知恵袋で、またこのような「質問」が投稿されています。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13207216353
質問(№2) 侵略について
「国際法で言うところの「侵略」というのは「外形的定義」で言えば、 ある国家・武装勢力が別の国家・武装勢力に対して、自衛ではなく、一方的にその主権・領土や独立を侵すこと」
↑
こういうことを主張する人がいます。
それなら、あの戦争の終戦末期(1945年8月~9月)に北方の日本領土へ侵攻してきたソ連はあきらかに侵略ですよね。
それなのになぜ国際社会はソ連の侵略を責めないのですか。
それは、ソ連が戦勝国で日本が敗戦国だからでしょう。
ということは侵略という定義があったとしても意味をなさないということですよね。
伊藤隆氏や日本政府見解が「侵略の定義は定まっていない」というのは、まさにこの点なのです。
「侵略の定義はあった」と主張する人は以上の指摘に対して
どのような説明するのですか?
はい、あれはソ連による侵略行為です。
お仕舞い。
実際、欧州議会は「ロシアによる日本への北方領土の返還」を求める決議をしているんですけど、この悪質投稿者はその程度のことも知らないんでしょうか?
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E5%95%8F%E9%A1%8C
2005年7月7日付けの「EUと中国、台湾関係と極東における安全保障」と題された決議文の中で、ヨーロッパ議会は「極東の関係諸国が未解決の領土問題を解決する2国間協定の締結を目指すことを求める」とし、さらに日本韓国間の竹島問題や日本台湾間の尖閣諸島問題と併記して「第二次世界大戦終結時にソ連により占領され、現在ロシアに占領されている、北方領土の日本への返還」を求めている[108]。ロシア外務省はこの決議に対し、日ロ二国間の問題解決に第三者の仲介は不要とコメントしている。
欧州議会に限りません。
ロシアによる北方領土統治は、アメリカも認めていません。
北方四島に対するアメリカの公式見解はこのようなものです。
http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/JPRU/19570523.O1J.html
1945年2月11日の日本に関するヤルタ協定はいかなる日本領土における法的権原をもソ連邦に移譲する効力を持つ様には意図されたものではなかったし、又そうした効力をもってもいなかったということ、特に、日本に関するヤルタ協定も1951年9月8日サンフランシスコで調印された対日平和条約も歯舞群島におけるいかなる権原をもソ連邦へ移譲しなかったしこれら諸島における日本の権原を縮少せしめたものではなく、且つ、これらの文書における「千島列島」という字句は、従来常に日本本土の一部であったものであり従って正義上日本の主権下にあるものと認められるべき歯舞群島、色丹島又は国後島、択捉島を含んでもいなければ含む様に意図されもしなかったということを繰り返し言明する。
中華人民共和国も、別にそれを承認しているわけではありません。
(基本的に不介入の立場であり、中華人民共和国で発行されている世界地図には北方四島は日本領土とされています)
また、ロシアとの間にクリミア問題をかかえるウクライナでは、こんな出来事が
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASM2P43Y2M2PUHBI00X.html%3Fusqp%3Dmq331AQQCAEoAZgBifz-zLrxn7f3AQ%253D%253D
「北方領土の日」の7日、ロシア大使館前に日の丸と横断幕が並び、若者約10人が雪の中に立った。日本ではない。ウクライナの首都キエフでのことだ。
とは言うものの
実際にはアメリカも先の大戦終結にあたり、ソ連の侵略戦争を援助していますけどね。
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/biz-journal.jp/i/amp/2019/01/post_26352.html%3Fusqp%3Dmq331AQQCAEoAZgBq-y-_L2Jn4LvAQ%253D%253D
元より政治の世界は「国際法」だけで決まるようなものではなく、裏では様々な駆け引きがあるというだけの話であり
その事自体が別にソ連の「侵略戦争」を免責するわけではありません。
さて、では
なぜ国際社会はソ連の侵略を非難しないんですか、ということですけど、
非常にざっくりですが、法的な話でいうと、我が国がポツダム宣言を受け入れたことを前提に連合国により行われた極東国際軍事裁判裁判による「有権解釈」で、ソ連の対日参戦は正当なものであり、関東特別演習の実施などにより日ソ中立条約を先に破ったのは日本国と認定されています。
つまり連合国は、そのままでは「国際法違反」としかいいようがないソ連の対日参戦を免責するために、まず極東国際軍事裁判を使ってソ連に対する侵略行為を行ったのは日本側であるという「結論ありき」な判決を押し付けたわけです。
実際には、あのパール判事もソ連の対日戦争は「侵略」であると、いわゆる「パル判決文」でも認定しているんですけどね。
あくまでも参考です。
http://www.seisaku-center.net/node/108
判決のデタラメさを最も浮き彫りにしているのは、何と言っても対ソ関係への言及だと言える。
