今日の箇所はアブラハムが神様から召命を受けたところです。彼は何のあてもなく「示す地へ行け」と言われて、家族と一緒に旅だちました。75歳という晩年に。具体的な内容はなく、大いなる国民にすると、祝福し、地上のすべての氏族はかれによって祝福に入ると。アブラハムはこれを聞いた時、どの程度内容を理解したのかは不明であるが、とにかく この神様の言葉に従ってカナンの方面へ移動しました。シケムの聖所へ一歩移動するとそこで 再び神は彼に表れて「 この土地を子孫に与える」と言われました。そしてアブラハムはそこで祭壇を作って礼拝した。それからさらにベテルの東の山に移り そこでも祭壇を作って 主のみなを呼んだとあります。主のみなを呼ぶとは 主のみなによって祈った(新改訳聖書) という訳により 礼拝するという意味です。彼は一方一歩進むたびに、主を礼拝し 主を呼び求めたのだろう。そしてネゲブまでたどり着いたというところが本日読んだ箇所です。
ここから私たちの生活に適用できるのは、神様は 少しづつ示されるということではないでしょうか。 将来の計画、将来におこることを 一遍に神様はそのご計画を詳細に人間に知らせません。そこで私たちは、知らされたことに基づいて祈り、次の一歩へと進む。するとまたそこで神は少し先のことを示されます。アブラハムは創世記を読んでいきますと、時に神様の約束を信じられなくて 失敗もしますが、それでも信じ続けていることが記されています。創世記13:14 で甥のロトが分かれていったとき また子孫に永久に 見渡す限りの地を与えると。大地の砂粒のようになる 15:1 で あなたの報いは大きい と神が言われると ここで初めてアブラムは 「子供がいないのになぜ?」と神に尋ねます。すると、アブラハムから生まれる子孫が星の数のようになると 言われ、そして「アブラハムは主を信じた。そして彼の義と認められた」15:1-6 とあり最終的に イサクが与えられます。
「あなたのみ言葉は わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」詩編119編105節
上記は、神様のみ言葉はわたしの道の光であり、歩みを灯す灯だという詩編です。灯とはいわゆる現代でいる懐中電灯のような、ランプの小さな光です。それは自動車のヘッドライトのようではなく、また道路の高いところにあるライトのように先まで照らす光ではないと。真っ暗な道を一歩一歩、歩んでいくとき、その足元を照らす光です。懐中電灯では 遠くの先まではその光では見えないけれども、その光があれば、とりあえず安全に歩いていけます。そうして、少しづつ進んでいくと見えない物が見えてきます。
神様の計画も同様ではないでしょうか。私たちは明日のことや 来年がどうなるかがわからなくとも、今日という日に 日々の食べ物が与えられ、守られる、他者と争わずにお互い赦し合う、そのような生活がみ言葉の光によって可能となります。そこには、神様にお任せするという信頼が必要となります。もし不安な気持ちになれば、信頼できるように「信仰を増し加えて下さい」と祈れば必ず恵みとして増し加えてくださいます。 そしてその信仰があれば、この先どうなるのかなと不安になることはなく、落ち着いて日々暮らせます。たとえ何か不安になることが起こっても、すぐにお祈りをすれば、聖書を通して「安心しなさい」という神様のメッセージが与えられ、心に平安が与えられるのはなんと幸いでしょうか。
私たちの信仰は単に、自分が健康で、守られ、すべてが自分の思い通りにうまくゆくことを保証する神様を信じていることではありません。私たちの罪を贖うため十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストの父である神様を信じています。それ程までにして、私たちを愛してくださる神様に対する信頼をもとに、たとえ目に見えなくとも 目に見える聖書のみことばを通して、私たちの歩みを一歩一歩確実に導いてくださると信じることができます。
日々、様々なことが起こり、その度に心が揺さぶられ、疲れてしまうこともあります。体調が悪いと思うようにことが進まず、焦る気持ちばかりが募ることも正直あります。しかし、日々聖書の御言葉に触れると、私の内に住む聖霊が忘れている神様からの恵みを思い起こしてくれて、何が一番大切なのかといつも初心に戻されます。そしてどんなことでも祈り続け、また他の方々にも祈っていただくので、互いに祈りあえることが本当に励ましであります。私が歩む道をみ言葉によって照らして頂き、日々与えられている恵を感謝しつつ、主イエス様と共に歩んでいきたいと思います。
約束がなされても その約束なさる方を信じる者がいなければ その約束は実現されないという面もあります。 つまりその約束を信じて受け取る人が必要なわけです。そういう意味で 神様の約束が実現されることと私たちの信仰とは密接に関係があると言えます。信仰は神様のなされた約束を有効とし つまり信仰なしに祝福の相続の約束は成立しないのです。そしてアブラハムは 信じたのです。
