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平安京の都市問題

2007-06-27 22:33:05 | 源氏物語
紫式部は、1008年に30歳という記録がどこかにあるらしい、ので、
その生没年は979ごろ~1016ごろ、ということになる。
平安京が唐の長安、洛陽に倣って造られたのは、794年
平安京坊条図
が有名ですが、これはあくまで図面上のこと、都市計画が発表された、ということ。
実際はどうだったの?
というのが本題なのです。

一級資料があります。
日本後紀(810年の条)「遷都のことにより人心騒動」とあり、
その170年後の982年に下級貴族の残した「池亭記」には、
都市計画の進捗状況についての記録がある。いわく、
  東西に京を見るに,西京には人家まれにしてほとんど幽墟に近し、
  東京の四条以北に貴賎を問わず人びと群れ集まってきている
↑坊条図の上部中央の二条が今と同じ御所です。
その東、今の左京区の四条以北に人口が集中してきている、という記録なのです。
つまり、遷都して都市計画は打ち出したものの、
都の人々が住みたいところに自然にまかせていたところ、
そう、今の京都の繁華街の原型ができあがっていった!そういうことなんです。
すごい、こと、見つけました。
ほんとにきれいに今の京都の都市図と重なるではないですか。
明治維新で御所は貴族とともに東京に移されたわけですが、
その時点で900年、同じ都市構造のままで推移してきた、ということになります。

遷都から200年近く経ってようやく形づくられた平安京は、片肺のみで飛行していた、
というより、右上部四半分に
当時の都市人口20万人(この数字もすごい!)が暮らしていたのです。
ですから、今日の都市問題が当然生じてしまっていた。
密集していたわけですから、疫病の大流行も必然化した、
市民たちがつくってきた都だけれど、深刻な都市問題、環境問題を抱えてしまっていたのですね。
もう助からない病人は捨てられた、
ご不浄で汚染された都の一角、
そういう場面が、飢餓草子などに描かれています。
源氏がかかれた貴族社会の一歩外に向かえば、こういう現実が目の前にあったのです。
(2007/6/20法曹会館にて講演)


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