東京裁判ではソ連人の検察官が、張鼓峰・ノモンハン両事件を含む日本の一連の行動を対ソ「侵略」と主張、日本をソ連に対する侵略国であると断罪した。判決は、「ソ連に対する日本の政策」「戦争の計画と準備」「張鼓峰事件」「ノモンハン事件」などに項目をわけて、いずれの項目でも検察側の主張をほぼ全面的に認める認定を下している。
まず判決は「ソ連に対する日本の政策」の項で、モスクワ大使時代の広田弘毅の参謀本部への報告、モスクワ駐在の河辺陸軍武官の発言、荒木陸相の地方長官会議での発言、「国策の基準」、日独防共協定等々を、日本の対ソ戦争の意図を示す具体例として取り上げた。その上で、「裁判所が審理している全期間を通じて」――つまり昭和三年から二十年まで、日本は対ソ侵略戦争を企図・計画したこと、そして、この侵略戦争は日本の国策の主要な要素の一つであり、その目的は極東におけるソ連領土を占領することであったことを認定した。
次に判決は「ソ連に対する戦争の計画と準備」の項で、関東軍と陸軍中央との間に交わされた電報や重要文書、「関東軍特別演習」(関特演)と呼ばれた独ソ戦開戦後に行われた秘密動員計画などを取り上げ、結論として、日本はソ連に対して侵略戦争を計画しただけでなく、そのための「積極的準備を継続していた」と認定した。
さらに判決は、日本は対ソ侵略戦争を現に遂行したとして、二つの国境紛争――すなわち張鼓峰・ノモンハン両事件を取り上げた。
後者のノモンハン事件について言うと、判決は「敵対行為は日満側軍隊によって始められた」と述べた検察側の証言を受け入れ、同事件を日本側の攻撃により始まったと認定。その上で、同事件は日本の「侵略戦争」だったと認定する。
「明らかに日本軍が慎重な準備の後に企てたものであり、その意図は、日本軍に対抗する敵の軍隊を殲滅することであった。従って、この事件が対立する国境警備隊間の単なる衝突であったという主張は、成り立たない。これらの状況のもとにおいて、本裁判所は、この作戦行動は日本側によって行われた侵略戦争というべきものであると認定する」
以上のように判決は、日本は対ソ侵略戦争を企図・計画し、その準備を行ったばかりか、実際に遂行したと判定したのである。
ただし、我が国はサンフランシスコ平和条約第11条により、極東国際軍事裁判の諸判決を受け入れています。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/
2 この裁判については様々な議論があることは承知していますが、我が国は、サンフランシスコ平和条約第11条により、極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しており、国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはないと考えています。
また、その後の日ソ共同宣言においても、ソ連側の日ソ中立条約の一方的破棄を含む「ソ連側の侵略行為」は正否判断無しに、解決済みの問題とされました。
つまり、ソ連による侵略戦争を仕掛けられた側である日本国から、当該行為に対するクレームが出る可能性はないと言っていい状態です。
従って、国際社会が「ソ連が日本国に対して仕掛けた侵略戦争」それ自体を問題にする理由がありません。
それだけの話です。
ただし、ソ連自身はサンフランシスコ平和条約を批准することなく、これを不当な条約であるとして、一貫して否認する道を、あえて選びました。
故に北方領土問題は未解決のまま残り、国際社会がソ連の後継国であるロシアの「北方領土」に対する領有権を認めないという事態になっているわけです。
このことは、あえて言いますが
「政治的には」国後、択捉は、我が国がサンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」に含まれていないことの傍証とも言えるでしょう。
いったん、ここまでにしておきますが、必要により追記する、または新しい記事を投稿するなどにより
もう少し、今回引用したYahoo!知恵袋の「質問」を見ていこうと思っています。
追記
私自身は極東国際軍事裁判の判決文そのものを読んでいますが、「ソ連に対する日本の侵略」についての抜粋をネットで紹介したものを昨日の時点では見つけることができませんでした。
今朝見つかったので、ここに引用しておきます。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/1948Toukyousaiban.htm
(一部引用)
三、ソ連に対する侵略
中立条約
ソビエト連邦に対するドイツの攻撃
前に述べたように、一九三一年と一九三三年に、日本はソビエト連邦から中立条約の締結を求められたが、それを拒絶した。一九四一年までには、ドイツとイタリアを除いて、日本はほとんどすべての国との友好関係を失っていた。国際情勢が非常に変化していたので、日本は十年前に拒絶したことを今度は喜んで行なう気になった。しかし、この気乗りは、何もソビエト連邦に対する日本の態度の変化を示すものではなく、この国に対する日本の領土獲得の企図が減じたことを示すものでもない。
一九四一年四月十三日に、すなわちドイツのソビエト連邦に対する攻撃の少し前、日本はソビエト連邦との中立条約に調印した。この条約は、次のことを規定した。
第一条
『両締約国は両国間に平和及友好の関係を維持し、且相互に他方締約国の領土の保全及び不可侵を尊重すべきことを約す』
第二条