アブラハムは 神様から祝福の約束が与えられます 「祝福」が5回も繰り返されます。ここで実は神様は 歴史の中に神様のご計画の救いとまた裁きを予告されています。人間はこの神様の業に対していかなる態度をとるか、つまり信じるかどうかで 救済か裁きとわかれ、 ここでは 裁きのことが呪いと表されています。しかも「祝福するものたち」は(複数)で 呪う者は(単数)とあるのは興味深いです。
パウロがガラテヤ4:13、神はアブラハムとその子孫に世界を受け継がせる祝福を約束されたが、その約束は律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのとで言っているとおり アブラハムの信仰だけでなく、彼の信仰に従う者も確実にこの祝福の約束にあずかれると啓示により示しています。パウロはガラ4:11で アブラハムは割礼のないままに信じるすべての人の父となるとり、私たちも信仰により義と神様の前に正しいと みとめられると言っています。
アブラハムの信仰とは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を信じた」、と ガラテヤ4:17にあります。その意味するところは、アブラハムもサラも 子供を作る能力は衰えていた、つまり死んでいたのに 彼らから生まれる子孫を与えられると神様は約束され、存在していなかった奇跡の子イサクを呼び出して存在させたのです。およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。 20彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美した とあります。
アブラハムは 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。この信仰が神様から義と認められました。アブラハムは律法を守ったから神様から義とされたわけではないということをパウロは繰り返しいっています。そもそもアブラハムの時代に律法は存在していません 約400年後に神様がモーセを通して与えられていますから。
以上のことから 私たちの信仰と アブラハムの信仰の共通点とは何でしょうか。共通点は 不可能が可能となること 望みなきところに望みを作り出すことができる方無から有を創造する神様を信じる信仰です。アブラハムの場合 100歳から子供が生まれるという不可能が可能になった。私たちの場合は 死人が復活するという不可能が可能となったことを 死は誰も避けられず、死に勝利することはできない、それをイエス様の復活で神様は可能としたことを信じるのが 私たちの信仰です。私たちの罪を贖うため十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストを信じる信仰が与えられています。
今日の創世記の箇所は、神が異邦人つまりすべての民族を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しています。よって、この信仰によって生きる私たちは、信仰の人アブラハムと共に祝福されているのです。この信仰さえも、私たちの自分の意思で、力でもたらしたものではなく、神様の賜物である ということはエフェソ2:7-9に記されています
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」
私たちに信仰が与えられること、救われること、アブラハムにおいて約束された祝福が与えられること、これらすべて神様の恵みであり、神様からのプレゼントです。私たちはその神様のなされた恵の御業に対して、何もお返しできませんが、アブラハムが祭壇を作って神様の皆を呼び求めたように、渡したちは神様に感謝をもって礼拝を捧げられます。 また、わたしたちは神様に造られたものであり、しかも、神様が各々の人生に計画をもっておられ、前もって準備してくださった善い業があり、わたしたちは、その善い業を行って歩むことができる、とエフェソ2:10に記されています、なんと幸いなことでしょうか。
信仰も、良い業も、祝福も すべて神様の恵みです。
キリストを信じる信仰により、わたしたちはキリストのものとなるので、すると、神様がアブラハムに対して約束されたことが、わたしたちにもあてはまり、信仰によりアブラハムの子孫であり、約束による相続人となるとパウロは記しています。
また、このことを確証させてくれるのが、信じる者に与えられる聖霊であり、約束された御国を相続するための保証であるとパウロはエフェソ14:1で記しています。
私たちは神様の祝福の約束が自分にも信仰により与えられているからです。このことを覚え、主に感謝しつつ今週もキリストと共に歩んでいきましょう。
エフェソ2: 10「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」