聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

「信仰によって実現される約束」土浦フレンド教会でのメッセージ

2024-03-10 14:02:21 | 日記

 今日の箇所はアブラハムが神様から召命を受けたところです。彼は何のあてもなく「示す地へ行け」と言われて、家族と一緒に旅だちました。75歳という晩年に。具体的な内容はなく、大いなる国民にすると、祝福し、地上のすべての氏族はかれによって祝福に入ると。アブラハムはこれを聞いた時、どの程度内容を理解したのかは不明であるが、とにかく この神様の言葉に従ってカナンの方面へ移動しました。シケムの聖所へ一歩移動するとそこで 再び神は彼に表れて「 この土地を子孫に与える」と言われました。そしてアブラハムはそこで祭壇を作って礼拝した。それからさらにベテルの東の山に移り そこでも祭壇を作って 主のみなを呼んだとあります。主のみなを呼ぶとは 主のみなによって祈った(新改訳聖書) という訳により 礼拝するという意味です。彼は一方一歩進むたびに、主を礼拝し 主を呼び求めたのだろう。そしてネゲブまでたどり着いたというところが本日読んだ箇所です。

 ここから私たちの生活に適用できるのは、神様は 少しづつ示されるということではないでしょうか。 将来の計画、将来におこることを 一遍に神様はそのご計画を詳細に人間に知らせません。そこで私たちは、知らされたことに基づいて祈り、次の一歩へと進む。するとまたそこで神は少し先のことを示されます。アブラハムは創世記を読んでいきますと、時に神様の約束を信じられなくて 失敗もしますが、それでも信じ続けていることが記されています。創世記13:14 で甥のロトが分かれていったとき また子孫に永久に 見渡す限りの地を与えると。大地の砂粒のようになる 15:1 で あなたの報いは大きい と神が言われると ここで初めてアブラムは 「子供がいないのになぜ?」と神に尋ねます。すると、アブラハムから生まれる子孫が星の数のようになると 言われ、そして「アブラハムは主を信じた。そして彼の義と認められた」15:1-6 とあり最終的に イサクが与えられます。

「あなたのみ言葉は わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」詩編119編105節

上記は、神様のみ言葉はわたしの道の光であり、歩みを灯す灯だという詩編です。灯とはいわゆる現代でいる懐中電灯のような、ランプの小さな光です。それは自動車のヘッドライトのようではなく、また道路の高いところにあるライトのように先まで照らす光ではないと。真っ暗な道を一歩一歩、歩んでいくとき、その足元を照らす光です。懐中電灯では 遠くの先まではその光では見えないけれども、その光があれば、とりあえず安全に歩いていけます。そうして、少しづつ進んでいくと見えない物が見えてきます。

 神様の計画も同様ではないでしょうか。私たちは明日のことや 来年がどうなるかがわからなくとも、今日という日に 日々の食べ物が与えられ、守られる、他者と争わずにお互い赦し合う、そのような生活がみ言葉の光によって可能となります。そこには、神様にお任せするという信頼が必要となります。もし不安な気持ちになれば、信頼できるように「信仰を増し加えて下さい」と祈れば必ず恵みとして増し加えてくださいます。 そしてその信仰があれば、この先どうなるのかなと不安になることはなく、落ち着いて日々暮らせます。たとえ何か不安になることが起こっても、すぐにお祈りをすれば、聖書を通して「安心しなさい」という神様のメッセージが与えられ、心に平安が与えられるのはなんと幸いでしょうか。

 私たちの信仰は単に、自分が健康で、守られ、すべてが自分の思い通りにうまくゆくことを保証する神様を信じていることではありません。私たちの罪を贖うため十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストの父である神様を信じています。それ程までにして、私たちを愛してくださる神様に対する信頼をもとに、たとえ目に見えなくとも 目に見える聖書のみことばを通して、私たちの歩みを一歩一歩確実に導いてくださると信じることができます。