『締約国の一方が一又は二以上の第三国よりの軍事行動の対象となる場合には、他方締約国は該紛争の全期間中中立を守るべし。』
日本政府は、その当時に、防共協定と三国同盟とによって、ドイツに対する約束があったので、この条約に調印するにあたってはその立場が曖昧なものであった。日本政府が中立条約に調印した行為は、さらに一層曖昧なものであった。この政府が調印したときに、それはソビエト連邦に対するドイツの攻撃が切迫していたことを予期するあらゆる理由をもっていたからである。
すでに一九四一年二月二十三日に、リッベントロップは大島に対して、ヒットラーは冬の間にいくつかの新しい部隊を編制したこと、その結果として、第一流の攻撃師団百八十六箇を含めて、ドイツは二百四十箇師団をもつことになろうと告げた。リッベントロップは、さらに『独ソ戦』の見透しについて詳しく述べ、これは『結局ドイツの偉大なる成功に終り、ソビエト政権の終焉を意味するであろう』といった。
ソビエト連邦に対するドイツの来るべき攻撃は、一九四一年三月に、ドイツの指導者-ヒットラーとリッベントロップと日本の外務大臣松岡との会談において、さらに一層具体的に論ぜられた。
一九四一年三月二十七日の松岡との会談で、リッベントロップは松岡に対して、『東部のドイツ軍はいつでも使用することができる。万一ロシアがいつかドイツに対して脅迫と解釈される態度をとるならば、総統はロシアを粉砕するであろう。ロシアとのこのような戦いは、ドイツ軍の完全な勝利と、ロシアの軍隊とロシアの国家との絶対的破壊で終るであろう、とドイツでは誰でも確信している。総統は、ソビエト連邦に対して進撃した場合には、数カ月後には、ロシアは大国としてはもはや存在しなくなるであろうと確信している』と述べた。
同じ日に、ヒットラーは松岡に同じ趣旨のことを話した。すなわち、大島、オット、リッベントロップの列席している所で、ドイツはソビエト連邦とある条約を締結したが、それよりも一層重要なことは、ソビエト連邦に対して、自己の防衛のために、ドイツは百六十箇ないし百八十箇の師団を使用し得るという事実であるとヒットラーは述べた。リッベントロップは、一九四一年三月二十九日の松岡との会談で、ドイツ軍の大部分はドイツ国の東部国境に集結されていると述べ、ひとたびソビエト連邦との戦争が発生すれぱ、この国は三、四カ月以内に席捲されてしまうという確信を再び表明した。その会談において、リッベントロップは、また次のように述べた。『・・・ロシアとの紛争は、どうしても起り得ることである。いずれにしても、松岡は帰国の上、日本の天皇に対して、ロシアとドイツとの間の紛争は起り得ないと報告することはできないであろう。それどころか、事態は、このような紛争が起りそうだとまではいかないにしても、起ることがあり得ると考えなければならないものである』と。
これに答えて、松岡はかれに、『日本は常に忠実な同盟国であって、共同の努力に対して、単によい加減のやり方ではなく、すべてを捧げるであろう』と保証した。
モスクワで中立条約に調印した後、帰国して間もなく、松岡は東京駐在ドイツ大使オットに対して、『ドイツとロシアとの衝突の場合には、日本の総理大臣や外務大臣は、だれであっても、日本を中立にしておくことはとうていできないであろう。この場合に、日本は必然的にドイツ側に立って、ロシアを攻撃しないわけには行かなくなるであろう。中立条約があったところで、これは変えられない』と述べた。
大島は、一九四一年五月二十日の松岡あての電報で、ワイツゼッカーがかれに対して、『松岡外相が、もし独ソ開戦せば、日本はソ連邦を攻撃すべきことをオットに述べられたることは、ドイツ政府はこれを重要視しあり』といったと報告した。
中立条約を調印する際に、日本政府がとった不誠実な政策は、この条約の調印のための交渉と同時に、ドイツとの間に、一九四一年十一月二十六日に満了することになっていた防共協定を延長するための交渉が行なわれていたという事実によって確認される。防共協定は、ドイツとソビエト連邦との間の戦争が起ってから、一九四一年十一月二十六日に、さらに五カ年間延長された。
ソビエト連邦と中立条約とに対する日本の政策は、一九四一年六月二十五日、ドイツがロシアを攻撃してから三日後に、スメタニンが松岡と行なった会談によって示されている。日本駐在のソビエト大使スメタニンによって、日本は一九四一年四月十三日のソビエト連邦と日本との間の中立条約に従って中立を維持するかどうかと聞かれたときに、松岡は卒直な回答を避けた。しかし、三国同盟は日本の対外政策の基礎であり、もし今次の戦争と中立条約がこの基礎及び三国同盟と矛盾するならば、中立条約は『効力を失なうであろう』ということを力説した。スメタニンとの会談について、松岡が悪質な批評を行なったことに関するドイツ大使の報告については、すでに前に述べた。一九四一年六月、ソビエト連邦に対するドイツの攻撃の少し前に、梅津はウーラッハ公爵との会談において、『日ソ中立条約を目下のところ歓迎している。しかし、三国同盟は日本の外交政策の不変の基本をなしているから、中立条約に対する日本の態度も、従来の独ソの関係が変更を受けるようになれば、直ちに変更しなければならない』と述べた。
