日暮れ時の居酒屋
ヨッ、先生、こっちに来なよ。ちょうど、一つ空いているよ。暖簾をくぐって居酒屋に入って来た先生を見つけるなりセンちゃんは先生に声をかけた。先生、床屋に行ったね。風邪をひかないかい。坊主にしちゃ、寒くなにいかい。
コートを脱いでいる先生にセンちゃんは立て続けに声をかける。先生はただにこやかにほほ笑みをセンちゃんに返した。先生はセンちゃんのそばの席に来て座るのかなと思っているとセンちゃんから遠くの席に座ろうとした。その刹那、居酒屋のママがいつものように慣れた手つきでセンちゃんの隣の席にチュウハイのジョッキを置いた。それを見たセンちゃんが先生のチュウハイ、こっちだよ、と言った。先生は座りかけた椅子から立ち上がり、センちゃんのそばの席にやって来て座った。先生は私に言った。何も言わなくてもこれをママは出してくれるんだよと、チュウハイのジョッキを指さした。先生は私より、三つ下だよと、センちゃんは背筋を伸ばして言った。俺の方が若いだろう、とセンちゃんは言いたげた。
先生が言った。「今日も四時半から飲んでいるの」。
「そうだよ。いや、開店前からだね。もう、ここに来てから二時間になるよ。そろそろ帰ろうかなと思っているところに先生が入って来たから帰れ無くなっちゃった。先生、アゴヒゲも剃り、頭も坊主にしたのに、どうして鼻の下の髭は残しているの」。
「ここを剃ると風邪をひいちゃうよ。ここが一番寒い」。
先生は理屈を述べた。先生は永の入ったチュウハイをすすりながらニコニコしていた。
「先生の診療所の前、今日の朝、通ったら閉まっていたね。どうか、したの」。
「いや、閉めてなんかいないよ。車の駐車を断ろうと立ち入り禁止の衝立を立てていただけだよ。センちゃん、朝早くからどこに行ったの」。
「税務署に確定申告に行ったんだよ」。
「もう、行ったの」。
「早く行かないと、混んで混んで大変なことになるから」。
「私のような年金生活者の場合簡単だからね。先生は青色で出すの。それとも白、どっちで出すの」。
「ここ二・三年、ずっと白でだしているよ。青色の方が得のようだけど、ウルサイでしょう」。
「先生は、税理士さんに頼んでいるの」。
「いや、自分でしているよ。税理士さん、頼むほどの仕事していないもの」。
「年金生活になると確定申告を毎年、しなくちゃならないんだよ。先生のように自営だと交際費で落とせるからいつも居酒屋の領収書、もらって行くわけね。年金生活者には交際費がないから、領収書はいらないけど」。
「センちゃん、自営者の交際費といったって、年間、三〇万だよ。一日にすりゃ、千円に満たないよ。それに売上がなきゃ、落とせないし、鍼灸は保険がきかないでしょ。不景気だとお客さんは減るし、チュウハイがやっとだよ」。
「先生に針を打ってもらうと一回、五千円だものね。それに1回じゃ、終わらないでしょ。長くかかるみたいだし、経営戦略なの」。
「東洋医学だからね。体全体の気を十分にするには時間がかかるんだよ」。
日暮れ時の居酒屋は熟年男たちの井戸端会議のようだ。日常会話で心を癒す時間のようだ。