 日々、様々なことが起こり、その度に心が揺さぶられ、疲れてしまうこともあります。体調が悪いと思うようにことが進まず、焦る気持ちばかりが募ることも正直あります。しかし、日々聖書の御言葉に触れると、私の内に住む聖霊が忘れている神様からの恵みを思い起こしてくれて、何が一番大切なのかといつも初心に戻されます。そしてどんなことでも祈り続け、また他の方々にも祈っていただくので、互いに祈りあえることが本当に励ましであります。私が歩む道をみ言葉によって照らして頂き、日々与えられている恵を感謝しつつ、主イエス様と共に歩んでいきたいと思います。

 約束がなされても その約束なさる方を信じる者がいなければ その約束は実現されないという面もあります。 つまりその約束を信じて受け取る人が必要なわけです。そういう意味で 神様の約束が実現されることと私たちの信仰とは密接に関係があると言えます。信仰は神様のなされた約束を有効とし つまり信仰なしに祝福の相続の約束は成立しないのです。そしてアブラハムは 信じたのです。

 アブラハムは 神様から祝福の約束が与えられます 「祝福」が5回も繰り返されます。ここで実は神様は 歴史の中に神様のご計画の救いとまた裁きを予告されています。人間はこの神様の業に対していかなる態度をとるか、つまり信じるかどうかで 救済か裁きとわかれ、 ここでは 裁きのことが呪いと表されています。しかも「祝福するものたち」は(複数)で 呪う者は(単数)とあるのは興味深いです。

 パウロがガラテヤ4:13、神はアブラハムとその子孫に世界を受け継がせる祝福を約束されたが、その約束は律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのとで言っているとおり アブラハムの信仰だけでなく、彼の信仰に従う者も確実にこの祝福の約束にあずかれると啓示により示しています。パウロはガラ4:11で アブラハムは割礼のないままに信じるすべての人の父となるとり、私たちも信仰により義と神様の前に正しいと みとめられると言っています。

 アブラハムの信仰とは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を信じた」、と ガラテヤ4:17にあります。その意味するところは、アブラハムもサラも 子供を作る能力は衰えていた、つまり死んでいたのに 彼らから生まれる子孫を与えられると神様は約束され、存在していなかった奇跡の子イサクを呼び出して存在させたのです。およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。 20彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美した とあります。

アブラハムは 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。この信仰が神様から義と認められました。アブラハムは律法を守ったから神様から義とされたわけではないということをパウロは繰り返しいっています。そもそもアブラハムの時代に律法は存在していません 約400年後に神様がモーセを通して与えられていますから。

以上のことから 私たちの信仰と アブラハムの信仰の共通点とは何でしょうか。共通点は 不可能が可能となること 望みなきところに望みを作り出すことができる方無から有を創造する神様を信じる信仰です。アブラハムの場合 100歳から子供が生まれるという不可能が可能になった。私たちの場合は 死人が復活するという不可能が可能となったことを 死は誰も避けられず、死に勝利することはできない、それをイエス様の復活で神様は可能としたことを信じるのが 私たちの信仰です。私たちの罪を贖うため十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストを信じる信仰が与えられています。

 今日の創世記の箇所は、神が異邦人つまりすべての民族を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しています。よって、この信仰によって生きる私たちは、信仰の人アブラハムと共に祝福されているのです。この信仰さえも、私たちの自分の意思で、力でもたらしたものではなく、神様の賜物である ということはエフェソ2:7-9に記されています

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」

私たちに信仰が与えられること、救われること、アブラハムにおいて約束された祝福が与えられること、これらすべて神様の恵みであり、神様からのプレゼントです。私たちはその神様のなされた恵の御業に対して、何もお返しできませんが、アブラハムが祭壇を作って神様の皆を呼び求めたように、渡したちは神様に感謝をもって礼拝を捧げられます。 また、わたしたちは神様に造られたものであり、しかも、神様が各々の人生に計画をもっておられ、前もって準備してくださった善い業があり、わたしたちは、その善い業を行って歩むことができる、とエフェソ2:10に記されています、なんと幸いなことでしょうか。

信仰も、良い業も、祝福も すべて神様の恵みです。

キリストを信じる信仰により、わたしたちはキリストのものとなるので、すると、神様がアブラハムに対して約束されたことが、わたしたちにもあてはまり、信仰によりアブラハムの子孫であり、約束による相続人となるとパウロは記しています。

