聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

「空しさを満たす神の愛」日曜礼拝メッセージ

2025-02-16 09:48:21 | 日記

「空しさを満たす神の愛」     コヘレトの言葉 7章15-22節

 本日は コヘレトの言葉からメッセージを分かち合います。この書の著者はその中で「空しい」という言葉を39回も使用し、「太陽の下」には不条理なことが多く、人間の生は空しいという思想によってまとめられています。そして著者の結論としては、神を畏れ、戒めを守ることだ(コヘレト12章13-14節)と記しているようです。しかし、人間は神の戒めを全て守れるでしょうか?守れない人は空しいままなのでしょうか?
 
  なぜ空しいと感じるのか。その理由は創世記の人の創造を読むと、人は神にかたどって創造された(1:27)と記されていることからわかります。人間と他の生物の違いは、人間は神のかたちに似せて造られ、創世記2章7節で神の息(霊)が吹き込まれて人は生きる者となったと記されています。神は霊ですので、人間も霊を与えられることで、霊の部分で神様と交わりができます。つまり人は神様と交わりを持つために創造されましたが、罪により神様から離れた生き方をし、神様との関係が断絶しています。人がこの創造の目的(神との交わり)以外のことで、幸せや満足感、喜びを求めても空しいと感じてしまいます。ですから、コヘレトの著者は、知恵も財産も名誉も快楽も太陽の下では空しいと「なんという空しさ、すべては空しい」(1:1)、「短く空しい人生の日々を、 影のように過ごす人間にとって幸福とは何かを誰が知ろう」(6:12)と記します。神様は人間を愛するために創られ、最初に神によって「良い」ものとして創られましたが、神から離れ、自分の望むことを、他者に配慮せず追求するようになりました。自分を創造した神の存在を否定するようになると、人間同士の関係、自然との関係も壊れていきます。それが今に至り戦争を繰り返し、自然破壊を続け、自然災害につながります。15節のように不条理なことが世の中にはコヘレトにいわれなくとも、たくさんあります。
 
  コヘレトの著者は、7章15節で人生の不条理を語ります。若くして死ぬ正しい人と、長生きする悪人。私たちは、正しい人生を送れば、年老いて繁栄し、幸せに生きるべきだ、悪の人生を送る人は、早く死ぬことを期待し、自業自得と思ってしまいがちです。しかし、実際義人が早く死に、悪人が長生きすることもあります。人は正しい行いによって、善い報いを受けるとは限らないのです。アフガニスタンの人々の生活と平和に長年仕えた、医師の中村哲さんのような方が殺されてしまいます。戦争を続ける国の指導者は長生きし、独裁政治は続きます。武器商人は儲かるばかりです。しかし、人が人である限り、必ず終わりが来て、死に至るか、失脚されられる時が来るのは歴史が示すところです。エルサレムの王であり、富と知恵と権力を与えられ、人の人生をすべて見極めたというコヘレトの言葉は、箴言のような知恵を教える知恵文学に分類されます。しかしながら、彼の言葉はイエス様の教えという光でみますと、必ずしも正しいとは限りません。コヘレトがソロモン王だったとしたら、彼は700人の妻と300人の側女を持ち、彼女たちの異教の神を拝むようになり、晩年神様から離れてしまったからです。1000人の女性を妻に持つことは知恵がある人のすることではないし、狂気の沙汰であります。7章28節に「千人に一人として、善い女は見いだせなかった」と記しているのも、自身の愚かさの表れです。
    
   本日の箇所で知恵として適応できることもあります。例えば、私たちの日常生活で様々なこと、他者から感謝されるどころか非難されたり、報われないと感じることを言われたりすることがあると思います。そんな時21節「人の言うことをいちいち気にするな」というコヘレトの知恵の言葉を、思い出すと良いかもしれません。人の言うことに振り回されるのではなく、御言葉を通して神様はなんと言われているかを軸にして、他者の話しに耳を傾け、伝えるべきことを心の中で確認し、口にだしていくのが賢い対応ではないでしょうか。また22節のように、私たち自身も他人に対して、呪うことはしなくとも、悪気がなくいった言葉、態度を相手が悪くとってしまうことも多々あります。気が付いて謝る機会があれば、もちろん謝って和解させて頂きたいのですが、そうできない場合は、相手のことは神様に委ねるというのも知恵かもしれません。
 