日本はソビエト連邦と中立条約を締結することに誠意をもっていなかったが、ドイツとの協定がいっそう有利であると考えたから、ソビエト連邦に対する攻撃の計画を容易にするために、中立条約に調印したように見受けられる。ソビエト連邦に対する日本政府の態度についてのこの見解は、一九四一年七月十五日に、東京のドイツ大使がベルリンあての電報の中で報告した見解と合致する。ドイツとソビエト連邦の戦争における日本の『中立』は、ソビエト連邦に対して日本自身が攻撃を行なうまでの間、ドイツに与え得る援助に対する煙幕として、実際に役立ったのであり、またその役に立つために企図されたようであった。本裁判所に提出され.た証拠は、日本がソビエト連邦との条約に従って中立であったどころか、その反対に、ドイツに対して実質的な援助を与えたということを示している。
ドイツに対する日本の一般的軍事援助
日本は満洲で大規模な軍事的準備を行ない、また同地に大軍を集結し、それによって東方のソビエト陸軍の相当な兵力を牽制した。この事がなかったならば、この兵力は西方でドイツに対して用いることができたであろう。これらの軍事的準備は、ドイツと日本の政府によって、右のような意味のものと見倣されていた。駐日ドイツ大使は、一九四一年七月三日に、ベルリンあての電報で、『なかんずく、右の目的の実現を目途とするとともに、ドイツとの戦いにおいて、ソビエト・ロシアを極東において牽制する目的をもって軍備を増強することは、日本政府が終始念頭に置いているところである』と報告した。
同様にリッベントロップは一九四二年五月十五日に、東京あての電報で、ソビエト連邦に対する奇襲攻撃の成功は、三国同盟諸国に有利に戦争を進ませるのに非常に重要であろうということを指摘したが、同時に、前に述べておいたように、『ロシアは、どんな場合でも、日本とロシアとの衝突を予期して、東部シベリアに兵力を維持しなければならないから』、ソビエトに対する戦争におけるドイツヘの積極的援助として、日本の『中立』の重要性を強調した。
日本、ソビエト連邦に関する軍事的情報をドイツに提供
日本がソピエト連邦に関する軍事的情報をドイツに提供した証拠は、リッベントロップから東京のドイツ大使にあてた一九四一年七月十日の電報に含まれている。この中で、リッベントロップは、『モスクワの日本大使の電報を回送したことに対して、この機会に、日本の外務大臣に礼を述べられたい。われわれがこの方法で定期的にロシアからの報告を受けることができれば、仕合わせである』と書いた。
日本の軍事機関と外交機関から得たソビエト連邦に関する経済上、政治上、軍事上の情報を、日本がドイツに提供していたことを証明する証拠が提出された。一九四一年十月から一九四三年八月まで、参謀本部のロシア課長をしていた松村少将は、参謀本部の命令に従って、参謀本部の第六(ドイツ)課に対して、東京のドイツ陸軍武官クレッチマー大佐のために、極東におけるソビエト軍ソビエト連邦の戦争能力、ソビエト部隊の東方から西方への移動、ソビエト部隊の国内における移動に関する情報を、組織的に提供したと証言した。、
前に東京のドイツ大使館付武官補佐官であったフォン・ペテルスドルフは、日本の参謀本部から、ソビエト陸軍、特に極東軍に関する秘密情報軍隊の配置、その兵力、予備軍について、ヨーロッパ戦線に対するソビエト軍隊の移動について、ソピエト連邦の軍需産業などについての詳細な情報を組織的に入手したと証言した。フォン・ペテルスドルフは、かれが日本の参謀本部から受取った情報は、その範囲と性質において、陸軍武官が普通の経路を通じて通常受取る情報とは異っていたと述べた。
ソビエトの船舶に対する日本の妨害
日本に中立の義務があるにもかかわらず、極東におけるソビエト船舶の航行に対する日本の妨害によって、ソビエトの戦争努力は大きな障害を受けたということを検察側は主張し、そのことを示す証拠を提出した。わけても、一九四一年に、香港で、ソビエト船舶として明白な標識をつけたところの、碇泊中の数隻の船舶が砲撃され、一隻が撃沈されたこと、同じ月に、ソビエト船舶が日本の飛行機からの爆弾によって撃沈されたこと、多数のソビエト船舶が日本海軍艦船によって不法に停船させられ、日本の港湾に護送され、ときには、長期間そこに抑留されたことの証拠があった。最後に、日本は津軽海峡を閉鎖し、ソビエトの船舶がソビエト極東沿岸に行くのに、もっと不便な、もっと危険な他の航路をとらなければならないようにしたと非難された。これらの行為は、すべて中立条約に基く義務を無視して、また日本がソビエト連邦に対して行なおうと企てていた戦争の間接的な準備として、ソビエト連邦をドイツとの戦争で妨害するために行なわれたのであると主張された。
中立条約が誠意なく結ばれたものであり、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたものであることは、今や確実に立証されるに至った。
(以下略)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13207216353
質問(№2) 侵略について
「国際法で言うところの「侵略」というのは「外形的定義」で言えば、 ある国家・武装勢力が別の国家・武装勢力に対して、自衛ではなく、一方的にその主権・領土や独立を侵すこと」
↑
こういうことを主張する人がいます。
それなら、あの戦争の終戦末期(1945年8月~9月)に北方の日本領土へ侵攻してきたソ連はあきらかに侵略ですよね。
それなのになぜ国際社会はソ連の侵略を責めないのですか。
それは、ソ連が戦勝国で日本が敗戦国だからでしょう。
ということは侵略という定義があったとしても意味をなさないということですよね。
伊藤隆氏や日本政府見解が「侵略の定義は定まっていない」というのは、まさにこの点なのです。
「侵略の定義はあった」と主張する人は以上の指摘に対して
どのような説明するのですか?
