[ 小魔人の小部屋 ] 枚方市の学習塾“ベスト学習会”の別宮利彦の一昔前の回顧録

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別宮利彦の『小魔人の小部屋』
こっそり垣間見てにんまり微笑んでください

坂本龍馬

2006-01-26 | 歴史カレンダー

Tomuo殿、コメントありがとうございます。
Tomuoも聖地である「霊山護国神社」に行ってたとは、なかなかやるなあ…


  若き日の小魔人のハズカシpictureその1


こんな感じで、部屋の壁には、桂浜を訪れたときに買った
龍馬のポスターがあり、なぜかパジャマ姿で龍馬の格好をしている。


「長い刀は実践の役に立たぬ! わしゃあ、これじゃき…
と言って短い刀をすすめ、次に会った時には、懐中から

「今の時代はこれじゃき…」と、ビーフジャーキーを取り出して、ひとかぶり ...


などと、馬鹿なこととしていた。
            ( -_-)ノビシ*)゜O゜) あぅ

これも桂浜で買ったかなあ。
一度、落っこちて“ポキッ”とクビがとれたことがありましたが、
なんとか接着剤で引っ付けて、
現在もほこりを被って、毅然と立ってます。


薩長同盟の日

2006-01-21 | 歴史カレンダー

江戸時代末期の1866年の1月21日、薩摩藩(現在の鹿児島)と長州藩(現在の山口)との間で、政治的・軍事的同盟が結ばれた。


ペリーの黒船が浦賀に来航してから10年。幕府の権威は地に落ち、強い影響力を持った藩である薩摩藩と長州藩は倒幕の思想では共通していたが犬猿の仲であった。西郷隆盛・大久保利通らの薩摩は、1864年、会津藩と組んで長州を京都から追放するクーデタを起こしたり(八月十八日の政変)、これに対して反撃した長州を大敗させたり(禁門の変)、第一次長州征伐で薩摩が長州を屈服させたりするなどし、両藩は感情的に対立していた。


そこで薩摩・長州双方に縁のある土佐藩脱藩の坂本龍馬や中岡慎太郎が間に入る形で、双方の実力者の会談をあっせんし、手を握らせようと考えた。下関での会談を西郷隆盛が直前に拒否するという事態もあったが、1866年1月21日に、京都の薩摩藩邸で薩摩の西郷隆盛と家老の小松帯刀、長州の桂小五郎(木戸孝允)が、倒幕運動で幕府との開戦・非開戦および勝敗いずれの局面においても両藩が協力すべきことで協力するなど6か条の同盟が成立した。

双方のしこりと疑念をなんとか晴らそうとした龍馬は、長州藩の「武器」、薩摩藩の「米」という、互いに不足しているものを贈りあうという、独創的な仲介によって、最も険悪な仲であった両藩が高い垣根を越え手を結ぶこととなった。

私、小魔人もかつて訪れたことがあるが、東山の急な登り坂を突き進んだところに霊山歴史館がある。ここには多くの幕末関係物が展示されており、新選組関連の展示もある。また、この博物館に隣接する所には、京都霊山護国神社という、幕末から明治維新にかけて、国事に紛争した志士たちを祀る神社がある。山の斜面におびただしい数の墓がある。中でも特に目を見張るのは、銅像のすぐそばにある標坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓だ。ファンからの千羽鶴やお供え物がいつも絶えないようで、龍馬の根強い人気が感じられた。


     世の人は 我を何とも 言はばいへ
       我が成すことは 我のみぞ知る

これは坂本龍馬が19歳のときに詠んだと伝えられる歌だ。
「他人に何と言われようが関係なく、自らが信じるところを成す」・・・自分の可能性を信じて、精一杯に生きる、龍馬自身の生き方を物語っている歌だといえる。

たしか、『その時、歴史が動いた』でも、この歌で締めくくってたなあ…。(^▽^)ゞ


754年 唐の高僧・鑑真が来朝

2006-01-16 | 歴史カレンダー
754年の今日、1月16日に、唐の高僧・鑑真が遣唐副使・大伴古麻呂に伴われて日本にやってきた。5度の航海失敗で失明し、6度目にしてやっとその思いをかなえることができた。

