聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

旧約聖書の学び 創世記6章

2024-11-24 15:57:11 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇11月21日(木) 創世記6章1-22節 ノアは神と共に歩んだ

 「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(6節)神様は、ご自分が造られた人と生き物を洪水で滅ぼすことを決めた断腸の思い、それにいたる経緯が6章に記されています。「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」とあり、神の子らとは天使(神に仕える天的存在)のことを指すと解釈されますが、なんと天使が人間の女性とこどもをつくり、それがネフィリム(「巨人」70人訳)であり、大昔の名高い英雄たちであったと記されます。そして5章で記される900年前後生きてきた人類を、神様は「こうして、人の寿命を百二十年」にしたと記されます。天使というのは被造物であっても、突然現れたり、消えたり、天に神さまと一緒にいる様子などが旧約聖書には記されていますので、人間とは次元の違う被造物のようです。神の使いとして人間に現れ、メッセージを伝えていることが記されていますが、神様に逆らう天使もいたのでしょうか。

 5節「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」とありますが、人間の悪が増すだけでなく、1~4節で示される天使と人のハイブリッドのような存在も共に悪を拡大させるとなると、想像を絶する混乱と悪のまん延であります。11-12節「地は神の前に破滅していた。地は暴虐に満ちていた。神が地を見ると、果たして、それは破滅に瀕していた。すべて肉なる者が地上でその道を破滅させたからである。」(「旧約聖書Ⅰ(机上版)」岩波書店)とあり、このように全てが破滅してしまったら、一度全てリセットせざるをえなかったのでしょう。それでも、神様は自分が造られたものを滅ぼすことをどれ程悲しみ、苦しんだかが、6節で簡潔な表現ですが記されています。

 慈愛の神様は全て滅ぼすのではなく、ノアの家族と生き物のつがいをその再生のために残されました。エノクは神と共に歩み天に移されましたが、ノアは神と共に歩み(9節)、神様の計画を打ち明けられるまでに信頼されていました。ここでは「ノアは~と言った」と書かれていないので、つまりノアは何も言わずに神様の命令に従い、巨大な箱舟を家族と造りました。これもヘブライ人への手紙11章7節に「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」と信仰の人として記されています。ちなみに箱舟(テーバー)については、旧約聖書で唯一の同じ単語として、モーセの「葦の籠」がでてきます。モーセも籠の中でナイル川の水を通り、拾われて命を得、出エジプトという神の救いのためのリーダーとなりましたが、ノアとその家族は「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」 (ペトロの手紙1 3章20節)。さらに、3章21節で「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」と記されています。洗礼は一度古い自分が水に入って死に、そして水から上げられ新しく生まれることを表します。洪水と箱舟を通してノアたちが生き残って新しい時代を始めた出来事も、キリストによる完全な救いを指し示していると言えます。なお、聖書で初めて「契約」という言葉がでてくるのが18節です。聖書全体を通して、神様の契約の出発点にあるのは救いと言えましょう。


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旧約聖書の学び 創世記5章

2024-11-24 15:51:04 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇11月14日(木) 創世記5章   系図:一人一人の名前が神に記憶されている

この章は、アダムの系図として記されています。その系図の定式「~は○〇歳になったとき、だれだれをもうけた。 ~は、だれだれが生まれた後◎◎年生きて、息子や娘をもうけた。~はXXX年生き、そして死んだ。」により、セツの家系がどのようにノアに繋がったかの記録が記されています。聖書には、系図がいくつか記されていますが、一人一人の名前が神に記憶されていることを表しています。4章でもカインの系図が記されていますが、5章は4章とは別の資料(祭司資料)だといわれます。これらの人たちは寿命が900歳前後です。聖書以外の古代の記録、例えばシュメール人の記録では大洪水があったこと、また洪水以前の王として8人もしくは10人が揚げられていて、それぞれが平均して数万年統治していたそうです。古代ではが各人種とも先祖が長寿だったという伝説をもつようです。数え方の違いとの説もあり。いくら長生きしたとしても、必ず「死んだ」と記され、死が必ず人生にあることを強調しているかのようです。

 ところが、一人だけ、「死んだ」と記されていない人がこの系図の中にいます。エノクという人です。エノクは「神がエノクを取られたのでいなくなったと」記されています。旧約聖書及び初期ユダヤ教では人間の不死という思想があまりなく、「神が人を取り去る、いなくなる」は死の湾曲語法だそうです(詩39:14 イザヤ53:8参照)。一つだけ、預言者エリヤは火の戦車にのせられ昇天したという記録が列王記2 2章11節にあります。エノクには他の人には記されていない特徴「神とともに歩んだ」とあり、へブライ人への手紙11章5節に「信仰によってエノクは死をみないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。」と死を味わうことなくエノクは天に移されたとされます。