   コヘレトの結論として、「神を恐れ、戒めを守る」ことと最後に記しています(12章13節)。しかしながら、わたしたち人間は、そうしたいと思っても、神様の戒めを守り切れない存在であることを、みとめざるを得ません。神を恐れ、神の戒めを全て守れたら、神の前に義とされるかもしれませんが、コヘレトの著者が観察して得た結論は、罪を犯さない人、つまり神の戒めを守り、悪をなさない人はこの地上にいないことです(20節)。もし、神の戒めを自分は守っている、だから、自分は神より正しいとされると考えるのは、律法学者、ファリサイ人たちの教えであり、律法主義となります。実際彼らは、戒めを完璧に守れていないのに、人には守るように教え、守れない人を裁いていたので、イエス様が手厳しく「偽善者」と彼らに言われたように、表面上戒めを守っていても、心の内側が守れていなければ偽善となります。
 
     このことは、私たち全てのものが、例外なく、救い主イエス・キリストを必要とすることに導かれます。神様はそんなわたしたちを救おうと、御子イエス・キリストをこの世に送って下さいました。使徒パウロも「正しい者はいない、一人もいない」とし、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる(ローマ3:10、24)と示しています。イエス・キリストを通して罪の赦しを受けることによってのみ、神様の恵みにより、無償で、行い(律法を守る)なしに義とされるという福音が私たちに示されていることは、幸いです。
 
     義とされるとは、神様との関係が正しくされるという意味です。罪の影響は常に神からの疎外です。罪はわたしたちを神から引き離します。こうして罪のゆえに、神様との関係が破綻してしまっている状態では、神様と交わりをもつことはできません。神様との関係を正しいものとしてくれるのが、イエス・キリストの十字架と復活の贖いです。そのキリストを通しての救いを信じれば、私たちは神様との関係が修復され、キリストのゆえに義と認められ、私たちは神様と御子との交わりの中で生かされるようになれると、ヨハネの手紙Ⅰ 1章4節にて「私たちがこれらのことをあなた方に書き送るのは、あなた方の喜びが満ちあふれるためです」と記されているように、私たちは神様との交わりにいるとき、喜びが満たされます。なぜなら、自分の存在の目的、愛されるために創られたという、神様との愛の関係、神様との親しい交わりにあり、さらにその神様と御子イエス様と聖霊との交わりの中で信じる者同士が共に生きることで、この世の空しいと思わざるを得ないあらゆる状況においても、神様の愛が私たちを満たしてくださるからです。
 
      具体的にこの不条理な世にあって、キリスト者と生きていく上で、私たちはどのような姿勢が問われるでしょうか?それは神様に自分自身を捧げることと、パウロはローマの信徒への手紙12章1-2節で勧めています。
 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
     
     神様は私たちの心を新たにして下さることができますし、変えることができますが、強制的になさらない方です。だから、私たちが自発的に、自分から「心を新たにして自分をかえてください」と求めれば、そうしてくださる方です。このようにして、自分を神様に差し出すことであり、毎週、日々、神様への礼拝として自身を捧げていきたいと願います。私たちの知識や思いでは、何が神の御心であるか、何が良いことで神に喜ばれるか、完全なことであるかはわからないものです。もし、私たちが神様に委ねず、自分の思いに固執して、自分で考え、自分で判断しようと先を急ぐと、なかなか心の平安を得るのは難しく、忙しく日々追われて過ごしがちです。聖霊によって神様が私たちに、どのことをすれば、もしくはしなければこの世に倣わないか、神様の思いは何かを教えていただけるのが幸いです。聖霊が神と御子と私たちの交わりをつなげてくださるからです。
   
       神様が私たちを愛していて、私たちにとって何が最善かを知っていると信じて委ねていきたいと思います。日々神の言葉である御言葉を読んで、空しい思いや、失望することから心を引き上げられて、忍耐し、前に進むことができると、互いに祈り合い、励ましあいましょう。私たちは信仰を独りで持ち続けられるほど強くありません。弱い者であることを知って、主にある兄弟姉妹と共に交わりを持つことは教会生活において大切です。イエス様の復活、昇天後の最初の教会の人々が守ってきたことは、皆で集まって「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。」と使徒言行録2章42節に記されていて、いつも私たちは、教会が戻るべき原点として、忘れないでいたいと思います。今週も、心の深いところで状況に左右されない、喜びに満たされ、平安を持つことができるように、御言葉を味わい、神様との時間を作り、祈っていきましょう。   (引用 新共同訳聖書)


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