[ 小魔人の小部屋 ] 枚方市の学習塾“ベスト学習会”の別宮利彦の一昔前の回顧録

ベスト学習会 www.bestkai.com
別宮利彦の『小魔人の小部屋』
こっそり垣間見てにんまり微笑んでください

樹木希林の追悼番組と我が母

2018-10-21 | 小魔人が歩んできた歴史
 NHKスペシャル“樹木希林を生きる”という番組を見た。多くの人々から惜しまれて他界した大女優、樹木希林さんの晩年の1年を密着した番組だ。ファンの人々に対する終活のあいさつとしての出演だったのかなと思わせるものだった。全身をがんに冒されていることを公表した後も、残された力を振り絞るかのように次から次へと、75年の生涯を力尽きるまで精力的に演じきった。

 ガキの頃に見た寺内貫太郎一家、ムー一族は鮮烈だった。おばあちゃんという印象しかないような今の若い子たちには、郷ひろみとデュエットで歌って踊ってはしゃぎまくってた姿は想像し難いだろう。その後も常に、年齢に応じて渋みが増し、多彩な表現力でそれぞれの作品に味わいを与え、大いに魅了した。「万引家族」ももちろん素晴らしい作品だったが、「あん」は圧巻だ。樹木希林さん以外に誰が演じられるだろうかと想像しても、全く思いつかない。まさにはまり役だった。

 密着の間も、悲観的な様子は一切見せず、常に周囲を気遣う優しい表情が印象的だった。全身に癌が転移して広がっているレントゲン写真を披露していたが、それも、密着取材の人のために、いわゆる“撮れ高”を提供してあげようという思いやりからのようであった。

 リスペクトすべき対象として、私の亡き母親と重なる部分が多かった。安易にいい加減な妥協はせず、人を包み込む包容力とは反対に、人に弱音を吐いたり頼ったりはしない。生活の端々に”利他”が滲み出ている。ふと母の姿を思い浮かべながら、在りし日を想った。

 私が小学生の頃、スーパーで買った焼き鳥などの串に刺さったものを食べ終えて後片付けをする際、いつも半分に折ってもう半分に折ってと、細かくして捨てていた。いつもいつも。「手え汚れるし、なんでそんなことわざわざしてんのん?」と幼心に尋ねた。すると母は、「ゴミの収集をする人が、刺さって痛い思いしたらあかんやろ…」と当たり前のことだとように言った。見えない他者を慮る姿がそこにあり、ずっとそれを見て育った。

 これは数ある中での一つのエピソードにすぎないが、母の子育て・教育は、全て自らの背中で示していたような気がする。母に対する反抗期というようなものは1秒もなかった。反抗する要素が全く無かったから当然の事かもしれないが…。勉強しろ、何時までに帰って来なさいなどというような、規制も門限も指図も皆無だった。母に恥じることのないように、母を決して悲しませることのないようにという、目には見えない太い1本の筋はずっとあった。それが自己規制となり、道標になったのだと思う。亡くなった後も、会う人皆口を揃えて「素敵な人だった」と絶賛する。私は謙遜することなく“胸を張って誇れる”のだ。

 太い1本の筋はまだ長く続いているんだなと改めて想う。

サザンオールスターズ

2008-08-24 | 小魔人が歩んできた歴史

数日前から新聞広告には告知が何度も出ていた。

サザンオールスターズの30周年記念ライブ「真夏の大感謝祭」の放送。

今年いっぱいで活動の休止を宣言しただけに、是非、見たい。
残しておきたいと楽しみにしていた。





最初に映像で出てきた小林克也氏の前説に始まり、
オープニングからアンコールまで、感動溢れるステージだった。

「うわああ…、現場が羨ましいなあ」ってすごく思った。

サザンのコンサートには、かつての若き日、
一度だけ行ったことがある。

あれは、淡い高校生の時だった。

南海ホークスのホームグラウンドだった大阪球場でのステージ。
(っていうと、ものすごく昔って感じがして嫌やな…)