はい、あれはソ連による侵略行為です。
お仕舞い。
実際、欧州議会は「ロシアによる日本への北方領土の返還」を求める決議をしているんですけど、この悪質投稿者はその程度のことも知らないんでしょうか?
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E5%95%8F%E9%A1%8C
2005年7月7日付けの「EUと中国、台湾関係と極東における安全保障」と題された決議文の中で、ヨーロッパ議会は「極東の関係諸国が未解決の領土問題を解決する2国間協定の締結を目指すことを求める」とし、さらに日本韓国間の竹島問題や日本台湾間の尖閣諸島問題と併記して「第二次世界大戦終結時にソ連により占領され、現在ロシアに占領されている、北方領土の日本への返還」を求めている[108]。ロシア外務省はこの決議に対し、日ロ二国間の問題解決に第三者の仲介は不要とコメントしている。
欧州議会に限りません。
ロシアによる北方領土統治は、アメリカも認めていません。
北方四島に対するアメリカの公式見解はこのようなものです。
http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/JPRU/19570523.O1J.html
1945年2月11日の日本に関するヤルタ協定はいかなる日本領土における法的権原をもソ連邦に移譲する効力を持つ様には意図されたものではなかったし、又そうした効力をもってもいなかったということ、特に、日本に関するヤルタ協定も1951年9月8日サンフランシスコで調印された対日平和条約も歯舞群島におけるいかなる権原をもソ連邦へ移譲しなかったしこれら諸島における日本の権原を縮少せしめたものではなく、且つ、これらの文書における「千島列島」という字句は、従来常に日本本土の一部であったものであり従って正義上日本の主権下にあるものと認められるべき歯舞群島、色丹島又は国後島、択捉島を含んでもいなければ含む様に意図されもしなかったということを繰り返し言明する。
中華人民共和国も、別にそれを承認しているわけではありません。
(基本的に不介入の立場であり、中華人民共和国で発行されている世界地図には北方四島は日本領土とされています)
また、ロシアとの間にクリミア問題をかかえるウクライナでは、こんな出来事が
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASM2P43Y2M2PUHBI00X.html%3Fusqp%3Dmq331AQQCAEoAZgBifz-zLrxn7f3AQ%253D%253D
「北方領土の日」の7日、ロシア大使館前に日の丸と横断幕が並び、若者約10人が雪の中に立った。日本ではない。ウクライナの首都キエフでのことだ。
とは言うものの
実際にはアメリカも先の大戦終結にあたり、ソ連の侵略戦争を援助していますけどね。
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/biz-journal.jp/i/amp/2019/01/post_26352.html%3Fusqp%3Dmq331AQQCAEoAZgBq-y-_L2Jn4LvAQ%253D%253D
元より政治の世界は「国際法」だけで決まるようなものではなく、裏では様々な駆け引きがあるというだけの話であり
その事自体が別にソ連の「侵略戦争」を免責するわけではありません。
さて、では
なぜ国際社会はソ連の侵略を非難しないんですか、ということですけど、
非常にざっくりですが、法的な話でいうと、我が国がポツダム宣言を受け入れたことを前提に連合国により行われた極東国際軍事裁判裁判による「有権解釈」で、ソ連の対日参戦は正当なものであり、関東特別演習の実施などにより日ソ中立条約を先に破ったのは日本国と認定されています。
つまり連合国は、そのままでは「国際法違反」としかいいようがないソ連の対日参戦を免責するために、まず極東国際軍事裁判を使ってソ連に対する侵略行為を行ったのは日本側であるという「結論ありき」な判決を押し付けたわけです。
実際には、あのパール判事もソ連の対日戦争は「侵略」であると、いわゆる「パル判決文」でも認定しているんですけどね。
あくまでも参考です。
http://www.seisaku-center.net/node/108
判決のデタラメさを最も浮き彫りにしているのは、何と言っても対ソ関係への言及だと言える。
東京裁判ではソ連人の検察官が、張鼓峰・ノモンハン両事件を含む日本の一連の行動を対ソ「侵略」と主張、日本をソ連に対する侵略国であると断罪した。判決は、「ソ連に対する日本の政策」「戦争の計画と準備」「張鼓峰事件」「ノモンハン事件」などに項目をわけて、いずれの項目でも検察側の主張をほぼ全面的に認める認定を下している。