また、このことを確証させてくれるのが、信じる者に与えられる聖霊であり、約束された御国を相続するための保証であるとパウロはエフェソ14:1で記しています。

私たちは神様の祝福の約束が自分にも信仰により与えられているからです。このことを覚え、主に感謝しつつ今週もキリストと共に歩んでいきましょう。

エフェソ2: 10「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」


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益子教会 待降節 メッセージ ルカによる福音書1:39-45

2024-03-10 13:48:34 | 日記

2023年12月10日 益子教会 待降節 メッセージ

聖書箇所 ルカによる福音書1・39-45

題          主が言われたことは必ず実現すると信じる

 「あなたはみごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と天使のお告げを受けたマリアは、すぐに親類のエリザベトの家に出かけた。高齢で不妊であった彼女が、神様の奇跡で妊娠したという知らせを聞いたからであろう。エリサベトはマリアからの挨拶を聞いた時、胎内の子が喜んで躍ったことを感じ、マリアが救い主イエス様を胎内に宿していることを聞く前に、「主のお母さまが来られるとは!」とマリアに与えられた恵を知っていた。救い主イエス様が生まれることの喜びが、聖霊により、胎内にいる赤ちゃんにも、エリサベトにも伝えられる。マリアのように「お言葉通りこの身になりますように」(ルカ1・38)と、主なる神様が「こうなる」と言われたことを疑わずに実現すると信じる者は幸いです(ルカ1・45)。

 私たちも御言葉を通して、神様の約束は必ず実現すると信じる信仰が与えられています。その約束は、主イエス・キリストを信じれば救われ、永遠の命が与えられるということ(ヨハネ3・16)、また信じると聖霊が与えられ(ヨハネ14・16)、上記のエリサベトのように理性や知識を超えた方法で、聖霊により示される(ヨハネ14・26)ということです。つまり個人的に神様から啓示されたことを、頭の知識としてではなく、自分の身に受け止められる(信じられる)ということを体験することができます。

 また、この信仰により地上の生活が、困難であっても、いつか再びイエス様が来られ、完全なものが来るという希望が与えられ、励まされてこの世を生きていくことができます。この希望がクリスマスの喜びでもあります。クリスマスは、神様が神の子であるイエス様をこの世に人として送った出来事であり、その命を十字架上で犠牲にするほどに、神様が私たちを愛してくださっていることを表しています。その愛を受け取ると信仰が与えられ、希望が与えられるからです。そして神様とイエス様との霊の交わりに、与えられた聖霊によって私たちをも招いて下さります。この愛の中に、感謝と喜びを持って日々歩んで参りたいと思います。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリント一13:13)。


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「イエスの眼差し」 聖書箇所  ルカによる福音書22:54-62

2024-03-10 13:30:16 | 日記

 今年のイースターは今月末ですが、本日は、イエス様の受難の物語の中での、弟子のペトロが、自身も逮捕されてしまうという恐れから「私はあの人を知らない」と言ってしまう弱さと、ペトロに対するイエス様が振り向かれた時の眼差しを通して、聖書から示されたことを分かち合わせていただきます。

 イエス様が逮捕されて、大祭司の家へ連れていかれ、弟子のペトロは遠く離れてついていったと記されています。他の弟子たちは皆、散りじりばらばらに逃げてしまいましたが、ペトロは、そっとついてきたのです。この記事は4つの福音書が記していますが、ヨハネによる福音書ではイエスの弟子の一人が大祭司と知り合いだったので、ついてきたペトロを大祭司の家の中庭に入れたとしています。時は真夜中で、焚火が庭にたかれていて、ペトロも他の人々に紛れて焚火にあたっていました。すると、一人の召使の女性がペトロに気づいて、じっとみつめ「この人もあの人と一緒にいました」と周りの人に言うので、ペトロがそれを打ち消して、私はあの人を知らない」と言いました。またしばらくして別の人が「あなたはあいつらの仲間だ」、「確かにこの男はあの人の仲間だ、ガリラヤ人だ」と周りから言われ、ペトロはそれぞれに「私はそうじゃない」「あなたの言っていることが分からない」とイエス様を知らないと3度言ってしまいます。

