深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

『どろろ』、その痛み

2007-02-03 12:45:31 | 趣味人的レビュー
「観てショボかったらどうしよう」と心配しつつ観に行った映画『どろろ』が予想以上にいい出来だったので、とてもうれしい。実は事前に筋肉反応テストで「行くべきか、行かざるべきか」を調べた時は、「絶対に観に行くべし」という結果が出ていたのだが、その結果は間違っていなかった。筋肉反応テスト、恐るべし。

『どろろ』は手塚治虫の原作で、時は戦国時代、天下統一の野望を抱く武将、醍醐景光は48体の魔神像を祀る地獄堂にこもり、魔物との契りを結ぶ。魔物たちは景光に力を貸す代わりに今度生まれてくる予定の子供を差し出すように求め、景光はそれに同意する。「今度生まれてくる子供の体の48箇所をお前らにくれてやる」と。果たして、生まれてきた子供は手足も目も鼻もない異形の生き物で、景光はその子を川に捨てる。だが、それを偶然、医師、寿海が拾って育て、その子供に作り物の体を与える。百鬼丸と名付けられたその子供は、ある時、自分の体が魔物によって奪われたこと、そして魔物を1匹倒すたびに、その失われた体が返ってくることを知り、寿海の死とともに、魔物を倒す旅に出る。
その旅の途中で、自分の腕に仕込まれた刀を狙う、どろろと名乗る子供の盗人と出会い、二人は一緒に旅をしていくことになる。

映画版は原作の基本設定を生かしながら、舞台を戦乱の続く架空の国に移し、どろろを子供から百鬼丸とあまり年の離れていない女──原作では、どろろは実は女の子だった、ということが最後に明かされるのだ──に置き換えている。が、それだけではない。映画版『どろろ』には、原作にはない、だが原作を含めた作品の根幹部分を照射する重要な設定がなされている。多分、ネタバレにはならないと思うので、このまま書くが…

まず、百鬼丸は体のほとんどを魔物に奪われてしまっているため、内臓も含めてその大半が作り物である(どのような機序で生きていられるのかは不明)。だから、胸を刺し貫かれても、喉を切り裂かれても、死ぬことはない。つまり、百鬼丸は不死身なのである。体を奪われてしまったが故の不死性──ここに百鬼丸の抱える、皮肉とも言える大きな矛盾がある。魔物を倒して自らの体を取り戻すことは、同時に自らの不死性を失っていくことでもあるのだから。実際、百鬼丸は1匹の魔物を倒して右手を取り戻すが、今度はそれが傷つくと、そこに痛みも感じるようになるのだ。

もう一つは私が自分で気づいたのではなく、あるブログで指摘されていたことをここに改めて述べるのだが、名前に関することである。

実は“彼”には決まった名はなく、百鬼丸というのは、彼の左腕に仕込まれた魔物を倒すことのできる刀の銘で、もっと南の地では“どろろ”と呼ばれていた、というのだ(映画では、それはその地の言葉で「化け物小僧」という意味だと説明されている)。その話を聞いた女の盗人(これもまた、その稼業上
決まった名前は持っていなかった)が、その“どろろ”を自分の名前として頂戴した。そして、醍醐景光の嫡男・多宝丸(実は百鬼丸の弟)の名は、本当は百鬼丸に付けられるはずの名前だったのである。

つまり、百鬼丸、どろろ、多宝丸という名は全て、本来、(今、百鬼丸と名乗っている)一人の青年のものであり、逆に言えば、百鬼丸、どろろ、多宝丸の三人は、一つのものを分かち持つことになった存在とも、一人の人間の運命の多面性を現しているとも考えられる。

さて、この『どろろ』には虫プロによるアニメ版(モノクロ)もあり、私は小学生の時、それが大のお気に入りで、主題歌の中の一節

 赤い夕日に照り映えて、燃える鎧に燃える馬

には、今でもあらゆるものが燃えるように真っ赤に染まっていく鮮烈なイメージが頭の中に広がる。このアニメ版『どろろ』も名作と言えるものだが、今では使うことが許されない差別用語や差別的な表現が多すぎるとして、(時々マニア向けに上映会などが行われているらしいが)再放送もビデオ/DVD化もされていない“幻の作品”なのである。

原作は「百鬼丸とどろろは、それぞれの道を進むことになるが、(魔物退治も含めて)二人の物語はまだ続く」といった感じで終わるが、アニメ版では最終回「最後の妖怪」で、百鬼丸が父・醍醐景光と対決する。魔物に魂を奪われ、自ら魔物と化してしまった景光が「ワシはお前の父ぞ。お前に父であるワシが討てるかぁ?」と叫びながら、百鬼丸に斬りかかる。それを斬り倒す百鬼丸は、くずおれる景光の体を抱きかかえながら「俺には父親は寿光(原作では寿海)一人でいいんだ」とつぶやきながら、それでも涙が止まらない…。この48匹目の魔物を倒したことで、最後に百鬼丸は何を取り戻したのかはわからないが、それはあるいは「心の痛み」だったのかもしれない、という痛切な終わり方だ。映画版のラストは原作ともアニメ版とも異なるが、非常に甘い終わり方で、今度の映画版についてはそれだけが不満である。

ところで、実は『どろろ』の原作にはもう一つのヴァージョンがあるらしい、ということをずいぶん前に知った。今、流布している手塚治虫の『どろろ』は『少年サンデー』に連載されたものだが、もう一つ、今はなき『冒険王』版の『どろろ』があるというのだ。この『冒険王』版は、「どろろは百鬼丸の奪われた48箇所をもとに作られた存在で、百鬼丸が自分の体の1箇所を取り戻すたびに、どろろは体の1箇所を失っていく」という壮絶な物語だったらしいのだが、私は実際の作品を見たことがない。そういうマンガが(途中まででも)描かれたことがあるのか、企画段階で終わってしまったのかは定かでないが、こういう『どろろ』も見てみたかった、と思うのだ。

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