まず判決は「ソ連に対する日本の政策」の項で、モスクワ大使時代の広田弘毅の参謀本部への報告、モスクワ駐在の河辺陸軍武官の発言、荒木陸相の地方長官会議での発言、「国策の基準」、日独防共協定等々を、日本の対ソ戦争の意図を示す具体例として取り上げた。その上で、「裁判所が審理している全期間を通じて」――つまり昭和三年から二十年まで、日本は対ソ侵略戦争を企図・計画したこと、そして、この侵略戦争は日本の国策の主要な要素の一つであり、その目的は極東におけるソ連領土を占領することであったことを認定した。
次に判決は「ソ連に対する戦争の計画と準備」の項で、関東軍と陸軍中央との間に交わされた電報や重要文書、「関東軍特別演習」(関特演)と呼ばれた独ソ戦開戦後に行われた秘密動員計画などを取り上げ、結論として、日本はソ連に対して侵略戦争を計画しただけでなく、そのための「積極的準備を継続していた」と認定した。
さらに判決は、日本は対ソ侵略戦争を現に遂行したとして、二つの国境紛争――すなわち張鼓峰・ノモンハン両事件を取り上げた。
後者のノモンハン事件について言うと、判決は「敵対行為は日満側軍隊によって始められた」と述べた検察側の証言を受け入れ、同事件を日本側の攻撃により始まったと認定。その上で、同事件は日本の「侵略戦争」だったと認定する。
「明らかに日本軍が慎重な準備の後に企てたものであり、その意図は、日本軍に対抗する敵の軍隊を殲滅することであった。従って、この事件が対立する国境警備隊間の単なる衝突であったという主張は、成り立たない。これらの状況のもとにおいて、本裁判所は、この作戦行動は日本側によって行われた侵略戦争というべきものであると認定する」
以上のように判決は、日本は対ソ侵略戦争を企図・計画し、その準備を行ったばかりか、実際に遂行したと判定したのである。
ただし、我が国はサンフランシスコ平和条約第11条により、極東国際軍事裁判の諸判決を受け入れています。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/
2 この裁判については様々な議論があることは承知していますが、我が国は、サンフランシスコ平和条約第11条により、極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しており、国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはないと考えています。
また、その後の日ソ共同宣言においても、ソ連側の日ソ中立条約の一方的破棄を含む「ソ連側の侵略行為」は正否判断無しに、解決済みの問題とされました。
つまり、ソ連による侵略戦争を仕掛けられた側である日本国から、当該行為に対するクレームが出る可能性はないと言っていい状態です。
従って、国際社会が「ソ連が日本国に対して仕掛けた侵略戦争」それ自体を問題にする理由がありません。
それだけの話です。
ただし、ソ連自身はサンフランシスコ平和条約を批准することなく、これを不当な条約であるとして、一貫して否認する道を、あえて選びました。
故に北方領土問題は未解決のまま残り、国際社会がソ連の後継国であるロシアの「北方領土」に対する領有権を認めないという事態になっているわけです。
このことは、あえて言いますが
「政治的には」国後、択捉は、我が国がサンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」に含まれていないことの傍証とも言えるでしょう。
いったん、ここまでにしておきますが、必要により追記する、または新しい記事を投稿するなどにより
もう少し、今回引用したYahoo!知恵袋の「質問」を見ていこうと思っています。
追記
私自身は極東国際軍事裁判の判決文そのものを読んでいますが、「ソ連に対する日本の侵略」についての抜粋をネットで紹介したものを昨日の時点では見つけることができませんでした。
今朝見つかったので、ここに引用しておきます。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/1948Toukyousaiban.htm
(一部引用)
三、ソ連に対する侵略
中立条約
ソビエト連邦に対するドイツの攻撃
前に述べたように、一九三一年と一九三三年に、日本はソビエト連邦から中立条約の締結を求められたが、それを拒絶した。一九四一年までには、ドイツとイタリアを除いて、日本はほとんどすべての国との友好関係を失っていた。国際情勢が非常に変化していたので、日本は十年前に拒絶したことを今度は喜んで行なう気になった。しかし、この気乗りは、何もソビエト連邦に対する日本の態度の変化を示すものではなく、この国に対する日本の領土獲得の企図が減じたことを示すものでもない。
一九四一年四月十三日に、すなわちドイツのソビエト連邦に対する攻撃の少し前、日本はソビエト連邦との中立条約に調印した。この条約は、次のことを規定した。
第一条
『両締約国は両国間に平和及友好の関係を維持し、且相互に他方締約国の領土の保全及び不可侵を尊重すべきことを約す』
第二条
『締約国の一方が一又は二以上の第三国よりの軍事行動の対象となる場合には、他方締約国は該紛争の全期間中中立を守るべし。』
