もうかれこれ、半世紀以上になりますが、幼少の頃の我が家の盆の風景が懐かしく思い出されます。仏壇の前には等身大の提灯が提げられ、梨、ぶどう、スイカなどの季節の果物が飾られて、夜になると提灯の明かりの下、きな粉だご(だんご)しろだご(白玉だんご)は井戸につけて、良く冷やし、それに白砂糖を付けて食べたものです。
私の祖母は朝夕、歸命無量壽如来(きみょうむりょうじゅにゅらい)、 南無不可思議光(なむふかしぎこう)――――と、お経を上げていました。これが、浄土真宗の「正信偈」であることは後で知りましたが、不思議なことに私も小さいながら、さわりの部分は諳んじることが出来るようになってました。
お経は漢文で書かれており、それを日本語読みしますが、素養がなければ全く意味が解りません。当たり前のことではありますが、我が家の女将にしてみればそれこそ「馬の耳に念仏」といったところです。
その女将が大変気に入ってるお経があります。御文章、白骨の章がそれです。人の一生のはかなさを説いてる文で、これは和訳しなくとも以外とすんなり理解出来る内容になってます。
「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」すごいですね。
実家の兄から提灯を飾った仏壇の写真が送られてきました。PCの画面に映し出し、読経して今は亡き、父母、祖父母の供養としました。合掌
御文章、白骨の章
夫、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、
この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。
さればいまだ万歳の人身をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。
いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
我やさき人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は
もとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。
されば朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちにとぢ、
ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを
喪いぬるときは、六親眷属あつまりてなげきななしめども、更にその甲斐
あるべからず。
さてしもあるべき事なれねばとて、野外におくりて夜半のけふりとなしはて
ぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。
あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく
後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏
まうすべきものなり。あなかしこ。あなかしこ。