聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

世界遺産:カッパドキアの隠れ場

2024-11-28 18:34:06 | 日記

  先日、テレビでトルコにある世界遺産、カッパドキアの岩窟群についての放映を見ました。この洞窟群は、2世紀初頭にローマ帝国からの迫害を逃れたキリスト教徒が建築した奇岩の中とその地下に至るまで洞窟内の住居や礼拝場所で、広大な地下都市の遺跡です。この遺跡群を見るにつけ、多くのキリスト教徒が全て手でこの岩山を掘り進めて作っていった労苦や、数世紀の間、ローマ帝国の迫害を逃れここに隠れ住んでいたことを思い感銘を受けました。当時彼らはローマ兵に捕まると、木に括り付けられて燃やされたり、競技場で獣に食い殺されたりと残酷な仕方で処刑されました。彼らがローマ皇帝を神として拝むことを拒否し、真の神のみを信じることを妥協しなかったからです。信徒たちはローマ帝国に対して反乱を起こしたり、戦ったりせず、捕まれば無抵抗で殺されていました。しかし、迫害されればされるほど信徒の数は増え続け、キリスト教が312年に公認され、392年ローマ帝国の国教となるまで、忍耐してこのような隠れ場にて生き延びてきたことをこの遺跡が語っています。

 イエス様が「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」*1、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」*2と言われ、攻撃してくる敵と戦おうとする弟子に「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」*3)と制し、復讐せず、悪をもって悪を返さないというのが聖書の教えです*4。一方で、命を狙う者から逃げ隠れするな、不正に対して黙って見て見ぬふりをするようにとは記されていません。ただし、すべての言動にはタイミングはあると思います。なぜなら、イエス様ご自身の生涯において、はっきり宗教家たちの偽善を糾弾する時、神の国が近づいたと福音を人々の前で公言する時、殺そうとするユダヤ人から身を隠される時、逮捕されて十字架にかかるまで彼らの暴力のなすがままに身を任されて沈黙されている時と、各々時があるからです。

 神様はご自分の愛する民を守られる方であることは、聖書を通して示されています。洞窟に長年見つからず隠れて信仰を継承できたのは、神様の守りの中にあってのことだと思います。同時に、信仰のゆえに殉教していった多くの信徒を神様は見捨てたのではなく、共に苦しみ、そして天という安住の地でかれらを迎えられるお方だと信じます。イエス様は弟子たちを世に派遣される時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われた約束が聖書に示されているので、たとえどんな状況にあっても独りではないと心が強められるからです。自分の無力・弱さを感じる時に、「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」*5とも使徒パウロにいわれた御言葉にも励まされます。更に、信じる者の心の内側に住まわれる聖霊が目には見えなくとも私たちに何を語るべきかを教え*6、私たちの心の内を私たち以上に把握して祈りを神様へとりなし、慰めを与えて助けて下さる、そんな聖霊の働きが私たちキリスト者の信仰の持続を助けくれているということを改めて神様に感謝したいと思います。

   「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け

          わたしの救いの右の手であなたを支える。」イザヤ書41章10節

 

*1マタイによる福音書5章14節

*2マタイによる福音書5章39節

*3マタイによる福音書26章52節

*4ローマの信徒への手紙12章17節

*5コリントの信徒への手紙二 12章9節

*6ルカによる福音書12章11-12節「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

 


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旧約聖書の学び 創世記7章

2024-11-28 13:51:25 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇11月28日(木) 創世記7章1-24節 洪水とノアの信仰の試練

 ノアは500歳の時に、3人の息子セム・ハム・ヤフェトを産み(5章32節)、その後神様に箱舟を造るように命じられました。神様の設計図によると箱舟のサイズは巨大で(6章16節、1アンマという表記の単位はおよそ45cm)、現代の潜水艦と同じような比率と大きさだそうです。そしていよいよ箱舟が完成し、神様はノアとその家族とつがいの動物たちに箱舟に入るように言われたのが、ノアが600歳の時ですから(7章6節)、約100年近くかけて箱舟を造っていたことになります。この100年間について聖書は何も記していませんが、ノアとその家族は周りの「悪いことばかり心に思い計っている」人々(6章5節)の中にあって、「何のためにこんな巨大な船を造るのか?」と何かしら馬鹿にされたり、妨害もあったのではないかと想像します。それでも、ノアはひたすら100年間、家族4人で、現代のような重機や材料もない時代に箱舟を建設していたのかと思うと気が遠くなるような忍耐の時だったと察します。ノアは神様への信仰を持って、この試練に耐えたのではないかと思います。また箱舟に入ってからも、40日40夜、地上の高い山はすべておおわれるまで雨が降り続き、その後も150日間、水で地上がおおわれていたことが記されています。つまりその間、ノアたちは箱舟の中で動物たちの世話をしながら、狭い空間の光もささないところで、じっと生き延びていたことを思うと精神的にもよく耐え抜いたと、この箇所から読み取れます。

 現代に生きる私たちは、ノアの信仰の試練と忍耐を模範とし、神様に委ねて信仰生活を歩んでいきたいと励まされます。特に、日本にように神道・仏教が多数派である国において、聖書の神様のことを伝えることは容易ではありません。実際、統計的にみても、キリスト教信徒の数は戦後から現代にいたるまで人口の1%を超えたことはなく、近年は宗教全般に対するアレルギーのようなものが日本には出来上がっているようです。特定の宗教を真剣に信じることが危ないかのような風潮。世界の宗教観とその歴史的見地からすると日本のこの風潮は理解しがたい話ですが、結局、日本人だけでなく人は皆自分が中心で、自分以外の大きな存在、自分を支配する存在は受け入れたくないのです。「神」呼ばわりされて高慢になり、自分の好き勝手に生き、いいところだけ宗教を利用し、今のことしか考えないように生きることを、メディアも加担していると言えます。そこに、ノアのように神に従うという発想はないのです。

 神様は洪水で世界を一度滅ぼされ、再び「水」では滅ぼすことはないとノアと約束をしました。しかし、現代の様子はノアの洪水前の時代と同じか、もっと悪が増していると思います。地球規模の自然破壊が進み、ネットを通しての犯罪がグローバル化し、人がAIによってさまざまなことを始め、そのうちにAIが愚かな人間を支配するようになる時代が来ると危惧される程に至ります。AIは神を信じる信仰は持てませんから、物事が神なしの人間の知恵で考えられることをデータ化され、分析され、実行に移されます。

 ノアの洪水の物語とノアの信仰は、神を信じて忍耐し命を得ることと、自分が神のようになり続け滅びることのどちらかの選択を、私たちに問うているように思わされます。神様は人が滅びることを望んでおられないし、同時に悪がはびこってほしくないため、御子イエス・キリストを私たちの罪からの救い主として、この世に送って下さりました。全ての人がキリストによって救われるように「あなたは命を選び」*なさいと神様は招いています。そのためにキリストの命という大きな代償が十字架上で払われていること、その大きな神様の恵みを感謝して、神様を信じて従っていきたいと願います。

*申命記30章19-20節参照


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