我が家の敷地内には、花や実をつける樹木が随分あった。桜、梅、林檎、梨、ほうの木、オンコ、ドイツトーヒ、ライラック、花園、芍薬などなど・・・。だが余り手入れをしないので、林檎や梨は、実をつけても食べられなかった。梅は沢山取れて梅肉エキスを作った。
我が家の裏手に鬱蒼と木々の茂っている大きな庭があった。渡辺さんという内科医院の庭であった。その雑木林の中に、大きな栗の木があった。初夏になると、あの独特の匂いの花が咲き、そして秋に実を着けた。
それを子供達が黙って見逃す訳がない。隣りとの境にあるボケの生垣の棘に服を引っ掛けながら侵入し、幹に攀じ登って竹竿でたたき落とす。栗のイガを靴で踏んづけて棒の先でイガを押し開き、丸々と太った茶色の栗の実を取り出す。茶色の皮を歯で剥き取って、その下の薄い渋皮を爪で殺ぎ落とし、そして口の中に放り込む。生だからガリガリと音がしたが、腹を減らした餓鬼どもは平気の平左で幾つも食べた。腹を壊すなんてヤワなやつは居なかった。
そんなある日、悪餓鬼共がいつものように栗の木に上っていたが、うちのどこかを直しに来た大工が二人、そこに混じっていた。で、渡辺さんはいつもになく、「誰だ!」と怒鳴った。つまり栗泥棒を咎めた訳だが、大工はさっさと逃げたが、三男坊の英三が木から飛び下りて足の骨を折った。
だが相手は医者のことで、さっさと応急手当をして救急車を呼んでくれた。「子供だけなら叱らなかったが、大人がいたので・・・」と医者は弁解した。
英三は、救急車の前で心配してうろうろしている友達の東君に「東、もう帰ってもいいよ」と言ったものだ。人が折角心配してるのに・・・。
事故と言えば、次男の芳男は小二位の時に小学校の中庭にある梅の木に上っていて、先生の『木に上っちゃイカン!』という声に飛び下りて、旧くなったスノコの釘で足を踏み抜いてしまった。
その事を次の音楽の授業の時に、桑島先生という音楽の女の先生から聞かされたのだが、私はぽかんとしているのに、先生が『可哀相に』と泣き出してしまった。
それから、三人目は次女の薫姉。彼女が静修女学校の一年の時、朝起きてストーブを燃やすのに薪を割っていて、まさかりで左手の親指の先を5ミリほど切り落としてしまったのだ。
姉は制服を着て、左手を包帯でぐるぐる巻きにして、茶の間の出窓の台の上に腰掛けて、しくしくと泣いていた。
話を戻して、とにかく、戦中戦後は食べ物がなかった。だから、食べ物の記憶はしっかりと、残っている。
おやつに、シャコを飯釜一杯塩茹でした奴を、「百足だ、百足だ」と言って腹一杯食べたことがあった。石狩とか銭函とかで取れたものと思われるが、今ではスシネタでお目にかかるけど、これが高級品かね、と不思議な気持ちで食べている。
それに『代用食』といって、じゃがいもやカボチャならまだ良いほうで、前日の少し残っていた御飯に、大根やじゃがいもを細かく切り刻んで入れて雑炊にしたり、御飯の余りに小麦粉や澱粉を入れて延ばして、フライパンで両面を焼いた物などがあった。
母親の留守中に、台所の棚の中を何か腹の足しになるものはないかと探したものだ。配給の醤油を、家への帰途、ちびちびと味見しながら帰ってきて、一升瓶を半分くらいにしたツワモノ(四男坊)や、これも母の留守中に、台所で見つけた味醂を飲んで、母が帰ってきた時にはスッカリ酔っ払っていたウラナリクン(五男坊)など、さまざまな珍事件があった。
だから、八人の子供を食わせるのに両親は必死だったに違いない。
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