノーマ・フィールドは次のように分析している。『健が「馬のけつをたたく」生活に戻るとすぐ元気になるのが「馬鹿」なのだが、二度目に「子供って馬鹿なもの」といったとき、健だけでなく、子ども一般が大人の常識では計れないこと
を直感しているようだ。「馬のけつをたたく」人生に満足するのを「馬鹿」ときめつけるのは、(中略)、貧しい人生観そのものなのだ。しかし、本人もそれでは納得しきれないからこそ二度目の「馬鹿」があるのだろう。』 
 このノーマの分析に私は不満である。この伯母の姿に原発導入を推進した地元有力者の姿が浮かび上がる。原発導入に反対したものを馬鹿だと地元有力者たちは言った。原発を導入したから福島の過疎地は豊かになった。原発反対を唱える者一般が馬鹿なのだ。文明に逆らう馬鹿者なのだ。こう言ったかつての地元有力者たちは自らの故里を事故によって半永久的に失った。
 十九歳の多喜二は直感的に真理を悟ったのだ。国内植民地北海道のにわか成金に人間の真実はない。故郷の百姓たちには人間生活の真実がある。「馬鹿」な子どもにも人間の真実があるのだ。ノーマはここがわかっていない。だから「わし()が帰る頃はもう元気ではしゃいでいたよ」という言葉で多喜二はこの小説を終えているのた。