この年は原由子の妊娠産休だったので、コンサートツアーのコーラスに
EPOが参加していた。EPOも好きなシンガーだったので、とてもラッキー
だったと覚えている。

そして、そのコンサートの日は、私の誕生日だった。
カノジョがチケットを用意してくれ、誕生日のプレゼントとして
一緒に行った。

そして、コンサートが始まり、
オープニングの曲は何かなあって、言うてたら、

なんと、
「Happy Birthday」 という曲だった。

えええ~を顔を見合わせた。


そんな思わぬサプライズがさらに懐かしい思い出を印象づけている。


小魔人のマラソン

2008-04-16 | 小魔人が歩んできた歴史

前回、ロンドンマラソンに出場したマサイ族に関する情報をお伝えしましたが、
マラソンと言えば、

小魔人も大学生の時、一度だけだが、フルマラソンを経験している。

フルマラソンはおろか、ハーフマラソンすら未体験だった私だが、
小さい頃から第二寝屋川の土手を走りまくっていたので、
足には自信があった。

一生に一回は、42.195km走らななあと、漠然と思い描いていた。
そして、どうせなら、国内ではなくて派手にいこう…と、
友人2人を引き連れてホノルルマラソンに挑戦することになった。

大会当日、まだ夜明け前の暗い中をスタート地点のアラモアナ公園にたどり着いた。
スタートラインに並ぶ、と言うより群衆の中に紛れ込む、と言った表現の方がしっくりいく。
午前5時にスタートの号砲とともに何発もの大きな花火が打ち上げられた。

皆一斉にスタートを切って…と、言いたいとこだが走り出さない。

あまりの人数に、まずスタートラインに向かってじわじわ動き出したのが精一杯。
けれども、気分はすごくハイテンションだった。

ワイキキを通りダイヤモンドヘッドやきれいなビーチを眺めながらの素晴らしい
コースを走ることができるのがこの大会のいいところだ。

もちろん、悠長に景色を楽しんでいる余裕なんてないのだが、
おいしい空気を吸って走れるのが何よりだ。

住宅街では住民の方々が沿道へ出て応援してくれ、非常に励みになる。
もう駄目、ここまでかと頭をよぎった時にも、
「異国から来た、見ず知らずの素人ランナーのために一生懸命応援してくれ
ている人の目の前で足を止めるわけにはいかない」と、勇気が湧いてくる。
メロスになった気分だ。

最後まで何とか足を止めることなくゴールに辿り着いたときには、
ふらふらだった。とにかく全員無事完走できてよかった。

ホノルルマラソンを完走した人「フィニッシャー」のみに与えられる
フィニッシャーTシャツは、今でも大切な宝だ。

翌日のホノルルの街には、
まともに歩けず、ロボットのようにギー、ガチャン、とかいう感じで
音が鳴ってそうな、筋肉痛の若者たちの姿を大勢目にしたのが印象的だった。


日本サッカーリーグ

2006-06-06 | 小魔人が歩んできた歴史

いよいよサッカーのワールドカップが近づいてきたが、

1965年の今日、6月6日はJリーグの前身となる
日本サッカーリーグが誕生した日である。

当時、全国的規模のリーグ戦はプロ野球以外にはなく、
日本アマチュアスポーツとしては初の全国リーグとなった。

サッカーの黄金時代の幕開けとなる1964年、東京オリンピックが開催され、
中でもチケットの取りやすかった(試合数が多くかつマイナーだったので)
サッカーを見る人が多く、そして、7位と好成績を収めた日本代表の影響もあり
サッカーブームが到来したのである。

そして、その時のコーチであるクラマーさんの助言によって、
1965年にいつかはプロに・・・という願いを込めて、日本サッカーリーグが誕生した。

これが1968年のメキシコオリンピック 銅メダルの原動力となったのだった。

1960年代から1970年代にかけては東洋工業、ヤンマーが実力的な中心的存在で、
釜本邦茂選手はリーグを代表するストライカーだった。

私、小魔人はずっとサッカー少年だったのだが、
少年時代には今とは違って、サッカーをテレビで放送していたのを
見た記憶はほとんどなく、釜本・奥寺(ドイツに移籍)くらいは選手も知ってはいたが、
~選手に憧れてというようなこともあまりなかったと思う。

やはり、プロ組織があるとないとでは全く世界が違うのだろう。

学生時代、クラブ活動でずっとサッカーをやってきた。大学を出て、
ベスト学習会で教鞭を執るようになってからも、サッカーが恋しくなり、
高校時代のクラブの仲間を集めてオッサンチームをつくった。

草野球みたいな「草サッカー」といったところであろうか…。

そして、本格的に公式のリーグに参加しようと、
この、日本サッカーリーグ、いわゆる社会人リーグに加盟したのだ。

ピラミッド型になっている組織の頂点にJリーグが君臨し、その下にJFLから5部までの
下部組織の広がりとなっていた。

もちろん5部からスタートなのだが、その行く末にはJリーグが存在するという、
万人が夢を見ることのできるような構造になっていた。

別の見方をすれば、その組織のタッカイ会費は、上納されていたのだろう…
と勝手な解釈をし、
「俺らがJリーグを支えてんねや…」などと、好きなように言っていたものだ。

