先日、テレビでトルコにある世界遺産、カッパドキアの岩窟群についての放映を見ました。この洞窟群は、2世紀初頭にローマ帝国からの迫害を逃れたキリスト教徒が建築した奇岩の中とその地下に至るまで洞窟内の住居や礼拝場所で、広大な地下都市の遺跡です。この遺跡群を見るにつけ、多くのキリスト教徒が全て手でこの岩山を掘り進めて作っていった労苦や、数世紀の間、ローマ帝国の迫害を逃れここに隠れ住んでいたことを思い感銘を受けました。当時彼らはローマ兵に捕まると、木に括り付けられて燃やされたり、競技場で獣に食い殺されたりと残酷な仕方で処刑されました。彼らがローマ皇帝を神として拝むことを拒否し、真の神のみを信じることを妥協しなかったからです。信徒たちはローマ帝国に対して反乱を起こしたり、戦ったりせず、捕まれば無抵抗で殺されていました。しかし、迫害されればされるほど信徒の数は増え続け、キリスト教が312年に公認され、392年ローマ帝国の国教となるまで、忍耐してこのような隠れ場にて生き延びてきたことをこの遺跡が語っています。
イエス様が「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」*1、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」*2と言われ、攻撃してくる敵と戦おうとする弟子に「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」*3)と制し、復讐せず、悪をもって悪を返さないというのが聖書の教えです*4。一方で、命を狙う者から逃げ隠れするな、不正に対して黙って見て見ぬふりをするようにとは記されていません。ただし、すべての言動にはタイミングはあると思います。なぜなら、イエス様ご自身の生涯において、はっきり宗教家たちの偽善を糾弾する時、神の国が近づいたと福音を人々の前で公言する時、殺そうとするユダヤ人から身を隠される時、逮捕されて十字架にかかるまで彼らの暴力のなすがままに身を任されて沈黙されている時と、各々時があるからです。
神様はご自分の愛する民を守られる方であることは、聖書を通して示されています。洞窟に長年見つからず隠れて信仰を継承できたのは、神様の守りの中にあってのことだと思います。同時に、信仰のゆえに殉教していった多くの信徒を神様は見捨てたのではなく、共に苦しみ、そして天という安住の地でかれらを迎えられるお方だと信じます。イエス様は弟子たちを世に派遣される時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われた約束が聖書に示されているので、たとえどんな状況にあっても独りではないと心が強められるからです。自分の無力・弱さを感じる時に、「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」*5とも使徒パウロにいわれた御言葉にも励まされます。更に、信じる者の心の内側に住まわれる聖霊が目には見えなくとも私たちに何を語るべきかを教え*6、私たちの心の内を私たち以上に把握して祈りを神様へとりなし、慰めを与えて助けて下さる、そんな聖霊の働きが私たちキリスト者の信仰の持続を助けくれているということを改めて神様に感謝したいと思います。
「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け
わたしの救いの右の手であなたを支える。」イザヤ書41章10節
*1マタイによる福音書5章14節
*2マタイによる福音書5章39節
*3マタイによる福音書26章52節
*4ローマの信徒への手紙12章17節
*5コリントの信徒への手紙二 12章9節
*6ルカによる福音書12章11-12節「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」