なぜ、鑑真が国禁(当時は国外に出ることは禁じられていた)と命の危険を冒してまで、日本に渡ったのか。また、それをなぜ、弟子でなく高齢で地位も確立した鑑真に望んだのか。中学の歴史の教科書にもそのような記載はなく、ただ、盲目になりながらも日本に渡航した偉いお坊さんというように紹介されているだけだ。

日本に仏教が伝えられてから200年経った、天平文化で有名な聖武天皇の時代には鎮護国家の思想の下、中央に東大寺・薬師寺などが、地方に国分寺・国分尼寺が建立されて、仏教は大いに栄えていた。しかし、そのような時においても、なお日本にはまだ正式な僧侶は存在しなかった。何故かというと、仏教において正式な僧侶となるためには、三師七証(3人の僧と7人の証人)による授戒が必要であるが、戒律(仏教において守らなければならない、道徳規範や規則)を伝え、それに基づいて僧侶の認定を出来る資格を持った僧が日本にいなかったからである。国家仏教を完成させるためには、中国(唐)から日本に授戒僧を招くことが必要であり、聖武天皇は強くそれを望んだ。

鑑真は、唐の揚州江陽県の生まれで、14歳のとき出家。今で言えば中学2年生にして出家したということになる。当時律宗が盛んで、鑑真もあちらこちらと高僧を歴訪して研鑽を重ねていた。733年の遣唐使とともに入唐した興福寺の僧・栄叡と大安寺の僧・普照は、中国各地を旅し授戒僧の派遣を懇請したが、目的を達することなく、むなしく10年が経過した。揚州に入り、大明寺の高僧鑑真に会い、授戒僧の日本への派遣を懇請した。しかし、鑑真の弟子たちは、誰一人、この要請に応じる者はいなかった。日本行きは国禁を犯す重罪であるばかりでなく、日本への渡海は、航海技術の未熟な当時においては、命懸けの危険なものであったからである。その時、鑑真は既に55才と高齢であったが、留学僧たちの熱心な懇願に、「誰も行かぬなら我行かん」と決然と応えたという。

しかし、日本へ渡ることを決意したものの、鑑真の徳望を惜しむ皇帝の反対や、暴風・盗賊などの難にあい5度にわたり失敗し、ついに潮風に侵されて失明した。第6回目は密かに遣唐使の船に便乗し、753年12月、数々の苦難を経て、渡航を志してから12年目にして九州に到着した。東大寺大仏開眼の次の年であった。ときに鑑真67歳。度重なる困難にも負けず初志を貫徹した鑑真等の不撓不屈の精神力は驚くべきものである。

翌年1月平城京に到着。勅命(天皇の命令)により東大寺に居を定め、戒壇(僧侶に戒律を授けるために設けた壇)の建立と授戒伝律を一任された。

同年4月には、東大寺大仏殿前に戒壇院を設け、上皇から僧尼まで400名に戒律を授けた。759年に、わが国唯一の戒律専修道場として、唐招提寺を創立した。

鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。そして、763年、76歳で波乱の生涯を終えた。

私、小魔人は、国宝になっている、鑑真の弟子の忍基がつくった鑑真和上坐像をこの目で見てみたいと、かつて唐招提寺を訪れたことがある。が、ちょうどそのとき、唐招提寺の本殿の大改装工事が行われている最中だった。

入り口の受付のおばちゃんに、「今、改装中ですから~、残ネ~ン!」みたいなことを言われた。

 ( ー_ー)_中☆{{{Д}}} カ・ル・ロ・ス ゴーン!!

  <(゜0゜;)> え…マジ? 

