聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

嵐の中でイエス様を迎え入れる

2025-01-30 16:43:47 | 日記

 イエス様の弟子たち中の数人は漁師です。ですから彼らは仕事柄、彼らの漁場のガリラヤ湖の状況を良く知っている人たちです。海面下約182mのところに位置するガリラヤ湖は、突然の激しい嵐が吹き下ろすことで知られていました。日が沈み空気が冷えると、西から風が吹き込み波をかき乱します。この日は、イエス様が5000人の群衆に、5つのパンと2匹の魚を奇跡で増やし、満腹するほど給食をなされた日でした。イエス様が夕方、弟子たちを強いて船に乗せて向こう岸へ行かせました。「強いて」とあるのは、もしかしたら弟子たちは舟を漕ぎだしたくなかった空模様、もしくはイエス様と離れたくなかった理由があったから躊躇し、イエス様が強いたのかもしれません。人々はそのパンの奇跡に興奮し、イエス様を王に祭り上げようとした程で*、イエス様はそのような群衆から弟子たちを離したかったかもしれません。弟子たちはイエス様の指示に従って舟を出しました。一方、イエス様ご自身は、一人祈るために山に登られていました。

 舟を出してからまもなく、弟子たちが向かっている方向から風が吹きおろし、数時間漕ぎ続けても舟は進まない状態でした。弟子たちの湖での様子を、山の上から月明りのもとで見られ、イエス様は湖の上を歩いて弟子たちのもとへ向かいました。暗闇の中で、弟子たちは水の上を近づいてくる人物は幽霊だと思って恐怖におののきます。イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました(50節)。イエスの弟子たちはイエス様だと分かると舟に招き入れました。すると、すぐに奇跡的に目的地の岸へ到着しました。

 イエス様に従う道は時々先が見えず、不安で、恐ろしく思えるかもしれませんが、弟子たちのように私たちが苦難の中にイエス様を招き入れれば、イエス様は私たちが必要な場所にたどり着けるように導き、助けて下さる方です。日常生活の中で、突発的なこと、予期しない困ったことが起こります。そんな時、なんとか乗り越えられてきたのは自分の力でしょうか?私たちが気が付かないだけで、実は神様の奇跡的な救済の出来事は毎日私たちの周りに起きているかもしれません。聖霊の導きによりその奇跡をとらえ、神様に感謝し、主が全てコントロールしておられると委ねられる時、私たちの信仰が強められ、更なる困難や試練に耐えられるように強くされていくことでしょう。私たちは、嵐的状態においても、慌てず、恐れずにイエス様に信頼して解決方法・助けを求めて祈り、心の平安を持ち続けたいと願います。

「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。」  マルコによる福音書6章49-51節

 

*並行記事 ヨハネによる福音書6章15節


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旧約聖書の学び  「聖書について」 創世記1章より

2025-01-30 14:40:38 | 日記

〇1月30日(木) 創世記1章  聖書について 天地創造より

 聖書は旧約聖書(39書簡)と新約聖書(27書簡)の66の書簡から構成されています。聖書は神様の言葉が、数千年をかけて多くの人々を通して伝えられ、神の霊感によって記され、現在の形にまとめられました。旧約・新約の「約」は契約の意味、つまり旧い契約と新しい契約という意味です。聖書の神様は人間と約束をなさる(契約を結ばれる)方で、その契約の内容が聖書に記されています。旧約聖書の初めに、神が天地をどのように創造したかが示されていますが、聖書は科学の本ではなく、信仰の書です。旧約聖書(キリスト教徒からの呼び名)はキリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教でも正典とされ、神様がメシア(救い主)を送るとの預言が示されていて、キリスト教はそのメシアがイエス・キリストであると信じ、イエス・キリストによる新しい契約が記されているのが新約聖書として、新約と旧約を合わせて聖書としています。世界で多く使われている西暦は、キリストが生まれた年(正確には数年誤差がありますが)を紀元として、Before Christ (B.C.) 紀元前はキリストが生まれた年から何年前とし、A.D.(Anno Domini)が紀元後で、キリストが生まれた後から何年後という数え方です。このように、ヨーロッパはキリスト教が国教となり、習慣、文化、芸術にいたるまでキリスト教の影響がうかがえます。

 神様がこの今ある全てを無から創造されたことが創世記一章に記されています。「光あれ」との言葉から始まり、神様が言葉を発すると、その通りに造られていきます。最初に光を創り、光と闇に分けて昼と夜という一日の単位を創られました。そして、大空(水)を上と下に分け、地と海を分け、そして植物、天体、水中生物・鳥、その他すべての生き物、最後に人間を創られました。神様は造られたものを見て「良しとされ」、六日かけて創造されました。人間だけを神様に似せて、かたどって創造されたとあり、自然界の他の造られたものを治めるように命令。人間と他の生物の違いは、人間は神のかたちに似せて造られ、創世記2章で記されていますが、神の息(霊)が吹き込まれていることです。神は霊ですので、人間も霊を与えられることで、霊の部分で神様を認識し、交流できます。他の生物は霊が与えられていないので、人間のように神を礼拝したり、交流したりできません。猿が祭壇を造って神を礼拝していたということは考古学的にも見つけることができません。人間だけが、神様と交わり(関わる)ことが出来るように、神様は造られました。そして、7日目に神様は創造の仕事を離れて、安息なさり、この日を祝福し、聖別、つまり他の日から取り分けたとされます。今、私たち日本人が世界共通の西暦や時間の数え方を用い、週に一度休むという制度は、ヨーロッパから明治時代に取り入れられたもので、ヨーロッパ諸国のこれらの規則は聖書が由来です。

 神様はなぜ人間を創られたのでしょうか。それは神と人が交わり(関係を持つ)を持つためであり、人間を愛するために創られました。人は最初は神によって「良い」ものとして創られましたが、神から離れ、自分の望むことを他者を配慮せず追求するようになりました。自分を創造した神様から離れ、神の存在を否定するようになると、人間同士の関係、自然との関係も壊れていきます。それが今に至り戦争、自然災害につながります。神様は人が他の生き物を支配するように命じられましたが、それは神様が創られた天地とその命あるものを大切に管理するよう、神様から委託された働き、責任であって、人間が好き勝手に枯渇するまで資源を採掘し、動植物を乱伐、乱獲することではありません。

 神を否定する(これを罪といいます)人間を赦し、この神との壊れてしまった関係を和解するために、イエス・キリストが人となって生まれ、人間すべての罪のために十字架上で死なれ、3日後によみがえりました。神様は、人間を救うために、御子イエスの命を犠牲にされました。これが、神様の人間に対する愛の表れであり、御子イエス・キリストを人類の救世主(メシア)としてこの世に送られました。


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