試行錯誤しながらクラニオセイクラル・バイオダイナミクス(クラニオ)にフォーカシングを組み合わせた治療を始めて2年近くになるが、ここに来て、(これを行っている治療家の側ではなく)患者の側の上達が著しい。持っているさまざまな症状の治療ポイントを自分で見つけ出してしまうので、治療家は大助かりだ
。
ある患者は左膝の痛みを訴えて来た。肝臓/(東洋医学的な)肝の問題で左大腿四頭筋のオーバー・インヒビション(過剰抑制)があって、それを治療すると膝の状態は改善した。更にクラニオを行いながら、右季肋部へのフォーカシングを行ってもらった後、右季肋部に「左膝はもう大丈夫か」と問いかけをしてもらったら、左のアキレス腱に痛みが現れた。そこで左腓腹筋を調べると、そこがオーバー・ファシリテーション(過剰促通)していることがわかり、あわてて治療する羽目になった。
別の患者は、右肘と手の関節の痛みを訴えて来た。手の関節の痛みは以前もあって、リウマチを疑って病院に行ったが、血液検査では異常なしと判定されていた。その後しばらく消えていたが、最近また症状が現れたのだ。そこで、頭蓋にホールドしながら、右肘に意識を向け、そこに感じられるもの(これをフォーカシングでは、フェルト・センス(felt sense)と呼ぶ)と一緒にいてみるように言った。右肘にはクラニオで言うミッド・タイド(mid-tide)の動きを乱している支点があり、私はそれを処理したのだが、その人はその前後も含めて右肘には特に何かを感じることはなく、痛みも変わらなかった。
そこで私は、右肘に「そこの痛みについて知っているところがあったら教えて」と問いかけてみることを提案した。そして、その人が実際にその問いかけをすると、左母指がピクピク震えたのだという。さっそく左母指の部分を調べると爪の尺側(小指側)の生え際に
反応点があり、そこに刺鍼すると右肘の痛みが軽減した。そこで二匹目のドジョウを狙って、今度は右肘に「手の痛みについて知っているところがあったら教えて」と問いかけてもらうと、また左母指がピクピク震えた。今度の反応点は爪の橈側(母指側)の生え際(ツボで言うと少商)で、そこへの刺鍼で手の痛みが消えたのである。
左母指の反応については、それまで全く気づかなかった。最初から反応が出ていたのに私が見落としていただけなのか、問いかけを行ったことで体がそこに反応を出したのかは、定かではない。ただ、はっきり言えることは、「体はどうすればいいかを知っている」ということだ。
クラニオには固有治療プラン(inherent treatment plan)という考え方がある。inherentは「固有の、生来の、本来的に備わっている」という意味があるが、この固有治療プラントは、その人の体が今あるさまざまな疾患、問題に対して「この人に最もふさわしい治癒の道筋を示したもの」である。クラニオの世界にもさまざまな立場や見解があるが、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスでは、施術者の役割は患者の中の固有治療プランが働きやすように環境を整えることであって、自らが「治療」することではない、と考える。数年、あるいは数十年、ちょっと体のことを勉強した程度の人間が「治療」と称していらぬ介入を行うことは、固有治療プランを邪魔することはあっても促進はしない、ということだ(余談だが、英語のinterventionという言葉には、「介入」と「治療」の両方の意味がある)。
そして私の治療も年々変わっていっているが、最近、それがクラニオセイクラル・バイオダイナミクス的な考え方に沿った方向に進んでいるのではないか、ということに気づいた。私にとって究極の治療とは、世界中の誰にもできないような華麗なテクニックを次々と繰り出す治療ではなく、治療家がほとんど何もせず患者が自分で勝手にどんどん治っていってしまう治療だ。治療家でありながら「治療」しない、治療家の存在がどんどん希薄になっていくようなあり方──どうも私が進んでいるのは、そういった方向のようだ。
その具体的なヴィジョンというのはまだ見えてきていないが、(ビジネス的にはともかく)治療家としての方向性はこれ以外ない、という確信に近い気持ち
はある。それに向けて、この1年で自分の治療がまたどんなふうに変わるのか、ワクワクしている。
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人の存在そのものが完璧で、完結しているという説から察すると、本来何もする必要は無いのではないかと思われます。
ただ、あまりにも日常(及び五感)にフォーカスされており源情報を見過ごしているのかも知れませんね。
そこで治療家が媒介となってクライアントに気づかせてあげることができれば、本来あるべき姿に(調和に)収束されていくのではないでしょうか。
もし先生がその領域に近づけることができれば、本当にすばらしいことだと思います。
この記事を書いてから、早1年が経ちました。この1年、自分がどこまで「何もしない」ことに近づけたのか、いささか心許ないです。ただ、それを目指す気持ちだけは変わっていません。