そして、リーグ戦では、第3者チームが持ち回りで審判をするのだが、
そのための審判グッズもきちっと揃えなければならなかった。

あの真っ黒な審判ユニフォームやホイッスル、ラインズマン・フラッグなどを
購入した際には、家で試しに身に付けて、レッドカードとイエローカードを
振り回したものだった…。(「ばっかみたい」、という声が聞こえてきそうだが…)

しかし、残念ながら、実際の試合で審判をしたときには、ついに
レッドカードもイエローカードも使用することはなかった。
私の心の中の悪魔はささやきで、
「いっぺん、軽はずみにでも出してみたいなあ…」
という衝動はあったのだが、もう一つの、心の中の天使が食い止めた。

いろんなグランドで練習し、試合でいい汗を流し、とても充実した
オッサンサッカーチームだった。

しかし、それから数年が経ち、
体力の衰えを感じ始めた頃(今のジダンの心境ってとこか…、(。。;) \(゜o゜#; んなエエもんかッ!)

膝の痛みを感じ出し、精密検査をしてみると関節に腫瘍ができていて、
切開手術をして除去せねばならないと言われた。

というようなわけで、呆気なく終焉の時が訪れたのである。

今も…、ユニフォームやスパイク、審判グッズなどひっそりと眠っている。

「夏草や兵どもが夢のあと」

これからのワールドカップ開幕が楽しみだ。


なんと、小魔人が世界ランキング42位に…

2006-04-11 | 小魔人が歩んできた歴史

この度、私、小魔人が、な、な、なんと、世界ランキング42位に輝きました。

すげぇ~  ( ̄ー ̄)ノ▲▲▲おめで島♪▲▲▲ヽ( ̄ー ̄)

え、何が何が…って感じでしょ。

実は、

「ギザジュウ・コレクション」なんです。

こちら、
リアルギザジュウコレクター世界ランキング のサイトに登録されています。

※ギザ10【ギザジュウ】とは、
昭和26年~昭和33年(昭和31年は製造していないので、7年間)に発行された10円玉で、周囲にギザギザが入っているモノの通称。
特に、昭和33年の「ギザ10」は、発行枚数がわずか約2500万枚と少ないので、なかなか手に入らない。
                     右の写真は、我が昭和33年モノ →

この歳になって、世界ランキング登録のため、集めてきた我がギザジュウをちまちまと年代ごとにカウントしたときには、さすがにチョッピリ寂寥の思いがこみ上げた。と同時に、大変な作業だった。

小魔人(Japan代表) キザ10現在保有枚数

26年   46枚
27年  290枚
28年  295枚
29年  324枚
30年   71枚
32年   35枚
33年    6枚

合計 1067枚 どうじゃい!

地味やなあ、なんて言うな!

私の誇る、立派なコレクションなんじゃ。

今や、ギザジュウは、ネットオークションなどにも出品されているのだから驚きだ。


私がまだ、黄色いザルそばを食べていた少年時代の、たしか小学校2年生の時だったと思う。私は親が営んでいた蒲鉾屋の手伝いに(というか、できたての蒲鉾や天婦羅をつまみに)店に出入りしていて、釣り銭の中にタマに混じっている、古ぼけた周りがギザギザの10円玉の存在になんとなく興味(愛着?)を持った。

やがて、世の中から失われていく → 希少価値 → 置いておけば価値が上がる → 儲かる

というような単純な図式も頭に浮かばないでもなかった。

そして、遠い昔のことなので、どのようなきっかけでいつ決心したのかは定かではないが、ある日を境に全く使わずに、貯めておくようになった。そういえば、ギザ10の形の貯金箱を今でも持っているのだが、それを手に入れたときがきっかけだったのかも知れない。

それからというもの、自動販売機でもコンビニでも何か買い物をしたときに、釣り銭として受け取った10円玉の側面をチェックする日々が始まった。見つけたら、家に持ち帰るまでジーパンの右前のポケットの、さらに内側のちっこいポケットに大切にしまった。あのポケットはギザジュウのためにあったのだろう…。

そして、雨の日も風の日も、ひたすら側面をチェックした。
血と汗のにじむトレーニングにより、(何もにじんどらんか…)
ポケットの中で盲牌によって確認することができるまでの腕前にもなった…。