鑑真和上像を見られないのなら、お寺だけを見てもなあ…と、結局、中に入らずに、薬師寺に行った。その後、まだリベンジを果たせぬままである…。


テレビは貴重な学習材料

2006-01-13 | 頭の栄養になるテレビ番組
一般に、テレビ・ゲーム・マンガは勉強の邪魔となり、家庭学習の妨げとなる3大害悪だと考えられがちだ。
しかし、番組を選びさえすれば、テレビには、知的好奇心を呼び覚ますという大切な効用がある。
いけないのは、別に見たくもない番組を長時間何となくボーッと見ることだ。
見るべきものを選んで、見るべきものを絞るということが肝心だと思う。

家族で一緒に、ためになるテレビ番組を見ながら共通の話題や疑問についての対話をすることによって、興味や関心を引き出すということも簡単にできる家庭教育の一環といえる。

メディアを活用することのメリットとしては次のようなことが期待できる。

① 気楽に楽しみながら好奇心を持つことができる。 
② 印象として鮮明に頭に焼きつきやすいので、長時間たっても残る。
③ 知識を得ることの喜びを感じることができ前向きな勉強につながる。

学習教科に関連するジャンルとしては、社会・理科が多くを占めるが、この2科目の勉強には理屈やセンスとは違った、経験的な知識の集積が必要となる。
実体験としては経験できないまでも、メディアを通じて間接的に世界を仮想体験でき、科学の不思議に足を踏み入れることができる。

映像から得る驚きや衝撃の情報価値としては、読書に勝るとも劣らない材料となる。
「ェェ(゜ロ゜;)ェェ!そうなのか。」「なるほど、そういうことやったんか…。」というような感じ方ができれば、それは潜在的な知識の源となり、以後教科書や問題集で、その知識に関連するような問題に出くわしたときに、「ああ、これはあのときの…」と、大ヒントが与えられたようなもの。
そうなれば、そこから解答へと導くのは容易なことだ。

ただ、残念なことに結構いいなと思う番組は、子どもが学校に行っている間に放送してたりすることもままある。

特に勉強に直結するなと思うイチオシの番組は、

「いっこく堂」が出演している にんげん日本史
NHK 教育: 毎週水曜 午前11時15分~11時30分
NHK BS2: 火曜(月曜深夜)午前4時30分~4時45分

この番組のホームページも、内容盛りだくさんで、非常にためになるものだ。
番組のサイト内の〈ばんぐみ〉というコーナーをクリックすると、テレビ放送した番組と全く同じものをバックナンバーとして動画で掲載している。テレビで一度見たものも、そうでないものも、再度映像でじっくり振り返ることができる。過去に放送したたくさんの内容がネット上で見れる。

歴史が嫌いだと先入観をもっている小中学生も、好きだから、もっと知りたいと思う小中学生も、一度覗いてみよう!!( ^o^)ノ

エジソンと石清水八幡宮

2006-01-08 | あるある探検隊

前回のブログの続きというような記述ですが…

さて、タイトルをごらんになって「なんじゃこれ?」と思ったかもしれない。
しかし、石清水八幡宮に参詣したことのある人ならピンと来たでしょう。

初詣に行ったとき、まず、京阪電車の八幡駅前のロータリーに、エジソンの胸像を見つけた。

 ちょっと怒っているような表情だった…


ロータリーの中央には、竹と白熱電球のオブジェの非核宣言都市のモニュメントもあった。
しかも、この駅前のお土産店などが軒を連ねる商店街は「エジソン通り」と呼ばれている。

お参りを終えた後、立ち寄った男山山頂付近の神苑内にある食堂や売店などがあるレストハウスがある広場の一角に、デーン!と『エジソン記念碑』があった。

 立派な記念碑の後ろにも竹が生い茂っていた

エジソンは、生前、最大の発明は何かとの質問に、彼は白熱電球と電気システムであると答えたそうだ。その白熱電球の実用化にこの地の竹が貢献した。

エジソンは、幼いころから人一倍好奇心が旺盛で、“なぜ?どうして?”を連発し、大人を困らせたようだ。1876年、ニユージャージー州に研究所を建て、1878年に「エジソン電灯会社」を設立し、白熱電球の研究に取り組んだ。そして32歳のとき、綿糸を炭素フイラメントにした白熱電灯が45時間も輝き、人々の顔をはっきりと照らした。

実用化のためには長時間灯し続ける必要があると考えてたエジソンは、フイラメントの改良に取り組み、全世界から集められた6000種類にも及ぶいろんな材料を炭にして実験をしていた。ある日、偶然机の上にあった竹の扇子を見つけた。その竹をフイラメントに使ってみると、200時間も灯った。フィラメントの材料に竹が適していることを知った。そして、当時の金額で10万ドルをかけ、全世界へ材料を探すため20人の竹採りハンターたちが派遣された。

