聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

益子教会 待降節 メッセージ ルカによる福音書1:39-45

2024-03-10 13:48:34 | 日記

2023年12月10日 益子教会 待降節 メッセージ

聖書箇所 ルカによる福音書1・39-45

題          主が言われたことは必ず実現すると信じる

 「あなたはみごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と天使のお告げを受けたマリアは、すぐに親類のエリザベトの家に出かけた。高齢で不妊であった彼女が、神様の奇跡で妊娠したという知らせを聞いたからであろう。エリサベトはマリアからの挨拶を聞いた時、胎内の子が喜んで躍ったことを感じ、マリアが救い主イエス様を胎内に宿していることを聞く前に、「主のお母さまが来られるとは!」とマリアに与えられた恵を知っていた。救い主イエス様が生まれることの喜びが、聖霊により、胎内にいる赤ちゃんにも、エリサベトにも伝えられる。マリアのように「お言葉通りこの身になりますように」(ルカ1・38)と、主なる神様が「こうなる」と言われたことを疑わずに実現すると信じる者は幸いです(ルカ1・45)。

 私たちも御言葉を通して、神様の約束は必ず実現すると信じる信仰が与えられています。その約束は、主イエス・キリストを信じれば救われ、永遠の命が与えられるということ(ヨハネ3・16)、また信じると聖霊が与えられ(ヨハネ14・16)、上記のエリサベトのように理性や知識を超えた方法で、聖霊により示される(ヨハネ14・26)ということです。つまり個人的に神様から啓示されたことを、頭の知識としてではなく、自分の身に受け止められる(信じられる)ということを体験することができます。

 また、この信仰により地上の生活が、困難であっても、いつか再びイエス様が来られ、完全なものが来るという希望が与えられ、励まされてこの世を生きていくことができます。この希望がクリスマスの喜びでもあります。クリスマスは、神様が神の子であるイエス様をこの世に人として送った出来事であり、その命を十字架上で犠牲にするほどに、神様が私たちを愛してくださっていることを表しています。その愛を受け取ると信仰が与えられ、希望が与えられるからです。そして神様とイエス様との霊の交わりに、与えられた聖霊によって私たちをも招いて下さります。この愛の中に、感謝と喜びを持って日々歩んで参りたいと思います。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリント一13:13)。


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「イエスの眼差し」 聖書箇所  ルカによる福音書22:54-62

2024-03-10 13:30:16 | 日記

 今年のイースターは今月末ですが、本日は、イエス様の受難の物語の中での、弟子のペトロが、自身も逮捕されてしまうという恐れから「私はあの人を知らない」と言ってしまう弱さと、ペトロに対するイエス様が振り向かれた時の眼差しを通して、聖書から示されたことを分かち合わせていただきます。

 イエス様が逮捕されて、大祭司の家へ連れていかれ、弟子のペトロは遠く離れてついていったと記されています。他の弟子たちは皆、散りじりばらばらに逃げてしまいましたが、ペトロは、そっとついてきたのです。この記事は4つの福音書が記していますが、ヨハネによる福音書ではイエスの弟子の一人が大祭司と知り合いだったので、ついてきたペトロを大祭司の家の中庭に入れたとしています。時は真夜中で、焚火が庭にたかれていて、ペトロも他の人々に紛れて焚火にあたっていました。すると、一人の召使の女性がペトロに気づいて、じっとみつめ「この人もあの人と一緒にいました」と周りの人に言うので、ペトロがそれを打ち消して、私はあの人を知らない」と言いました。またしばらくして別の人が「あなたはあいつらの仲間だ」、「確かにこの男はあの人の仲間だ、ガリラヤ人だ」と周りから言われ、ペトロはそれぞれに「私はそうじゃない」「あなたの言っていることが分からない」とイエス様を知らないと3度言ってしまいます。

 イエス様は既にこのことを予告していました(ルカ22:21-34)しかも、単に予告しただけでなく、「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくらないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22:32)と落ち込むであろうペトロにその先のことも言われています。イエス様はペトロの弱さを知って、信仰がなくならないようにあらかじめ祈り、そして、立ち直って、兄弟たちを力づけなさいと、ペトロへの使命をすでに伝えておられます。しかし、この時はペトロが思い出せたのは「鶏が鳴く前に、あなたは3度私を知らないという」という予告の部分だけだったかもしれません。

