(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)
〇創世記2章4-25節 社会的存在としての人の創造
創世記には、二つの資料からなる二つの創造記事が記されています。神様が天地を創造されたことには変わりがないのですが、二つの物語では創造の順序が異なったり、また創世記一章よりも、2章4節以下の方が人間の創造がより詳しく記されています。聖書はいくつかの伝承が記録され、それらが編集されて今の書簡になっているとされ、同じ出来事でも違った経緯で記されている部分があり、一見すると、矛盾があると思われる場合があります。しかし、聖書という書物は科学の本ではなく、信仰の本であります。人々が長い歴史の中で口伝の伝承が伝えられ、文字として記されていくうちに、二つの異なったストーリーが重なったとしても、先のものを取り消すことなく、両方とも残すというところが聖書の特色であり、両方を総合しての神様からの多面的なメッセージが記されているのだと思われます。この聖書が今の形として成立しているのは、人の作業の背景に、歴史の流れを超えて存在される神様の霊の働きによって書かれている*1と言えるでしょう。
1章では簡潔に神様が男と女を神に似せて造られたとのみ記されていますが、2章はこうです。神様は男(アダム)を土(塵:アダマ)から最初に造られ、そして「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と、まずは動物を創られました。そして「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」ので、神様は男の側骨(あばら骨)を一本とって、それから女を創って男のところへ連れてきました。そして男はようやく自分と同じ人である、自分に合う助ける者を与えられ、女と名づけたと。
エゼル(ヘブル語)という単語は、「助ける者、ヘルパー」と訳されますが、「応答する者」 という意味もあるそうです。男が先に造られた、だから後に造られた女性が男性に従属的であるという伝統的な、家父長制的な考え方がありますし、使徒パウロもそれにそった記述をしています*2。しかし、そのパウロが一方で、キリストを信じる者に男も女もないといっていますので*3、またこれも、聖書は多面的。女性は男性に「応答する者」とすると、上下関係・主従関係がない、パートナーとしての存在と見ることができます。女性も男性に助けられて生きる存在であることを否定できません。つまり、お互いパートナーとして助け合う存在であります。一方、社会の最小単位である家族の中にもリーダーシップをとる人が必要であり、それがないと二人以上の社会生活で秩序を保つのは困難であります。皆が平等であっても、皆がリーダーですと事がまとまらないからです。
神様は、人は独りで生きていけない、互いに助け合う存在として、人間を創造されました。家族という社会の最小単位として、夫婦の関係を最初の人間:男と女で造られ、二人は別々の個体であっても、心も体も一つになれる、お互いが信頼し合い、助け合う関係とされたことが記されています。ちなみに、イエス様は復活した人間について、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」*4と言われましたので、新しい創造にあって、復活の体では結婚もなく、天国で皆が新しい関係なのでしょうか。
*1「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」テモテへの手紙2 3:16
*2 礼拝のかぶりものについて コリント信徒への手紙1 11章7-9節
*3 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」ガラテヤ信徒の手紙3章28節
*4 マタイによる福音書22章39節