日本政府は、その当時に、防共協定と三国同盟とによって、ドイツに対する約束があったので、この条約に調印するにあたってはその立場が曖昧なものであった。日本政府が中立条約に調印した行為は、さらに一層曖昧なものであった。この政府が調印したときに、それはソビエト連邦に対するドイツの攻撃が切迫していたことを予期するあらゆる理由をもっていたからである。
すでに一九四一年二月二十三日に、リッベントロップは大島に対して、ヒットラーは冬の間にいくつかの新しい部隊を編制したこと、その結果として、第一流の攻撃師団百八十六箇を含めて、ドイツは二百四十箇師団をもつことになろうと告げた。リッベントロップは、さらに『独ソ戦』の見透しについて詳しく述べ、これは『結局ドイツの偉大なる成功に終り、ソビエト政権の終焉を意味するであろう』といった。
ソビエト連邦に対するドイツの来るべき攻撃は、一九四一年三月に、ドイツの指導者-ヒットラーとリッベントロップと日本の外務大臣松岡との会談において、さらに一層具体的に論ぜられた。
一九四一年三月二十七日の松岡との会談で、リッベントロップは松岡に対して、『東部のドイツ軍はいつでも使用することができる。万一ロシアがいつかドイツに対して脅迫と解釈される態度をとるならば、総統はロシアを粉砕するであろう。ロシアとのこのような戦いは、ドイツ軍の完全な勝利と、ロシアの軍隊とロシアの国家との絶対的破壊で終るであろう、とドイツでは誰でも確信している。総統は、ソビエト連邦に対して進撃した場合には、数カ月後には、ロシアは大国としてはもはや存在しなくなるであろうと確信している』と述べた。
同じ日に、ヒットラーは松岡に同じ趣旨のことを話した。すなわち、大島、オット、リッベントロップの列席している所で、ドイツはソビエト連邦とある条約を締結したが、それよりも一層重要なことは、ソビエト連邦に対して、自己の防衛のために、ドイツは百六十箇ないし百八十箇の師団を使用し得るという事実であるとヒットラーは述べた。リッベントロップは、一九四一年三月二十九日の松岡との会談で、ドイツ軍の大部分はドイツ国の東部国境に集結されていると述べ、ひとたびソビエト連邦との戦争が発生すれぱ、この国は三、四カ月以内に席捲されてしまうという確信を再び表明した。その会談において、リッベントロップは、また次のように述べた。『・・・ロシアとの紛争は、どうしても起り得ることである。いずれにしても、松岡は帰国の上、日本の天皇に対して、ロシアとドイツとの間の紛争は起り得ないと報告することはできないであろう。それどころか、事態は、このような紛争が起りそうだとまではいかないにしても、起ることがあり得ると考えなければならないものである』と。
これに答えて、松岡はかれに、『日本は常に忠実な同盟国であって、共同の努力に対して、単によい加減のやり方ではなく、すべてを捧げるであろう』と保証した。
モスクワで中立条約に調印した後、帰国して間もなく、松岡は東京駐在ドイツ大使オットに対して、『ドイツとロシアとの衝突の場合には、日本の総理大臣や外務大臣は、だれであっても、日本を中立にしておくことはとうていできないであろう。この場合に、日本は必然的にドイツ側に立って、ロシアを攻撃しないわけには行かなくなるであろう。中立条約があったところで、これは変えられない』と述べた。
大島は、一九四一年五月二十日の松岡あての電報で、ワイツゼッカーがかれに対して、『松岡外相が、もし独ソ開戦せば、日本はソ連邦を攻撃すべきことをオットに述べられたることは、ドイツ政府はこれを重要視しあり』といったと報告した。
中立条約を調印する際に、日本政府がとった不誠実な政策は、この条約の調印のための交渉と同時に、ドイツとの間に、一九四一年十一月二十六日に満了することになっていた防共協定を延長するための交渉が行なわれていたという事実によって確認される。防共協定は、ドイツとソビエト連邦との間の戦争が起ってから、一九四一年十一月二十六日に、さらに五カ年間延長された。
ソビエト連邦と中立条約とに対する日本の政策は、一九四一年六月二十五日、ドイツがロシアを攻撃してから三日後に、スメタニンが松岡と行なった会談によって示されている。日本駐在のソビエト大使スメタニンによって、日本は一九四一年四月十三日のソビエト連邦と日本との間の中立条約に従って中立を維持するかどうかと聞かれたときに、松岡は卒直な回答を避けた。しかし、三国同盟は日本の対外政策の基礎であり、もし今次の戦争と中立条約がこの基礎及び三国同盟と矛盾するならば、中立条約は『効力を失なうであろう』ということを力説した。スメタニンとの会談について、松岡が悪質な批評を行なったことに関するドイツ大使の報告については、すでに前に述べた。一九四一年六月、ソビエト連邦に対するドイツの攻撃の少し前に、梅津はウーラッハ公爵との会談において、『日ソ中立条約を目下のところ歓迎している。しかし、三国同盟は日本の外交政策の不変の基本をなしているから、中立条約に対する日本の態度も、従来の独ソの関係が変更を受けるようになれば、直ちに変更しなければならない』と述べた。