 そして、ペトロが3回もイエス様とのかかわりを否定した時に鶏が鳴き、イエス様が振り向かれてペトロを見ます。ペトロがいた位置から、捕らえられていたイエス様は見える距離に置かれていたのでしょう。イエス様の眼差しについて聖書は何も語っていません。それは「ほら私が予告したとおりだろう!」というようなペトロを責める眼差しではないはずです。「私はそんな弱いあなたのために十字架にかかるのだよ、赦しているよ」という、慈しみ深い愛の眼差しであったことでしょう。イエス様の言われた言葉を思い出し、ペトロは外にでて、激しく泣きました。「ああ、なんてことを言ってしまったんだろう、先生、ごめんなさい!」というペトロの激しい叫びだったでしょう。大好きな先生のために「主よ、御一緒なら、牢に入っても、真でもよいと覚悟しております。」とまで豪語しました。彼はその時本当にそう思ったのでしょう。しかし、いざ、死の恐怖が迫ると、そんな人間の強がりはどこかへ吹き飛んでしまうのです。

 イエス様が宣教活動をされた地域にあるガリラヤ湖の湖畔に、「ペトロの再召命教会」という教会があるそうです。その横には「ペトロの再召命の像」というのがあり、イエス様が復活して後、ガリラヤ湖で弟子たちに現れた時の話をモチーフにした像だそうです。そのことはヨハネによる福音書21章に記されています。ペトロを含めた弟子たちは、すでにエルサレムで復活のイエス様にお会いしましたが、ペトロはきっと複雑な気持ちだったでしょう。イエス様が復活したことはうれしいのですが、自分が3度もイエス様を知らないといって、ある意味裏切ったことが後ろめたかったでしょうし、「ごめんなさい」と謝る機会もありませんでした。ペトロはその後、他の元漁師だった弟子たちとガリラヤへ戻って、漁をしていたと記されています。彼らはどうしたらいいか未だわからなったのかもしれません。

 ある朝早く、復活されたイエス様がガリラヤ湖畔に現れました。そして、弟子たちと朝食を食べられ、その後ペトロに3度「ヨハネの子シモン、この人たち以上に、私を愛しているか」と聞かれます(ヨハネ21:15-17)これは、ペトロが3度イエス様を知らないといったことに対応して、もう一度イエス様を愛するか?との質問に答えさせ、イエス様の羊を飼い、世話をするようにといわれます。ペトロは3回とも、「私があなたを愛していることはあなたが存じです」とこたえます。これは、もう自分はイエス様の弟子としてふさわしくないと落ち込んでいるペトロに、イエス様を愛しますと確信させるきっかけを与え、そして励まし、再びイエス様の羊を養う、世話をするように再び召命を与えている箇所だと言われます。

 この後弟子たちは、イエス様から全世界に出ていき福音を宣べ伝えなさいと宣教命令を受け、ペンテコステで聖霊の力を受けます。特に、ペトロは大胆に人々にイエス様が神から遣わされたメシアであること、神がイエス様を復活させ神の右の座に上げられたことを説教します。そして悔い改めて、イエスの名に夜洗礼を受け、罪を赦してもらうように、聖霊を受けるようにと人々に勧めます。ペトロは初代のキリスト教会でリーダーとなっていきます。ペトロは、もともとは強い人だったかもしれませんが、イエス様の十字架の出来事で、恐れて隠れ、おびえていました。そんな彼が本当に強くなれたのは、この挫折の経験から自分の弱さを認め、悔い改め、イエス様から再び召命を与えられたからです。そして聖霊が与えられたとき、今までの彼から想像できない、神からの力が与えられ、ペトロは大胆にイエス・キリストを証しし、また宣教旅行へと仲間と巡回したのです。

 ペトロの否認と再召命のストーリーは、今日の私たちにもあてはまります。私たちもペトロと同様、イエス様の十字架と復活により、罪赦された者です。教会とは、信仰が強く、立派な人々が集まるサロンではなく、欠点のある、弱いものであっても、キリストのゆえに罪が赦されて、洗礼を受けてキリストと結ばれ、キリストから福音宣教の使命のために呼ばれた者たちの集合体であります。私たち一人一人は、各々キリストから使命が与えられ、賜物が与えられ、キリストを証しするように呼ばれています。皆がみな、ペトロやパウロのように大きな働きをするとは限りません。しかし、当時2千年前、ペトロたちの説教を聞いて、イエス様を信じた人々は、使徒たちからイエス様の教えを聞き、聖餐に与かり(パンさき)、交わり、共に祈るために家々に集まっていました。そして、徐々にエルサレムから始まって、周辺の地域へ広がり、行った先々でイエス様を証していきました。専門的な教育を受けたわけでもなく、普通の人々で、ただ自分がキリストを信じて、恵みを受け、人生が変わったこと、その神様の恵を伝えていき、それを聞いて信じた人が、同じようにまた他者に伝え、福音(良い知らせ)として当時の全世界へ宣べ伝えられていったのです。その働きは、人間業ではなく、聖霊が大きく働いておられます。