 イエス様は既にこのことを予告していました(ルカ22:21-34)しかも、単に予告しただけでなく、「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくらないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22:32)と落ち込むであろうペトロにその先のことも言われています。イエス様はペトロの弱さを知って、信仰がなくならないようにあらかじめ祈り、そして、立ち直って、兄弟たちを力づけなさいと、ペトロへの使命をすでに伝えておられます。しかし、この時はペトロが思い出せたのは「鶏が鳴く前に、あなたは3度私を知らないという」という予告の部分だけだったかもしれません。

 そして、ペトロが3回もイエス様とのかかわりを否定した時に鶏が鳴き、イエス様が振り向かれてペトロを見ます。ペトロがいた位置から、捕らえられていたイエス様は見える距離に置かれていたのでしょう。イエス様の眼差しについて聖書は何も語っていません。それは「ほら私が予告したとおりだろう!」というようなペトロを責める眼差しではないはずです。「私はそんな弱いあなたのために十字架にかかるのだよ、赦しているよ」という、慈しみ深い愛の眼差しであったことでしょう。イエス様の言われた言葉を思い出し、ペトロは外にでて、激しく泣きました。「ああ、なんてことを言ってしまったんだろう、先生、ごめんなさい!」というペトロの激しい叫びだったでしょう。大好きな先生のために「主よ、御一緒なら、牢に入っても、真でもよいと覚悟しております。」とまで豪語しました。彼はその時本当にそう思ったのでしょう。しかし、いざ、死の恐怖が迫ると、そんな人間の強がりはどこかへ吹き飛んでしまうのです。

 イエス様が宣教活動をされた地域にあるガリラヤ湖の湖畔に、「ペトロの再召命教会」という教会があるそうです。その横には「ペトロの再召命の像」というのがあり、イエス様が復活して後、ガリラヤ湖で弟子たちに現れた時の話をモチーフにした像だそうです。そのことはヨハネによる福音書21章に記されています。ペトロを含めた弟子たちは、すでにエルサレムで復活のイエス様にお会いしましたが、ペトロはきっと複雑な気持ちだったでしょう。イエス様が復活したことはうれしいのですが、自分が3度もイエス様を知らないといって、ある意味裏切ったことが後ろめたかったでしょうし、「ごめんなさい」と謝る機会もありませんでした。ペトロはその後、他の元漁師だった弟子たちとガリラヤへ戻って、漁をしていたと記されています。彼らはどうしたらいいか未だわからなったのかもしれません。

 ある朝早く、復活されたイエス様がガリラヤ湖畔に現れました。そして、弟子たちと朝食を食べられ、その後ペトロに3度「ヨハネの子シモン、この人たち以上に、私を愛しているか」と聞かれます(ヨハネ21:15-17)これは、ペトロが3度イエス様を知らないといったことに対応して、もう一度イエス様を愛するか?との質問に答えさせ、イエス様の羊を飼い、世話をするようにといわれます。ペトロは3回とも、「私があなたを愛していることはあなたが存じです」とこたえます。これは、もう自分はイエス様の弟子としてふさわしくないと落ち込んでいるペトロに、イエス様を愛しますと確信させるきっかけを与え、そして励まし、再びイエス様の羊を養う、世話をするように再び召命を与えている箇所だと言われます。

 この後弟子たちは、イエス様から全世界に出ていき福音を宣べ伝えなさいと宣教命令を受け、ペンテコステで聖霊の力を受けます。特に、ペトロは大胆に人々にイエス様が神から遣わされたメシアであること、神がイエス様を復活させ神の右の座に上げられたことを説教します。そして悔い改めて、イエスの名に夜洗礼を受け、罪を赦してもらうように、聖霊を受けるようにと人々に勧めます。ペトロは初代のキリスト教会でリーダーとなっていきます。ペトロは、もともとは強い人だったかもしれませんが、イエス様の十字架の出来事で、恐れて隠れ、おびえていました。そんな彼が本当に強くなれたのは、この挫折の経験から自分の弱さを認め、悔い改め、イエス様から再び召命を与えられたからです。そして聖霊が与えられたとき、今までの彼から想像できない、神からの力が与えられ、ペトロは大胆にイエス・キリストを証しし、また宣教旅行へと仲間と巡回したのです。