 ノアも「神と共に歩んだ」人として6章9節に記されています。ノアは「慰め、休息」という意味で、彼の父が「主の呪いを受けた大地で働く我々の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と名付けました。それ程、土地を耕しても収穫を得るのに労苦が大きかったので、土地の呪いが解け、人間がを耕すことの労苦から解放されることを願ってノアと名付けたのでしょう。続く章に示されるように、この名に託された切なる願いが、ノアによる新しい時代の始まりの予告となるのでしょう。


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旧約聖書の学び 創世記4章

2024-11-24 15:48:41 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇創世記4章1-26節   人類最初の子供と最初の殺人  2024年10月31日

 人が自分で善悪を決めることにした結果の恐ろしさが、この章にさらに記されています。最初の人間アダムとエバの間に子供が生まれました。最初の男の子はカイン(ヘブル語:カーナー、「得る」という意味)、二人目の男の子はアベル(息、虚しさという意味)と名付けられました。なお、カインはアラビア語で、鍛冶屋、槍という意味があるそうです。

 事の発端は、二人がそれぞれ神様に捧げものを持ってきたことでした。カインは土の実りを持って来て、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来ました。神様はアベルとその献げ物に目を留められたが、 カインとその献げ物には目を留められなかったと記されます。それでカインは激しく怒って顔を伏せました。なぜ、神様はアベルの捧げものだけ目を留め、カインのには目を留めなかったのか?これも諸説あり。新約聖書のヘブライ人への手紙11章4節では信仰によってアベルはカインより優れたいけにえを捧げたとされたと記されています。確かに「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」(4節)とありますから、一番良い初子を捧げたのを、主なる神様は「アベルとその献げ物に目を留められた」のでしょう。それに対して、カインは怒って顔をふせたのです。

 神様はカインの心の内をご存じだったので、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(7節)と忠告をなされました。カインは、「自分だって一生懸命働いて、収穫できたものを捧げたのに、なぜ神は自分の捧げものには目を留められないか!なぜ、弟だけ認められるのか?」と不公平に思ったかもしれません。理由を神様に聞けばよかったのに、聞きづらいのか、それでその怒りの矛先を弟のアベルに向けられました。兄弟・姉妹というものは、とかく、家族のなかで、子どもという同じ立場で互いにを比較しがちです。比較することが悪いとは思いませんが、比較により、自分が高ぶつて他者を見下げたり、自己卑下して自己憐憫におちいり、他者を妬むという心の思いは、やがて行動に反映され、取り返しのつかないことになります。現代でも、殺人の動機は相手を妬む思い、もしくは見下されて悔しい思いで恨みを持つということだったり、妬みというのは何も良いものを生み出さない、恐ろしい感情であり、犯罪がおきる根であるといえましょう。

 カインは怒り・妬みをコントロールすることができず弟を殺し、神様から「何ということをしたのか。… 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。」(10-11節)と言われます。呪われる者となって、どう生きて良いかわからなくなったカインに、神様は慈愛をかけられ、カインが殺されないよう印をつけて守られています。カインはもはや農業はできなくなり、さすらう者となりましたが、都市をつくり、彼の子孫は彼の名前のとおり「鍛冶屋」や、音楽を奏でる者がでてきたことが記されています。また、カインの子孫のレメクという人は、最初の一夫多妻制を始め、神様が定めた一夫一妻制という結婚の秩序を変え、無制限の復讐を始めました。

 更なる人間の罪の拡大という暗く、悲しく、希望がないような人類のストーリーに、一筋の光が差し込みました。一度に二人の子供を失ってしまったアダムとエバに、もう一人の男の子が生まれたのです。セツという名で、そしてセツは子を産み、エノシュと名付けました。主の御名を呼び始めた、つまり主なる神様を礼拝し始めたのは、この時代であることが章の最後に記されています(26節)。人が何をしようとも、神様は続く希望を残されています。


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旧約聖書の学び 創世記3章

2024-11-24 15:46:04 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇創世記3章1-24節  人が神のようになりたいと欲するとき:罪の始まり     2024年10月24日

 この章は最初の人アダムと女(エバ:命)が、神様の創造の秩序を壊してしまうという悲劇、人間の罪の始まりが記されています。

 無邪気で無垢な人は、楽園のような何不自由ない環境で善い人ばかりに囲まれていれば、そのままでいられたかもしれません。しかし、神様が創られた生き物でもっとも賢い蛇が女を誘惑します。この蛇という存在が文字通り蛇という賢い生き物だったのか、悪魔が蛇の形をとって登場したのか、それとも象徴的存在なのかと諸説あります。とにかく、この蛇は女に巧妙に語り掛け、神様から言われたたった一つの禁止命令「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」を破ってしまいます。園に他にはたくさんの実が生えていて、好きに食べてよいと言われ、食物は満ち足りていたのに。