 現代社会に生きるなかで、日本という国では信教の自由が憲法で保障され、迫害されることはありません。しかしながら、日本では」「宗教を信じている」とみなひとくくりにみなされ、カルト宗教のアレルギーを持つ多くの日本人より煙たがれますし、避けられることはあるでしょう。もしかしたら、私たちの信仰をあざ笑う人、批判する人がいるかもしれません。そんな人々の嘲笑を恐れて自分がクリスチャンであることを隠したくなる。もしくは、イエス様の愛の教えを知りつつも、世の中の不条理に対して、仕方がないと傍観、黙認、許容してしまうかもしれません。つまり、直接的ではなくとも、結果的に「私はイエス様を知らない」ということと同じことをしてしまう可能性があります。しかし、たとえ弱さのゆえにどんなことをしたとしても、この主イエス様の愛の眼差し、「そんなあなたのために私は十字架にかかったんだよ」を思い出すことができます。イエス様は責めない方であり、代わりに信仰がなくならないようにとりなして祈って下さり、私たちが立ち直り、そして他の人をその経験から励ますように背中を押してくださる方です。そして、次回は自分の信仰を言い表す勇気が与えられるかもしれません。私たちの信仰は、神様によって強められ、聖霊は私たちの内側を御霊の実を結べるように導いてくださいます。御霊の実とは、ガラテヤ信徒への手紙5章22-23節に記されています。

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」

 私たちは、このよう愛の実を結べるよう、聖霊により変えられていくという希望があります。自分の性格でこの実を作り上げることは無理ですが、聖霊に助けてもらえば可能であります。私たちは、すぐには変えられないので、神様の愛の忍耐深さ、情け深さにより頼みたいと思います。たとえ何度も神様が悲しむことを言ったり、してしまったとしても、悔い改め、赦しが与えられることは幸いです。このイエス様の十字架に至る苦難、死、そして復活は、私たちが神様から罪が赦されるためであり、ペトロのように躓いても起き上がらせて頂けるのは感謝です。そして御霊の実を結びキリストのような性質に内側が変えられていきたいと願い続ければ、神様はその祈りを必ず聞き、かなえてくださるという希望があります。御心にそう祈りはかなえられると約束があるからです。そして、信じた時に与えられる、私たちの心の内側に住まわれる聖霊の助けにより、主と共に歩む人生を導いて頂けるよう、祈ってまいりましょう。


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赦しの言葉

2024-03-09 13:30:51 | 日記

 人は大きな失敗をしてしまうと、そこから立ち直るのに時間がかかります。また取り返しがつかないことを他者に対してした場合、罪責感がずっと残り、心の闇を持ちながら生きていかなければならない場合もあるでしょう。そんな状態から解放されるには、誰かからの励ましの言葉、慰めの言葉、そして何よりも、赦しの言葉であります。私も若い時、ある方へ謝りたいと思いつつ機会を逸し、その罪責感が重くのしかかった時期がありました。ある日神様は、そんな私にその相手に謝る機会を与えて下さり、その方は私を赦してくれました。心の重荷がとりさられ、本当に嬉しかったです。

 イエス様の弟子の一人にペトロという人がいました。イエス様が十字架にかかって死なれ、3日後に復活されて、エルサレムにいた弟子たちに現れましたが、その後、ペトロを含む7人の弟子たちは、ガリラヤへ戻っていたとヨハネの福音書に記されています。弟子たちとって、イエス様が復活したことは大きな喜びでしたが、ペトロはちょっと複雑な気持ちだったことでしょう。なぜなら、イエス様が逮捕された時、弟子たちはみな逃げましたが、ペトロはその後をついていったために、恐れにより3度もイエス様を「知らない」「わたしは仲間じゃない」と周りの人々へ公言してしまったのです。そのことで、ペトロはイエス様に会わせる顔がない、自分はもはや弟子としてふさわしくないという失意の念を抱え、今後、どうしたらいいのかわからないまま、再び故郷に戻って漁師をしていたのかもしれません。

 そこへ、復活されたイエス様が現れました。そして弟子たちと朝食を食べられ、その後ペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上に、私を愛しているか」と三度聞かれます。これは、ペトロが三度イエス様を「知らない」といったことに対応して、もう一度イエス様の弟子として再出発させる機会を与えているようです。落ち込んでいるペトロを励まし、再びイエス様の羊を養い、世話をするように召命を与えている箇所だと言われます。私は、このことはペトロにとって、イエス様からの「赦しの言葉」を受け取る機会でもあったのだろうと思うのです。

