久しぶりに井頭公園へ散歩に行くと、水辺のカモたちに癒されました。まじまじと見ていると、一匹一匹みな頭や羽の色が異なっています。人なつこいカモは恐れもせず私たちのほうへ近寄ってきました。とても可愛らしく、見ているだけで和みます。カモだけでなく、人間も一人一人、耳の形、指紋等異なると言いますが、自然に造られたものは人口で作られるコピーと異なり、一個体ずつオリジナルです。つまり、人間も生物も世界に一つとして同じものがないと考えると、それが偶然に進化してそうなったという仮説を信じることに困難を覚えます。むしろ想像を超えた力を持つ、全能の神様がすべてを一から創造したというほうが、私は納得がいきます。
一方、自然界の壮大さや美しさを通して神の存在を覚えたとしても、それはどの神様なのか特定できません。昔から人は、自然自体、つまり太陽などを神として拝み、人が「これが神だ」と各々決めるので、各地域によって神々が異なります。こうして神々が数えきれないほど出来上がり、自然を通して知れうる神は相対的になりがちであり、例えば太陽と会話もできないし、関係性を持つことができません。
聖書が啓示する神様は、どのような性質を持つのかを私たちは知ることが出来ます。なぜなら、神の御子イエス・キリストが人となってこの世にこられたので、イエス様と人格的な知り合い方が可能であるからです。人格的な知り合い方ができると、神様と人との間に関係性が出来上がります。もちろん、2000年前に地上におられたイエス様と今私は会えませんが、聖書の言葉を通してイエス様を知り、そしてキリストを通して神様がどういうお方なのかを知ることが出来ます。神様は世界に一人しかいない私を愛して、恵みをたくさん与えようとしておられると分かります。逆にキリスト以外の方法で神様を知ることはできないのです。キリストを通して表される神様は唯一の本当の神様であり、キリストの十字架の死によって人間の罪を赦す方です。さらに神様は赦した後、その人をキリストと結ばせて新しく造られると聖書は記しています*1。新しく造られても、この体で生きている間外見は変わりませんが、内側が新しく造られると、神様の愛に信仰で応答していくという神様との温かい関係性が与えられることが幸いです。外側は衰えていっても、聖霊の働きで内なる人は、少しずつキリストのような性質に変えられて、新しくされていくという希望の約束が聖書に記されているので励まされます。
自分を見ると、変わっていないと落胆します。相変わらず、言葉で失敗しますし、感情的になることがあるからです。しかしながら、古い自分、つまりキリストを信じる前の自分はもはや存在していないことは確かであり、与えられた神の霊(聖霊)によって、神様から恵みとして与えられたものを知り*2、感謝の思いで満たされることを通して新しい創造を実感しています。下記の御言葉にあるように神様の約束を信じ、すぐに変わらない自分にも忍耐していこうと思います。自分の努力や性格、能力で変えられるのではなく、恵みによって、聖霊の働きで変えられていくことを信じ、神様に従っていくと決め、祈り求めていきたいと願います。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16節
*1「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」 コリントの信徒への手紙二 5:17
*2「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。 」コリントの信徒への手紙一 2:12-13