 人間にとって何が良いか、良くないかをよく知っているのは、人間を創ったメーカーである神様です(創世記1章31節,2章18節参照)。これによって、園の生活において人間は安全な状態に守られていたのですが、蛇の誘い「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」に刺激されて、女は神のように善悪を自分で決めたい、つまり神のようになりたいという思いが湧き上がってしまったのではないでしょうか。そして、男は直接神からこの禁止命令を言われ、その内容を正確に把握しているはずですが、女に反論もせず食べてしまいました。今やこの二人は自分自身のことは自分自身で判断し、決定するようになった。その結果が、まずは神に謝ることもせず言い訳と、他者への責任転換です。神様との信頼関係も失い、男と女の麗しい関係が破壊され、土地も呪われてしまいました(17節)。食べたら死ぬとは、神からの本質的な分離のことを意味し、体はある程度の寿命まで生きていても生きる意味も分からず、罪を拡大し、苦悩し続けることになります。善悪の木の実を食べるとは、人間が神から離れ「この体は、命は自分のものだから、自分が良いか悪いかを判断する」ということなのです。

 この暗い、絶望的なストーリーの中にも、神様のご自分が造られたものへの慈愛と人間への希望が示されています。まず、蛇の子孫の頭を女の子孫が砕く(15節)という神様の不思議なことばです。これは原福音ともされ、女の子孫、つまり人として生まれるイエス・キリストが、蛇の子孫:悪魔と死に勝利すること、そして罪を犯して神から離れてしまった人間を救うために神の御子イエス・キリストが十字架にかかられることを示していると言われます。

 神様が二人を園より追放したと(24節)とありますが、23節の原文は「人間はエデンの園から土地を耕作するために送り出した」のニュアンスだそうです*。  神様は裸で恥ずかしいと思っている二人に皮の衣を着せてあげて、自分たちの蒔いた種の刈り取りをすることになる、園の外での生活に送り出します。そこには、神様の心痛を伴う、愛を持って子を送り出す親の子への愛を感じ取れるのです。

*23節の「追い出す」と訳される原語(イシュラフ)は「派遣する、送り出す」という意味がある。大野惠三、「旧約聖書入門1 現代語りかける原初の物語」、新教出版社、2013年、P213引用


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旧約聖書の学び 創世記2章4-25節

2024-11-24 15:41:40 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇創世記2章4-25節  社会的存在としての人の創造

 創世記には、二つの資料からなる二つの創造記事が記されています。神様が天地を創造されたことには変わりがないのですが、二つの物語では創造の順序が異なったり、また創世記一章よりも、2章4節以下の方が人間の創造がより詳しく記されています。聖書はいくつかの伝承が記録され、それらが編集されて今の書簡になっているとされ、同じ出来事でも違った経緯で記されている部分があり、一見すると、矛盾があると思われる場合があります。しかし、聖書という書物は科学の本ではなく、信仰の本であります。人々が長い歴史の中で口伝の伝承が伝えられ、文字として記されていくうちに、二つの異なったストーリーが重なったとしても、先のものを取り消すことなく、両方とも残すというところが聖書の特色であり、両方を総合しての神様からの多面的なメッセージが記されているのだと思われます。この聖書が今の形として成立しているのは、人の作業の背景に、歴史の流れを超えて存在される神様の霊の働きによって書かれている*1と言えるでしょう。

 1章では簡潔に神様が男と女を神に似せて造られたとのみ記されていますが、2章はこうです。神様は男(アダム)を土(塵:アダマ)から最初に造られ、そして「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と、まずは動物を創られました。そして「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」ので、神様は男の側骨(あばら骨)を一本とって、それから女を創って男のところへ連れてきました。そして男はようやく自分と同じ人である、自分に合う助ける者を与えられ、女と名づけたと。

 エゼル(ヘブル語)という単語は、「助ける者、ヘルパー」と訳されますが、「応答する者」 という意味もあるそうです。男が先に造られた、だから後に造られた女性が男性に従属的であるという伝統的な、家父長制的な考え方がありますし、使徒パウロもそれにそった記述をしています*2。しかし、そのパウロが一方で、キリストを信じる者に男も女もないといっていますので*3、またこれも、聖書は多面的。女性は男性に「応答する者」とすると、上下関係・主従関係がない、パートナーとしての存在と見ることができます。女性も男性に助けられて生きる存在であることを否定できません。つまり、お互いパートナーとして助け合う存在であります。一方、社会の最小単位である家族の中にもリーダーシップをとる人が必要であり、それがないと二人以上の社会生活で秩序を保つのは困難であります。皆が平等であっても、皆がリーダーですと事がまとまらないからです。

神様は、人は独りで生きていけない、互いに助け合う存在として、人間を創造されました。家族という社会の最小単位として、夫婦の関係を最初の人間:男と女で造られ、二人は別々の個体であっても、心も体も一つになれる、お互いが信頼し合い、助け合う関係とされたことが記されています。ちなみに、イエス様は復活した人間について、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」*4と言われましたので、新しい創造にあって、復活の体では結婚もなく、天国で皆が新しい関係なのでしょうか。

*1「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」テモテへの手紙2 3:16

*2 礼拝のかぶりものについて コリント信徒への手紙1 11章7-9節

*3 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」ガラテヤ信徒の手紙3章28節 

*4 マタイによる福音書22章39節


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