見つけたときの『 プチ幸福感 』はなんとも言えないものだった。

AMラジオ全盛期の時代、私が中高生だった頃によく聞いていた番組で、『鶴瓶・新野のぬかるみの世界』だったか『ヤングタウン』だったかで、ギザジュウのコーナーなるものもあった。それが今や、ギザジュウやツルジュウなんて言葉すら認知度が非常に低くなった。

たかが10円、されど10円…

かれこれ20数年を経て、今やすっかりオッサンになってしまったが、この間ギザ10に対する熱い想いは冷めることなく継続した。途中で、額面金額以上の価値はほとんど期待できないものなんだということも漠然と理解した。それでも、もうそんなことはどうでもよく、「今更、こいつらとは離れられねえよ…」ってな具合で、ずっと続いている。

そしてこれからも続くだろう…。フレーヾ( ̄0 ̄ゞ)( 尸ー ̄)尸_フレー


ジョン レノンの命日

2005-12-08 | 小魔人が歩んできた歴史
深夜いつものように塾を出、帰宅の途につこうと車のエンジンをかけると、カーラジオから「ハッピー・クリスマス」のメロディが流れてきた。曲を終えるとすぐに、次は「イマジン」が…

あっ、そっか、今日(12月8日)はレノンズデー(Lennon's day)か…。と気付いた。
ジョン・レノンの25回目の命日だ。ジョン・レノンが亡くなってから早くも四半世紀が経つ。

1980(昭和55)年、ビートルズの中心メンバーであったジョン・レノンはニューヨークの自宅アパート前で熱狂的なファン、マーク・チャプマンの放った凶弾に倒れたのだった。後続のミュージシャンに大きな影響を与え、今も与え続けているという意味でとても偉大な存在だ。どの曲を聴いても、古臭いという感じが全然しない。

小魔人は、少年期から何かとジョン・レノンと関わってきた。小学校5年の時くらいだったか、初めて購入したLP(“LP”って、懐かしい響きや…)はビートルズの「アビーロード」だった。その他も、ビートルズ後期の曲を好んで聴いたものだ。

その後、ビートルズCINEクラブというファンクラブに入会した。断っておくが、白黒テレビに映し出される、「しらっじゅ、いぇ~いぇ~いぇ~!」っていう音楽とともに熱狂する女性ファンが卒倒するというような、そんな時代をリアルタイムに経験したわけじゃありません。そんなにオッサンとちゃうわい!(`Д´メ)

CINEクラブというのは、ビートルズ解散後のファンクラブで、映画やフィルムを通じてファンが集うというものだった。小学生のガキのくせに、中ノ島の中央公会堂まで友人とフィルムフェスティバルというイベントに行ったものだった。さすがに小学生は僕たちだけだった。

中学での英語の勉強なんてものは、洋楽をもっと理解し、歌詞を口ずさんだりできるようにと、必死になって勉強したものだ。とても充実感があった。今の中学生の子ども達は、残念ながら、私たちの世代の多くが経験した、音楽と英語の勉強を結びつけるということがなかなかないのが残念だ。洋楽や洋画への憧れは、モティベーションを高めてくれたものなのだが…。

高校生の時は、音楽選択の授業の自由楽器のテストで、「LET・IT・BE」や「Imagine」を弾き語った。イキってただけで、自己満足の域を脱しないのだが…

ところで、“ファンクラブ”ということでは、私は生涯に、4つ経験したことがある。
① 「近鉄バッファローズ」小4~5年くらいかな? 今思えば、別に近鉄が好きなわけでもなかったが、当時、同級生は8割が近鉄の帽子をかぶっていた。 ノリで入らなしゃあないってかんじだった。ニッセイ球場や藤井寺球場にも何度か通ったものだ。

② 「サイボーグ009ファンクラブ」小5? なんでこんなのに入ったのか、今だによくわからない。たぶん、アニメ好きの友人に引き込まれただけだと思う。

③ 「ビートルズCINEクラブ」小5~6年?