 神様は、私たち人間が弱さゆえに犯す罪を赦し、更に新たな使命を与えるために召命し、再出発させてくださる方です。すべての負い目、苦しみ、痛み、恥を取り除いて下さるために、神様は、御子イエス・キリストを私たちの罪の代わりに十字架で死なせるという方法をとられ、イエス様はその苦難を受けて下さり、そして復活されました。イエス様は天に戻られましたが、この世で生きる私たちを助け導くために、神様は聖霊を、キリストを信じる私たちの心に送って下さりました。私たちは赦しを受け取り、感謝しつつ、イエス様から与えられた使命を、生きている間に聖霊の力により果たしていければと願います。このことは私の性格や能力では不可能ですが、神様には不可能なことはないと、聖書の御言葉を通して約束が与えられています。私たちは、キリストを結ばれることで不可能が可能になると信じ、生きる希望が与えられること、また困難の多い世の中にあっても慰めと励ましが与えられ、聖霊が導いてくださるとう確信が与えられていることはなんと幸いでしょうか。

「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。」 ヨハネによる福音書21章15節

 


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世界にひとつしかない個体

2024-03-01 22:28:17 | 日記

 久しぶりに井頭公園へ散歩に行くと、水辺のカモたちに癒されました。まじまじと見ていると、一匹一匹みな頭や羽の色が異なっています。人なつこいカモは恐れもせず私たちのほうへ近寄ってきました。とても可愛らしく、見ているだけで和みます。カモだけでなく、人間も一人一人、耳の形、指紋等異なると言いますが、自然に造られたものは人口で作られるコピーと異なり、一個体ずつオリジナルです。つまり、人間も生物も世界に一つとして同じものがないと考えると、それが偶然に進化してそうなったという仮説を信じることに困難を覚えます。むしろ想像を超えた力を持つ、全能の神様がすべてを一から創造したというほうが、私は納得がいきます。

 一方、自然界の壮大さや美しさを通して神の存在を覚えたとしても、それはどの神様なのか特定できません。昔から人は、自然自体、つまり太陽などを神として拝み、人が「これが神だ」と各々決めるので、各地域によって神々が異なります。こうして神々が数えきれないほど出来上がり、自然を通して知れうる神は相対的になりがちであり、例えば太陽と会話もできないし、関係性を持つことができません。

 聖書が啓示する神様は、どのような性質を持つのかを私たちは知ることが出来ます。なぜなら、神の御子イエス・キリストが人となってこの世にこられたので、イエス様と人格的な知り合い方が可能であるからです。人格的な知り合い方ができると、神様と人との間に関係性が出来上がります。もちろん、2000年前に地上におられたイエス様と今私は会えませんが、聖書の言葉を通してイエス様を知り、そしてキリストを通して神様がどういうお方なのかを知ることが出来ます。神様は世界に一人しかいない私を愛して、恵みをたくさん与えようとしておられると分かります。逆にキリスト以外の方法で神様を知ることはできないのです。キリストを通して表される神様は唯一の本当の神様であり、キリストの十字架の死によって人間の罪を赦す方です。さらに神様は赦した後、その人をキリストと結ばせて新しく造られると聖書は記しています*1。新しく造られても、この体で生きている間外見は変わりませんが、内側が新しく造られると、神様の愛に信仰で応答していくという神様との温かい関係性が与えられることが幸いです。外側は衰えていっても、聖霊の働きで内なる人は、少しずつキリストのような性質に変えられて、新しくされていくという希望の約束が聖書に記されているので励まされます。

 自分を見ると、変わっていないと落胆します。相変わらず、言葉で失敗しますし、感情的になることがあるからです。しかしながら、古い自分、つまりキリストを信じる前の自分はもはや存在していないことは確かであり、与えられた神の霊(聖霊)によって、神様から恵みとして与えられたものを知り*2、感謝の思いで満たされることを通して新しい創造を実感しています。下記の御言葉にあるように神様の約束を信じ、すぐに変わらない自分にも忍耐していこうと思います。自分の努力や性格、能力で変えられるのではなく、恵みによって、聖霊の働きで変えられていくことを信じ、神様に従っていくと決め、祈り求めていきたいと願います。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16節

*1「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」 コリントの信徒への手紙二 5:17

*2「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。 」コリントの信徒への手紙一 2:12-13


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