聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

ヨーロッパの最初の教会:家庭集会

2024-03-24 17:28:43 | 日記

 私の両親は、家で伝道者を招いて定期的に家庭集会を開いていました。小学生の頃、母が家庭集会のために用意する特別なお菓子を一緒に食べられるのが楽しみでした。その頃から、自分が大人になったらおいしいお菓子とお茶を用意して、少人数で集まって聖書を学び、賛美をし、お祈りをしあうという集会を家で開きたいなと漠然と思ったものです。その後私が大人になってから、ある方々が提供してくださるご家庭や、自分の家にて定期的に家庭集会を開くことができたのは神様の恵であり、神様は私の小さな思いを覚えて実現させて下さったのだと感動します。クリスチャンの方だけでなく、そのママ友や、聖書を見たこともないけれど興味をもって参加してくださる方々が集ってくださり、少人数ですが、毎回よき交わりの時が与えられました。

 初期キリスト教の教会は、家庭集会から始まったことが聖書に記録されています。使徒パウロが、当時の地中海沿岸・内陸地域へ伝道旅行を徒歩や船で周り、行く先々でキリストの福音を伝え、それを聞いて信じた人々が家に集まって礼拝をし、それが当時の世界に広がっていきました。リディアという女性は、使徒パウロが第二伝道旅行において、フィリピという都市で伝道した時に、「主が彼女の心を開かれ」(使徒16:14)イエス・キリストを信じた女性です。パウロの一行にとって、フィリピがヨーロッパ地域で最初に伝道をした街であります。彼女は「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人」(使徒16:14)とあるように、小アジアのテアテラ市(黙示録の七つの教会の一つ、黙示2:18-29参照)の出身の人でした。

 リディアは信じた直後、彼女もその家族も洗礼を受け、パウロ達を家でもてなそうとして、強いて泊まるように招待したとあります。「私が主を信じる者だとお思いでしたら」という箇所は、「私が主に対して忠実な者と思うならば」とも訳せるとされます 。彼女は信じたばかりで、すでにイエス・キリストを「主」と呼ぶことの深い意味を理解し、自身は主イエスに従う者、忠実な者となった、もしくはなろうと決意しての発言ではないかと思います。彼女が家に彼らを引き留める理由は、彼女の救われた喜びと感謝により、もてなしを申し出たのかもしれませんが、それをパウロたちが受けたのは、単に彼女の押しの強さによってではなく、彼女の主イエスに対する真実を尽くそうとする態度も見て、安心して泊まったのではないかと思うのです。そしてフィリピの町の教会はリディアと、後に救われた看取の家の集会から発展していったようです。

 私はイエス様を「主」と呼ぶとき、どれだけイエス様に従っていこう、真実を尽くそうという覚悟があるのかが、この箇所を読んで問われます。主と呼ぶからには、私は主の僕であり、そしてイエス・キリストは私たち(複数)教会の主であります。その主に信頼してすべてを委ね、自分の思いではなく、神様の思い(御心)がなるよう、聖霊の助けにより祈り求めていきたいと願います。

 

「そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。」 使徒言行録16章15節

 (引用 新共同訳聖書)


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