聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

旧約聖書の学び 創世記13章 主に従う生活

2025-01-24 08:53:06 | 日記

〇1月23日(木) 創世記13章 (益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」の概要を掲載しています)

 アブラハムはエジプトを発ち、ベテルへ移動しました。そこは彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所でした(4節)。そうすることでアブラハムは、エジプトでの失敗後、主なる神の約束に従おうと、また信仰の原点に戻れたのかもしれません。しかし、次なるテストがアブラハムになされます。神の祝福のゆえに家畜が増え、財産が増えるということは感謝なことですが、一方で神様への感謝や、そもそも神様が与えて下さったものであるということを忘れてしまう、もしくは知らない人間は強欲になりがちです。アブラハムとロトの場合も両者の財産が増えると、互いの僕の間に争いがおきたと記されます。つまり限られた牧草地で、多くの家畜を養えなくなってしまいました。このことで、年長者として、また神の約束を直接受けた者として、甥のロトに自分の優先権を主張することは出来たはずです。しかし、アブラハムは「争うのはやめよう」(8節)と平和を愛する者として、自分の権利を主張せず、ロトに土地を選ばせ、別々に住むことを提案しました。この提案から、アブラハムは人間的常識や計算にとらわれず、信仰によって行動したと言えます。一方、ロトは目を見上げてよく見て、潤っている低地を選択しましたが、そこは邪悪な民が住むソドムとゴムラに近い地域でした。しかも、その後ロトは天幕を、最初に住んだ低地からソドムまで移し(14:12)ついにソドムの門のところに座るようになります(19:1)。つまりソドムにおける権力のある地位を得るようになったのです。このロトの行動から、彼は神様の祝福のゆえに豊かになったことを忘れ、目の前に利益によって心を動かされ、悪の方へ引き寄せられてしまったように見え、アブラハムとは対照的です。私たちの生活の中でも、自分の権利を主張して他者と争わず、他者を優先し「お先にどうぞ」とすることを心掛け、神様が与えてくださっている現状に感謝し、満足できることは幸いだと思います。「損している」と他者から言われるくらいが妥当なのではないでしょうか。

 ロトとの別離の後に、主が新たに約束を与えました。創世記をこの後読んでいくと、主はアブラハムの生涯の節目節目に主の命令と約束を繰り返され、新たにされています。最初の創世記12章1-3節の召命と祝福の約束が、ここで一歩具体的に示され、「見える限りの土地すべてを、大地の砂粒のように数えきれないあなたの子孫に与える」と言われます。その後もアブラハムは天幕(テント)生活を続け、ヘブロンへ移りそこで祭壇を築いたとあります。土地を与えるという約束で「その土地を縦横に歩き回りなさい」(17節)という神様の命令のとおり、一つのところに定住せず天幕生活のスタイルを続け、行く先々で祭壇を築いて主なる神を礼拝し、主に従う生活を継続していきました。多くの家畜の群れをつれての天幕生活は行く先々の先住民との平和的交渉が要され、困難で不安定な生活だったはずです。しかし、アブラハムは何度も試練に遭い失敗することがあっても、信仰が増し加えられ、主に委ねて一歩一歩歩んでいたことを聖書から知り、私たちはアブラハムの信仰に倣いたいと思わされます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧約聖書の学び 創世記12章 すべての諸族に対する祝福の媒介者:アブラハム

2025-01-24 08:49:55 | 日記

〇1月16日(木) 創世記12章  (益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」の概要を掲載しています)

 「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」ヘブライ人への手紙11章8節

 アブラハムはイスラエル民族の父祖です。本日の箇所は神様がアブラハムとサラという一組の夫婦を選ばれて、一つの民族を起こされ、その子孫から救い主イエス・キリストを人として生まれさせ、神様の人類を救う計画を始められた箇所であると言えます。1-3節に、神様のアブラハムへの命令と約束が示されています。「あなたのうまれ故郷を出よ 父の家を離れて わたしが示す地へ行きなさい」という命令に従った当時75歳のアブラハムにとって、どんなに過酷な決断を迫られたのか聖書は記していません。高齢になって、血縁のつながりを捨て、ただ神様の示す場所へ導かれて行くこと、その示す場所もすでに先住民族がいて自分たちの生活の地とすることは容易ではなく、寄留の生活を続けなければならないことは、常識的・保身的思考ではとても実行に移すことは難しいでしょう。これは、ただ神様に全てを委ねて生きようと信じ、実行に移した信仰によって、アブラハムはその歩みを一歩踏み出したのでしょう。

そして神様の約束が続きます。2-3節「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」とアブラハムに言われました。祝福という言葉が5回もでてきます。「あなたによって祝福に入る」は「あなたによって祝福し合う」とも訳せるそうです[i]。アブラハムはキリストを信じる者にとって信仰の父祖であることをパウロが説明しています。ローマの信徒への手紙 4章16節で「従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。」そして、ガラテヤ信徒への手紙3章7-9節で「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」とあるとおりです。

そして、彼は移動するごとに祭壇を築き(礼拝し)、主の御名を呼んだ(祈る)と7-8節に記されています。一歩旅を進めて留まったところで、神様を礼拝し、祈って指示を仰いでいた、この姿勢にアブラハムの信仰の現れを見ることができます。しかし、そんな偉大な信仰の父とされるアブラハムは最初から強い信仰の人だったわけでないことが、この後に続くエジプト滞在の話に示されます。カナンの地に入り、さらに南へ旅を続けネゲブ地方に移るとそこで飢饉に見舞われます。古代パレスチナで人々は飢饉の際、肥沃なエジプトへ難を逃れていたことがBC1350年ごろのリリーフ壁画に残されていますが、アブラハム一行も同様の理由でエジプトに滞在しました。そして、美しい妻サラがファラオの目にとまると、夫である自分が殺されてしまうという恐れより、サラを妹と偽ります。実際、サラはファラオに召し入れられてしまい、このままでは二人を通して子孫が増えて祝福されるという神様の計画が頓挫してしまうところでした。しかし、神様が介入され、ファラオの宮廷の人々が恐ろしい病気にかかり、それがアブラハムの嘘のせいだと判明したのか、アブラハムは宮廷から与えられたたくさんの家畜とともに、すぐに退去するよう命じられます。なお、創世記20:12ではサラは腹違いの妹だとアブラハムは主張していますが、妻であることを隠したことには変わりありません。

神様の選びというのは、最初から信仰深く、立派な人格だから、アブラハムを選んだわけでないことがここから知ることができます。これから続く忍耐の期間、そして試練を通してアブラハムは信仰が練られていったのでしょう。同様に、現代にいる私たちが各々に置かれた場所で神様から遣わされ、託されていることがありますが、神様の選びは私たちが、優秀だから、人格が立派だから、信仰深いからによるのではなく、欠けがあっても、能力が何か秀でていなくとも、神様はすべての人にこの世で生きる上で役割を与えておられ、そして私たちが信仰で踏み出すと、共に歩んでくださる方だと励まされます。

 

[i]大野惠三、「旧約聖書入門2 現代語りかける父祖たちの物語」、新教出版社、2015年、P22-23引用


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする