拙ブログの訪問者の方からお便りを頂きました。
5歳になる孫が久しぶりに遊びに来るというので、それでは何か美味しいものでもご馳走しようと思い、PRiNを作ることにした。
プリンの元と牛乳をミックスしたものを型に入れて冷蔵庫で一晩寝かせる。 朝方に早く目が覚めてしまったので冷蔵庫からプリンを出して、型から皿に移し替える。それを八等分に綺麗に切った。二切れ分を仏壇にと思って、別の皿に入れてサランラップを被せ、残りの6切れにもサランラップを被せた。
早朝より仏壇でガチャガチャ音させるのは、我が家でも気が引けたので、仏壇に供えずに再び床に就いた。言わなくても小皿のプリンは仏壇用と妻は理解するものと思った。
不覚にも5時頃から爆睡してしまい、目を覚ましたのが9時だった。 寝ぼけたまま台所に行ったら『お父さん行って来ますプリンありがとう』のメモ書き。慌てて仏壇に行ったら、「お初さん」は供えてあったがプリンはなかった。御先祖様にと用意した小皿のプリンは妻が食べてしまって出勤した。
その日は寂しい仏壇だった。 今日、仏壇に詫びながら妻がプリンを供えていた。
片田舎の小さな家庭の小さな光景。
「お初さん」= 御仏飯(オブッパン)ですが
その日に炊き上がった御飯を一番初めに盛って供えます。(自分のお茶碗に入れるのは後です)
他愛もないありふれた光景ですが、旦那さんは奥さんを怒ったのでしょうか。
「幸福とはささやかなものだ。そしてそんな幸福を最大限喜ぶことだ。」ふとこんな言葉を思い出しました。
夫婦とは不思議な関係です。こんな言葉もあります。「何でも金で買える時代だが、夫婦の良き味わいだけは金では買えない。それは宿命的に対立するふたりが仲よくこねてつくりあがるものだ。」山あり、谷ありの人生、お互いこねることで味わいが出てくるのでしょうね。
旧約聖書の「伝道者の書」(コーヘレトの書)は虚無主義の極致とも言われるのですが、4節にはひとりよりもふたりが良いと書いてあります。二千二百年以上昔です。
ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、よいむくいがあるからだ。
どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。
また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりではどうして暖かくなろう。
もしひとりなら、うちまかされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。
ちょっと話を広げてしまいましたが、一人できないことがふたりだとできることも沢山ありますよね。ふたりの行き違い、意見の食い違い、そんなもの当たり前、なんせ宿命的に対立ふたりですから。ふたりでこねましょう。