パイプの香り

昔のことを思い出しながら、こんな人生もあったのだ、ということを書いてみたい。じじの「自分史」ブログです。

昔、昔、或る所に・・・/その五

2005-12-20 09:21:00 | 自分史

 戦中戦後は、とにかく食べ物が無かった。父のカメラや撮影機、映写機、それに母の着物や帯が食料と交換され、子供達の胃袋に消えて行った。
今考えても、子供八人と夫婦の十人家族が父の給料だけで、一人も欠けることなく皆成人できたと言う事は、やはり両親に感謝しなければならないと思う。
 食料品も衣料品も、全てが配給制度だった。配給というのは、物資が欠乏して品物がなく自由に売買できないので、政府が統制し、米、酒、醤油、衣料品などを市民に割り当てたもの。

 傑作なのは魚の配給であった。その頃はニシンが最盛期であったから、「お宅は何人?」とトラックの運転手が聞き「十人」と答えると、大きなバケツに十杯のニシンを三月の雪の上に山にするのだ。それを大きなそりに積んだブリキの缶に積み込んで家まで引っ張っていく。
 その配給のニシンを焼くのがまた大変で、台所の外に七輪で火を起こし、網の上にニシンを乗せて焼く。脂が乗っているから、火の上に垂れてぼうぼうと燃えるのだ。だから家の中では焼けない。ニシンが焼けると一人で3匹でも4匹でもご飯なしで食べた。それは何物にも代え難いほど旨かった。

 戦前(たぶん昭和15年頃)のこと、我が家には美しくて広い芝生(ローン)があった。敷地は三角形だったが、150坪以上はあったと思う。
家の二階に下宿していた北大生の武田さんが、アイヌ犬(血統書付き)の「ラム」に長い太い鎖をつけて散歩させていた。小さい頃はラム(子羊)のように可愛かったが、五年もするとすっかりでかくなって、大の男も引きずられるほどになった。
 その武田さんが学校を早く引けて帰ってきて、庭のローンの上で弁当を開いたことがあって、そのおかずのハムが凄く旨そうで、ついに苦笑いしながら武田さんが一枚くれた。私も小学校に入って運動量が増え、腹を空かせるようになったのかもしれない。

 子供が大勢で家計が大変だったから、二階に下宿人を置くことになったのだろう。下宿人は、何人もいた。
 最初は女の人で、二人の姉を映画に(当時は活動写真と言った)連れて行ったりした。私も行くと言って泣きわめいて、そこへ仕事から帰った父に掴まり、叱られて地下の室に入れられたことがあった。
 同じく北大生の石井さんは眼鏡をかけていた。それに従兄弟の和宏さん(北の伯父さん=慶次郎伯父の三男坊)がいた。両親が出掛けた夜、姉二人と怖い話をせがんだ。で、電気を消して始めたが、風が出てきてその揺れる枝の影が擦り硝子に映って恐ろしさを増していた。和宏さんは札幌師範学校(現・北海道教育大学)の学生寮で実際にあった話と言う触れ込みで、雨のしとしと降る夜に、『ここでもない、ここでもない』といいながら、幽霊が寮の部屋の戸を開けては閉めてだんだんと近づいてきて、ついにこの部屋の前まで来て、とんとんと戸を叩いて・・・、急にでかい声で、「ここだ!」と言ったので、私はぎゃっと言って和宏さんの股蔵に顔を突っ込んでしまった。

 その美しくて広いローンも食糧事情には勝てず、芝生を全部剥がして家庭菜園とし、じゃがいも、大根、とうきび、大豆、えんどう豆などなど、種を蒔いたり、肥やし(人糞。当時のトイレは水洗でなく汲み取り式だった)をまいたりして育て食料の足しにした。おかげで我々八人の子供達は、腹を空かせながらも、育ち盛りを切り抜けられたのだった。

 それから、年老いたラムの話だが、気が荒くなって母や子供達の手におえなくなったので、豊平の魚屋さんに貰ってもらった。だが、半年くらい経って、ラムは戻ってきた。痩せてがらがらになって傷だらけで・・・。
 で、やっと自分の家に帰って見ると、広い金網の囲いの中には鶏が20羽以上も入っている。「この野郎共、ワシの家に勝手に入りやがって」と叫んだ老犬ラムは、金網の下を30cm程も掘って中に入り、鶏を右や左へばったばったと投げ飛ばした!
驚いたのは鶏ども、上に下にと逃げ惑ったが、所詮は勝てる相手ではない。噛まれるものや気絶するものと、小一時間程で勝負は着いた。帰ってきた父にラムは掴まり、また、豊平へと帰された。
 
 気絶した鶏は、M上さんちの小母さんの知恵で、畑からニラを取ってきてすり鉢ですって汁を取り出し、それを飲ませたら半分以上は助かった。が、死んだものは・・・。
それから当分の間、我が家では鶏料理が続いた。優しい母は毎日毎日、鶏を捌き続けていた。



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