 ペトロの否認と再召命のストーリーは、今日の私たちにもあてはまります。私たちもペトロと同様、イエス様の十字架と復活により、罪赦された者です。教会とは、信仰が強く、立派な人々が集まるサロンではなく、欠点のある、弱いものであっても、キリストのゆえに罪が赦されて、洗礼を受けてキリストと結ばれ、キリストから福音宣教の使命のために呼ばれた者たちの集合体であります。私たち一人一人は、各々キリストから使命が与えられ、賜物が与えられ、キリストを証しするように呼ばれています。皆がみな、ペトロやパウロのように大きな働きをするとは限りません。しかし、当時2千年前、ペトロたちの説教を聞いて、イエス様を信じた人々は、使徒たちからイエス様の教えを聞き、聖餐に与かり(パンさき)、交わり、共に祈るために家々に集まっていました。そして、徐々にエルサレムから始まって、周辺の地域へ広がり、行った先々でイエス様を証していきました。専門的な教育を受けたわけでもなく、普通の人々で、ただ自分がキリストを信じて、恵みを受け、人生が変わったこと、その神様の恵を伝えていき、それを聞いて信じた人が、同じようにまた他者に伝え、福音(良い知らせ)として当時の全世界へ宣べ伝えられていったのです。その働きは、人間業ではなく、聖霊が大きく働いておられます。

 現代社会に生きるなかで、日本という国では信教の自由が憲法で保障され、迫害されることはありません。しかしながら、日本では」「宗教を信じている」とみなひとくくりにみなされ、カルト宗教のアレルギーを持つ多くの日本人より煙たがれますし、避けられることはあるでしょう。もしかしたら、私たちの信仰をあざ笑う人、批判する人がいるかもしれません。そんな人々の嘲笑を恐れて自分がクリスチャンであることを隠したくなる。もしくは、イエス様の愛の教えを知りつつも、世の中の不条理に対して、仕方がないと傍観、黙認、許容してしまうかもしれません。つまり、直接的ではなくとも、結果的に「私はイエス様を知らない」ということと同じことをしてしまう可能性があります。しかし、たとえ弱さのゆえにどんなことをしたとしても、この主イエス様の愛の眼差し、「そんなあなたのために私は十字架にかかったんだよ」を思い出すことができます。イエス様は責めない方であり、代わりに信仰がなくならないようにとりなして祈って下さり、私たちが立ち直り、そして他の人をその経験から励ますように背中を押してくださる方です。そして、次回は自分の信仰を言い表す勇気が与えられるかもしれません。私たちの信仰は、神様によって強められ、聖霊は私たちの内側を御霊の実を結べるように導いてくださいます。御霊の実とは、ガラテヤ信徒への手紙5章22-23節に記されています。

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」

 私たちは、このよう愛の実を結べるよう、聖霊により変えられていくという希望があります。自分の性格でこの実を作り上げることは無理ですが、聖霊に助けてもらえば可能であります。私たちは、すぐには変えられないので、神様の愛の忍耐深さ、情け深さにより頼みたいと思います。たとえ何度も神様が悲しむことを言ったり、してしまったとしても、悔い改め、赦しが与えられることは幸いです。このイエス様の十字架に至る苦難、死、そして復活は、私たちが神様から罪が赦されるためであり、ペトロのように躓いても起き上がらせて頂けるのは感謝です。そして御霊の実を結びキリストのような性質に内側が変えられていきたいと願い続ければ、神様はその祈りを必ず聞き、かなえてくださるという希望があります。御心にそう祈りはかなえられると約束があるからです。そして、信じた時に与えられる、私たちの心の内側に住まわれる聖霊の助けにより、主と共に歩む人生を導いて頂けるよう、祈ってまいりましょう。


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