④ 「Jリーグ・ガンバ大阪」 これは大人になってから…

2005年は、ジョン・レノンの生誕65年・没後25年の節目で、ジョン・レノン・アニヴァーサリー・イヤーを記念し、オリジナル・アルバムが発売された。早速聞いてみることにしよう。

名前のルーツ

2005-10-10 | 小魔人が歩んできた歴史
前回の命名に関しての話に続いて、今回は苗字に関しての話題を…。
私、小魔人は「別宮」という風変わりな妙字、いや、苗字である。

アメリカ人のミュージシャンのBeckと同じなのである。
少し前、深夜にやってたロックバンドのアニメのタイトルでもあったっけ。

あるサイトで、全国の苗字ランキングっていうのがある。
これで見てみると、5800位だった。何と言うか…、ビミョー。

関心のある方は、一度自分のも確かめてみては。
全国の苗字(名字)
または、
日本の苗字7000傑
でどうぞ。

かつて、この苗字のルーツを探し求めたことがあった。
生まれ故郷は愛媛県今治市。タオルの生産が日本一。
しまなみ海道が開通して名前が売れたかな。
その今治には、別宮町という地名がある。(たしか、大阪の八尾市でも一度地名らしきものを見かけた覚えがある…)

愛媛県今治市では、別宮橋・別宮小学校など、結構、あちらこちらに見かけた。
今治城の歴史資料館で見た、郷土年表では、たしか712年に別宮神社建立ってあった。
まあ、これが何らかの縁があるんやろなあって、自分勝手に納得した。

まあ、何はともあれ、この苗字のおかげで幼い頃から不快な思いをしたことも数々…。
特に、よく遊んでいたY君という友達で、耳の遠いおばあちゃんがいる家に電話をした時、
毎度毎度、変てこな伝言メモが電話の横に残されていたのだ。

~2:00 ベット君から電話~ 家具じゃねえよ!
~3:00 ベープ君から電話~ 蚊取り線香とちゃうわい!
~5:00 ベン君から電話~  欧米かッ!!

という具合で、そのおばあちゃんには参った。
とうとう、私の名前は覚えてくれずじまいだった。

破壊王 永遠なれ…

2005-07-25 | 小魔人が歩んできた歴史
脳幹出血により11日に急逝した”破壊王”橋本真也選手の追悼番組が放送されました。数々の名勝負を目にし、破壊王の名の通り、壮絶な試合をやってきたんだなあと、改めて感じました。

橋本真也選手は、武藤敬司(全日本プロレス)・蝶野正洋(新日本プロレス)と共に、闘魂三銃士として、新日本プロレスの一時代を築き上げたレスラーでした。その中でも、重爆キックを武器にIWGPヘビー級のベルトを通算20回もの最多防衛を果たすなど、存在感を発揮していました。

引退をかけた小川直也戦に敗れ、2000年4月に一度引退したものの、復帰を祈願して、110万羽もの折鶴を贈られるなど、ファンからの応援を受ける形で9月に復帰しました。直後に新日本を退団し、11月に新団体ZERO-ONEを立ち上げました。その後、自身の右肩痛と経営不振により、昨年11月に活動を停止し、右肩を手術し、リングから遠ざかっていましたが、リハビリをしながら復帰を目指していた矢先に訪れた不幸でした。

小魔人は少年時代から新日本フリークでした。小魔人が小中学生時代は、新日本プロレスはテレビでゴールデンタイムに放送されていました。毎週晩御飯を食べながら見ていたものでした。今思えば、流血にまみれた激しい格闘を見ながら食事をするなんて…と、ちょっと不思議な感じもしますが、そもそも母親がアントニオ猪木のファンだったので、何の抵抗もなかったのでした。サーベルを片手にしたタイガー・ジェット・シンや上田馬之助が、リングの上で血まみれになって大暴れしている姿を見ながらも、食事はフツーに進み、チャンネルを変えようなどということは全くなかったものでした。

アニメのタイガーマスクを見て育ち、初代タイガーマスクに熱い視線が釘付けになったという世代の小魔人。少年の頃は、タイガーマスクの覆面をよく手作りしたものでした。果物を買ったときに入れてもらう茶色い紙袋を調達し、目の位置をくり抜き、極太マジックでトラの頭部の縞模様を書いて仕上げました。破れてはまた新しいものを作りで、すごい数を作ったものです。

これまでの長いプロレスの歴史の中でも、特に小魔人は、闘魂三銃士が好きだった。3人とも、切れのある、斬新な、カッコいい技を次々と見せてくれました。

蝶野と武藤と共に三銃士興行というような形で、3人がもう一度同じリングに上がる姿を見てみたかった…。

ご冥福をお祈りいたします。

黄色いざるそば

2005-07-02 | 小魔人が歩んできた歴史
「おっちゃあ~ん! 黄色いざるそばあぁぁぁぁぁぁ!」
勢いよく駆け込んできて、カウンター席に腰掛けるのが早いか、注文が先かという少年時代の小魔人の姿がそこにあった。

