生活のなかで、何かを人にお願いするとき、「できれば」「可能であれば」という前置きをつけることがあります。それは、相手に無理がないようにという配慮で言う場合と、ダメもとで、つまりできないかもしれないけれども頼んでみようという場合があると思います。しかし、緊急で必死の依頼の時は、相手の状況を構わず頼むでしょう。例えば、自分の子供が死にそうになっていて、治療について医者と話すときは、「できれば」と言う余裕はなく、「なんとか命を救ってください!」と必死になると思います。それに対して医者は、人間の能力には限界がありますから、「ベストをつくしますが(できないかもしれませんが、ご了承ください)」と答えるかもしれません
約2000年前、まだ医療が未発達の時に、ある子どもがいわゆる自傷行為を繰り返し、錯乱状態で自分をコントロールできない、なんとも痛ましい状況にありました。その原因が霊にとりつかれているためで、その霊がその子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込んたと聖書は記録しています。その子の親は祈祷してもらってなんとか霊を追い出してほしいとイエス様の弟子たちに頼みましたが、効果がなく、絶望状態でした。そこへイエス様が登場し、おそらく半ば諦めモードでその親は「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と言いました。すると、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」*とイエス様は言われました。その子の父親すぐに必死に「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫びました。すると、イエス様は霊に命じて、その子から出るように命じ、その子は正気にもどりました。
この箇所を読むと、この親の発言「信じます。でも私は信仰がないのです:信じられないのです」と逆のことを同時に言っていることに気づきます。しかしこの親は、自分の不信仰をイエス様の前に悔い改めて告白しているのです。信じきれない自分でありますが、助けてくださいと叫んでいるのです。つまり、元来は子どもの為にお願いをしていたのですが、そのことを通して、自分とイエス様の関係において、信じられない自分、不信仰な自分に気づき、悔い改め、こんな自分を助けてくださいとの祈りに変わったのではないでしょうか。、
長い間祈り続けても、祈りが聞かれない、もしくは病がいやされないで闘病生活が長く続くと、不信仰になってしまうことも仕方がないと思います。そんな自分の状態であっても、正直に神様の前に祈りにおいて告白し、その上で「主よ、助けてください。あなたはすべてをコントロールしている方です。私の信仰を増し加えてください。」と祈れることは幸いです。疑ってしまう自分、強い確信をもって信じ切れていなくとも、神様は憐み深い方であるゆえに、イエス様を通して、天の父なる神様に祈り続けていこうと励まされます。さらに、下記の御言葉にあるように、どう祈ってよいかわからなくとも、私たちに与えられている聖霊が代わりに天の父に祈ってくれるとの約束が与えられていること、大きな慰めが与えられます。
「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」 ローマの信徒への手紙8章26-27節
*マルコによる福音書9章23節