量子物理学では、「事象は複数の状態が重なり合っていて、『観測』という行為によって初めてそれが1つに確定する]」=「『観測』が行われない限り、事象は複数の状態の重なり合いのままである」と説く。
これまで「量子論と『観測』の問題を巡って」と「同2」では、「そもそも『観測』とは何か?」について考察してきた。今回の「3」では視点を変えて、「観測」される事象について考えてみる。なので、ここでは「観測」とは我々が一般的に持つ「観測」のイメージに沿った、「あるものが自身の周囲の状況/状態を認識する行為」とし、その「観測」する主体を(それは必ずしも人であるとは限らないが)「観測者」と呼ぶことにする。
古典的なニュートン力学では、世界は確固とした客観的なものとして存在することが前提になっている。この「世界は厳然としてそこにある」という考え方は、我々の素朴な世界認識と合致している。それに対して、量子論の言う「状態の重なり合い/状態の重ね合わせによって成り立つ世界」というのは我々の認識と大きなズレがある──ように見える。
だが、ここでこんな問いを立ててみよう。「果たして世界は存在する/しているのか?」
これは科学の問いというよりは哲学の問いに近いが、ずっと昔から問われてきたことだ。そして、こう問われたら多くの人は「世界は存在する/している」と答えるだろう。「なぜなら、この私がそこに存在しているのだから」と。
存在しない場所には存在できないから、一見するとこの答えは正しいように思える。しかし、よく考えてみると、この答えは「私」の存在が世界の存在の証明になっていることが分かる。つまり、「私」(という「観測者」)が存在するから世界は存在する、と言っているのだ。
そこで上の問いを更に深追いしてみる。「そもそも存在するとは何なのか?」
この問いは次のように言い換えることができる。「『それ』が存在することは、何によって確認することができるのか?」
例えば、誰も/何も「それ」が存在することを認識できないとすると、「それ」は存在するのか、しないのか? この場合、「『それ』は存在しない」とするのが一般的に見て正しいように思う。つまり、「それ」が存在するならば、誰か/何かが「それ」を認識=観測できるはずで、そうできないなら、「それ」は存在しない、ということだ(この文は前半と後半が対偶の関係になっていることに注意)。
これと全く同じことが、この世界についても言える。世界は誰か/何かによって認識=観測されて初めて存在する。これは「世界は『観測者』によって観測されることで初めて存在が確定する」とも言い換えられる。そして、こうしてみると、最初に述べた「事象は複数の状態が重なり合っていて、『観測』という行為によって初めてそれが1つに確定する=『観測』が行われない限り、事象は複数の状態の重なり合いのままである」ということが、少しも奇妙でない、極めて真っ当なことを言っているだけであることに気づくだろう。むしろ奇妙なのは、「世界は確固とした客観的なものとして存在する」というニュートン力学の方なのだ。
では、なぜ我々は「世界は確固とした客観的なものとして存在する」という感覚を持っているのか? 恐らくこの世界は、さまざまな「観測者」が周囲を観測=認識した結果、存在が確定した部分がパッチワークのようにつながったものとしてできていて、生物にはそうしたものを自分にとっての「世界」として認識する仕組みが生得的に組み込まれているのではないだろうか。そのため、生物(の意識)からは世界の不確定さは巧みに隠され、世界は確固とした客観的なものに見えるようになっている。けれども生物にとっての世界とは、そのほとんどが既にどこかの「観測者」によって確定されたものだから、基本的にはそれで不都合はない。こう考えると、量子論の描く世界像が我々の認識とズレている理由も説明がつく。
そういうわけで、ここでは量子論の特徴的な帰結の1つである「状態の重なり合い」ということが、存在論を絡めてみると極めて自然なものであることを論じてみた。
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