1880年、エジソンの助手のウイリアム・H・ムーアーが日本に来日。時の首相伊藤博文、山県外務大臣と会い、「竹なら京都へ」とのアドバイスされた。そして、八幡男山付近の竹が約2450時間も灯り、最もよい成績であることを発見した。この地域は、鉄分が豊かな土質のもと、柔軟で堅固な竹を産していた。

その後、八幡の竹は1894年に セルローズのフィラメントに取って代わられるまで 10数年にわたりエジソン電灯会社に輸出され、八幡の竹を用いた白熱電球が毎年何百万個の馬蹄型フィラメントの白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯し続けた。

身近な場所に、偉大な人物の足跡があったものだ…。

エジソン記念碑には、彼のあの有名な言葉がされていた。ヽ(^_^)ノ


Genius is one per cent inspiration and ninety-nine per cent perspiration.


天才とは1%のひらめきと99%の汗の結晶である。”

Thomas Alva Edison


 


合格祈願!!

2006-01-03 | 日常の1コマ

1月2日は、これまでも何度か参っている成田山不動尊に初詣に行った。
塾生の合格祈願、「ゴーカク…、ゴーカク…、ゴーカク…」と祈る。
例年はいつも車で出かけるのだが、今年は家から徒歩で出かけた…。

1月3日は、京阪電車の「おけいはん1day切符」で、神社巡りをしようかと思っていたが、
結局、石清水八幡宮 オンリーの参詣となった。

露天もすごくたくさん出てて、賑やかだった。
山上の本宮への道のり、昨日も結構歩いたんで、とりあえず上りはケーブルカーで行くか…
と乗り場へ行ったのだが、

   w(゜O゜;)w ワオ! なんじゃこりゃ!?

整然と蛇行している行列の様子は、USJかと勘違いさせる光景であった。

並んだところで、楽しいアトラクションがあるわけでもなし
あきらめて、山登りコースに…

でも、夏場だったらかなわんけど、からだもポッカポカになってよかったかな。

頂上へ付く頃には、マフラーを汗拭きタオルと間違えそうになっていた。(チョイ大袈裟…)
こちらでも、「ゴーカク…、ゴーカク…、ゴーカク…」と受験生の勝利を願う。

以前から年末年始に巫女さんのバイトをしていると聞いていた、塾生OGの子の姿を発見。

もちろん、邪魔して立ち話をすることもできないので、離れたところから
小さく手を振って「頑張れよ…」って感じの視線で、小魔人パワーを注入して去った。

お参りの後、別に厄年っていうわけじゃないけど、「厄除けうどん」とやらを食べ、甘酒を飲んだ。

くつろいだ後の下りコースはとてもスイスイだった。

帰ってから、「正月のクッチャネ生活のツケを払拭せねば」という思いもあってか、
ボーリングをしに出かけた。

何年振りだろうか…。

と思いきや、1投目、いきなりストライク! (*^ー^)//""
 華麗な後姿…、加齢臭じゃないぞ!

その後も思ったより順調にいき、スコアは192だった。\(^∀^*)/ワ~イ

でも、調子に乗って2ゲームに突入したはいいが、やはりオッサン…
スタミナがなく、指も痛くなり、2ゲーム目のスコアは散々な結果だった。

しかし、元気なオッサンなんで、食後のデザートのごとく、
併設されているバッティングセンターでバットを振る。

ボールってこんなにバットにあたらんもんかあ…と
悔しさと屈辱を味わう結果となった。


賀正~ん!

2006-01-01 | 日常の1コマ
  2006年

新たな一年の幕開けを迎えました。

「小魔人の小部屋」を訪問していただいたみなさま…
旧年は格別のご愛顧を賜り厚くご恩礼申し上げます。

本年も、どうぞよろしくお願いします…。

  <m(。_ 。)m> ペコリ

私の大晦日は、今年もテレビで格闘三昧でした。

しっかしまあ…
この年末年始、お笑い芸人の番組の多さにはビックリですなあ。

まあ、笑って新年を迎えるっていうのは何よりですね。

新たな一年、いい年になりますように。