「またかあ~! たまには黒いざるそばも食べえや…」
「いやや! 僕は黄色いのがいっちゃん好きやねん。ごちゃごちゃ言わんと作ってえな。」

「はい、お待ち!」月見のオッチャンが器を置くと、すでに割り箸を割って臨戦態勢で構えていた小魔人は、「ありがとっ!」と小声で答えるのだが、すでに、口はもごもご言っているのである。(;^_^A

「…、ズルズルズル、…」
「坊主、それ何食うてんねや?」
一つ席を挟んだ隣の席に陣取って注文を待つ、見知らぬオッチャンが聞いてくる。

「…、ズルズルズル、…、ズルズルズル、…」
小学生時代の小魔人の食べ始めの勢いは、知らんオッチャンからのどうでもええような質問に答える余地をはさませないのである。

「ああ、それ、この子のオリジナルのメニューや…」
と、しょうがなしに月見のオッチャンが返答する。

この、月見のオッチャンとは、このカウンター席だけのうどん屋「更科(さらしな)」の店主である。客の誰かが月見うどんを注文した際、必ずといっていいほど、「つ・き・み…」と復唱しながら、ただでさえ大きな目を、「オイオイ、こぼれるで…」と心配するくらいひんむいているのである。誰かが月見うどんを注文するたびに、小魔人は月見のオッチャンの顔を凝視した。しばらくだれも注文しないときには、寂しくなって、別に対して好きではないのに、自ら月見うどんを注文するのだった。そんな店主に、面と向かって言っていたわけではないが、いつも心の中で、「月見のオッチャン」とつぶやいていたのだった。小学生時代の小魔人には、まだ、面と向かって口にするほどの勇気は持ち合わせてはいなかった。

「更科」は、当時、20店舗ほどの個人商店が軒を連ねる、“スーパー名店街”の一角にあったうどん屋で、小魔人の親も、この中で、蒲鉾屋を細々と営んでいた。うどん屋といっても、今の時代と比較するとかなりアウトローな側面があった。メニューには焼飯や焼きそばがあるわ、常連客のオッチャンは注文を済ませて、向かいの寿司屋で巻き寿司を買ってきて、うどんと一緒に堂々と頬張っているわというようなアットホーム?な雰囲気でした。
小学生にもかかわらずえらそうな最年少常連客であった小魔人も、「カマボコいらんから、てんかすたっぷりな!」とオーダーした素うどんに、自分の店から持参した“平天”や“生姜天”を浮かべて食べたものでした。別に苦情を言うこともない月見のオッチャンのことをいい人だと思っていましたが、今思えば、腹の中は煮えくり返っていたことでしょうね。


何がきっかけで、思いついたのかは定かではないが、ふと、「黄色いざるそば」を久々に食べてみたいなと心に浮かんだ。レジが並ぶ現代の“スーパー”で中華そばの麺を買い求め、20数年振りに食してみた。そこには、少年時代の勢いはなく、恐る恐る一口ずつかみしめてという具合だった。

しかし、その味覚が、長年封じられていた玉手箱の紐をほどいたかのように、ほとんど完全に記憶から失せていた、「更科」の店の名、店主の顔をはじめとして、コンロの形状といった細部に至るまで、鮮明な記憶として一気に蘇ってきた。
これは、文字として記録しておかねば…、という衝動に駆られ、ここに、自伝的ノンフィクションとして、小魔人の少年時代を記すこととなったのです。

このブログを目にした方は、ぜひ一度、お試しあれ…
レシピを紹介しておき…
などというような大袈裟なものではなく、どこにでもある中華そばの麺を湯がき、どこにでもあるそばつゆ(めんつゆ)を使って、普通のざるそばを食べるのと同じ要領で食べるだけです。

じゃあ一度とトライしてみた方は、よければ、コメントにて一言感想をお願いします。

「そんなんやったら、冷やし中華の方が… 」
「ぶわっかも~ん!」(小魔人が目をむきながら)
(ノ`m´)ノ ~
   ┻━┻ (/o\)

中華麺のほんのり甘い味と、純和風のつゆのハーモニーが何とも言えない絶妙な味を引き出すのです。

嗚呼、もしもできることなら、月見のオッチャンがつくった、ホンモノの「黄色いざるそば」をまた食べてみたいもんやなあ~