日本はソビエト連邦と中立条約を締結することに誠意をもっていなかったが、ドイツとの協定がいっそう有利であると考えたから、ソビエト連邦に対する攻撃の計画を容易にするために、中立条約に調印したように見受けられる。ソビエト連邦に対する日本政府の態度についてのこの見解は、一九四一年七月十五日に、東京のドイツ大使がベルリンあての電報の中で報告した見解と合致する。ドイツとソビエト連邦の戦争における日本の『中立』は、ソビエト連邦に対して日本自身が攻撃を行なうまでの間、ドイツに与え得る援助に対する煙幕として、実際に役立ったのであり、またその役に立つために企図されたようであった。本裁判所に提出され.た証拠は、日本がソビエト連邦との条約に従って中立であったどころか、その反対に、ドイツに対して実質的な援助を与えたということを示している。
ドイツに対する日本の一般的軍事援助
日本は満洲で大規模な軍事的準備を行ない、また同地に大軍を集結し、それによって東方のソビエト陸軍の相当な兵力を牽制した。この事がなかったならば、この兵力は西方でドイツに対して用いることができたであろう。これらの軍事的準備は、ドイツと日本の政府によって、右のような意味のものと見倣されていた。駐日ドイツ大使は、一九四一年七月三日に、ベルリンあての電報で、『なかんずく、右の目的の実現を目途とするとともに、ドイツとの戦いにおいて、ソビエト・ロシアを極東において牽制する目的をもって軍備を増強することは、日本政府が終始念頭に置いているところである』と報告した。
同様にリッベントロップは一九四二年五月十五日に、東京あての電報で、ソビエト連邦に対する奇襲攻撃の成功は、三国同盟諸国に有利に戦争を進ませるのに非常に重要であろうということを指摘したが、同時に、前に述べておいたように、『ロシアは、どんな場合でも、日本とロシアとの衝突を予期して、東部シベリアに兵力を維持しなければならないから』、ソビエトに対する戦争におけるドイツヘの積極的援助として、日本の『中立』の重要性を強調した。
日本、ソビエト連邦に関する軍事的情報をドイツに提供
日本がソピエト連邦に関する軍事的情報をドイツに提供した証拠は、リッベントロップから東京のドイツ大使にあてた一九四一年七月十日の電報に含まれている。この中で、リッベントロップは、『モスクワの日本大使の電報を回送したことに対して、この機会に、日本の外務大臣に礼を述べられたい。われわれがこの方法で定期的にロシアからの報告を受けることができれば、仕合わせである』と書いた。
日本の軍事機関と外交機関から得たソビエト連邦に関する経済上、政治上、軍事上の情報を、日本がドイツに提供していたことを証明する証拠が提出された。一九四一年十月から一九四三年八月まで、参謀本部のロシア課長をしていた松村少将は、参謀本部の命令に従って、参謀本部の第六(ドイツ)課に対して、東京のドイツ陸軍武官クレッチマー大佐のために、極東におけるソビエト軍ソビエト連邦の戦争能力、ソビエト部隊の東方から西方への移動、ソビエト部隊の国内における移動に関する情報を、組織的に提供したと証言した。、
前に東京のドイツ大使館付武官補佐官であったフォン・ペテルスドルフは、日本の参謀本部から、ソビエト陸軍、特に極東軍に関する秘密情報軍隊の配置、その兵力、予備軍について、ヨーロッパ戦線に対するソビエト軍隊の移動について、ソピエト連邦の軍需産業などについての詳細な情報を組織的に入手したと証言した。フォン・ペテルスドルフは、かれが日本の参謀本部から受取った情報は、その範囲と性質において、陸軍武官が普通の経路を通じて通常受取る情報とは異っていたと述べた。
ソビエトの船舶に対する日本の妨害
日本に中立の義務があるにもかかわらず、極東におけるソビエト船舶の航行に対する日本の妨害によって、ソビエトの戦争努力は大きな障害を受けたということを検察側は主張し、そのことを示す証拠を提出した。わけても、一九四一年に、香港で、ソビエト船舶として明白な標識をつけたところの、碇泊中の数隻の船舶が砲撃され、一隻が撃沈されたこと、同じ月に、ソビエト船舶が日本の飛行機からの爆弾によって撃沈されたこと、多数のソビエト船舶が日本海軍艦船によって不法に停船させられ、日本の港湾に護送され、ときには、長期間そこに抑留されたことの証拠があった。最後に、日本は津軽海峡を閉鎖し、ソビエトの船舶がソビエト極東沿岸に行くのに、もっと不便な、もっと危険な他の航路をとらなければならないようにしたと非難された。これらの行為は、すべて中立条約に基く義務を無視して、また日本がソビエト連邦に対して行なおうと企てていた戦争の間接的な準備として、ソビエト連邦をドイツとの戦争で妨害するために行なわれたのであると主張された。
中立条約が誠意なく結ばれたものであり、またソビエト連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたものであることは、今や確実に立証されるに至った。
(以下略)