キネシオロジストが筋反射テストを通じて得る答は、どこからやって来るのだろう──?
筋反射の結果は宇宙意識とつながった絶対的真理だとか、単なるストレス反応だとか言っている人もいるようだが、そういうキネシオロジーを習いたてで変な熱に浮かされたような人や、権威者の言うことなら疑いもせず何でも信じてしまうような人は、以下の部分を読んでも意味がないと思うので、このままお帰りいただいて、それ以外の人だけ続けてお読みくださいな。
ちなみに冒頭に掲げた質問に対しては、以下の話とは別の角度から過去記事の中でも述べているので、この記事と合わせて、「キネシオロジーで未来のことを聞く 2」なども参照されたい。
さて、私も臨床では筋反射テストに負う部分が非常に大きく、それなしには臨床を組み立てることができないほど。けれども同時に、筋反射テストの結果と患者の実際の状態との間にどうしてもズレが出てしまう、というこれまでの臨床経験から、筋反射テストの結果が何かの揺るぎない客観的事実を表しているとは、実は全く思っていない。
インジケータ筋として選んだ筋肉がクリア・サーキットでない、術者側あるいは患者側にスイッチングがある、施術者に先入観や思い込みのバイアスがある、といった原因で筋反射テストの精度は落ちる。けれども、可能な限りこうしたことをなくそうとしても、これらを完全に排除することは原理的にできないので、どうしても筋反射テストには不確実な要素が入ってきてしまう。
だが、そのことが「なぜ筋反射テストの結果と患者の実際の状態の間にズレが生じてしまうのか?」という問いに対する最終的な答だとは思っていない。また、この問いは冒頭に掲げた「筋反射テストを通じて得る答は、どこからやって来るのか?」という問いともつながっている。
これまで、その2つの問いに対する答のようなものが自分の中で上手く言語化できなかったのだが、つい最近読んだ森田真生の『数学する身体』のある一節で、目の前が開けるような感じを味わった。
森田真生はこの本の中で、『生物から見た世界』を著したドイツの生物学者、フォン・ユクスキュルの打ち出した考えについて述べている。
生物が体験しているのは、その生物とは独立な客観的「環境(Umbgebung)」ではなく、生物が行為と知覚の連関として自らつくりあげた「環世界(Umwalt)」である。
そして続く「魔術化された世界」という節で、一人遊びをしていた少女が突然、「魔女なんかどこかへ連れて行っちゃって!」と叫び出した話を引いて、こう続ける。
この少女の環世界には彼女の想像力が介入している。ダニの比較的環純な環世界と違い、彼女の環世界は外的刺激に帰着できない要素を持っている。それをユクスキュルは「魔術的(magische)環世界」と呼んだ。
この「魔術的環世界」こそ、人が経験する「風景」である。
人はみな、「風景」の中を生きている。それは客観的な環境世界についての正確な視覚像ではなくて、進化を通して獲得された知覚と行為の連関をベースに、知識や想像力といった「主体にしかアクセスできない」要素が混入しながら立ち上がる実感である。何を知っているか、どのように世界を理解しているか、あるいは何を想像しているかが、風景の現れ方を左右する。
「風景」は、どこかから与えられるものではなくて、絶えずその時、その時に生成するものなのだ。環世界が長い進化の来歴の中に成り立つものであるのと同様に、風景もまた、その人の背負う生物としての来歴と、その人生の時間の蓄積の中で、環境世界と協調しながら生み出されていくものである。
そうして私たちは、いつでも魔術化された世界の中を生きている。いや、絶えず世界を魔術化しながら生きている、と言ったほうが正確だろうか。
私たちのいるこの世界は「もの」であれ「こと」であれ、全て「情報」に還元される。つまり世界とは、それ自体が情報の集合体である。そして数学ではしばしば「集合」を「空間」と読み替えるので、それにならえば、世界の実相とは突き詰めれば巨大な情報空間だ。
そして筋反射テストとは、世界という名の情報空間にアクセスするためのツールの1つだと考えられる。しかし、情報はレアな「情報そのもの」として読み出すことはできない。情報にアクセスするとは、情報を解釈することだ(解釈を伴わない情報など存在しない。情報は解釈されて初めて、情報たり得る)。だから、上でユクスキュル、そして森田が言うところの「魔術的環世界」あるいは「風景」──進化を通して獲得した知覚と行為の連関をベースに、知識や想像力といった「主体にしかアクセスできない」要素を混ぜ合わせて作り上げた世界──とは、個々人がその人なりに情報空間(の一部)にアクセスして作り上げた「私的解釈空間」と言ってもいいだろう。そして、その「魔術的環世界」=「私的解釈空間」こそ、その人にとっての「この世界そのもの」に他ならない。
筋反射テストの答がやって来るのは、そうした「風景」つまり「魔術的環世界」=「私的解釈空間」からだ、と私は思う。筋反射テストの答は施術者を超越した未知の世界からやって来るのではない。世界という情報空間の中で施術者によって解釈されたものが、筋反射テストの答として与えられるものだ。だから、その答にズレが出てくるのは当然といえる。なぜなら「魔術的環世界」=「私的解釈空間」は、それを作り出した当人の「主体にしかアクセスできない」要素が混入した、極めてパーソナルなものなのだから。
だとしたら逆に、キネシオロジーがセラピーとして有効であるのはなぜなのだろう──?
恐らくキネシオロジーであれ他のメソッドであれ、セラピーというものが機能するのは、施術者と患者それぞれの「風景」つまり「魔術的環世界」=「私的解釈空間」が交わった部分からそれを行う時なのではないだろうか。決して完全に重なり合うことのない2つの「風景」が、それでもある交わりを持った時、その交わった部分で行われるセラピーこそ、文字通り「魔術的」な力を持つものになるのかもしれない。
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