朝、まどろみの中で急にウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の
語りえぬものについては沈黙しなければならない。
という1文が頭の中に浮かんできて、その意味するところがわかった──ような気がした。
ということで以下、バリー・マニロウの『One Voice』でも聴きながらどうぞ。
『論理哲学論考』は数学書の体裁で書かれた異色の哲学書で、初期のウィトゲンシュタインの言語哲学の集大成でもある。上記の1文はその一番最後に出てくるものだが、この1文が何を意味するのかについては、現在もさまざまな議論がある。
新約聖書の「ヨハネ福音書」は
始めに言葉ありき。言葉は神とともにありき。言葉は神なりき。
という有名な書き出しで始まる。この冒頭の部分の意味については、「世界は言葉でできている」とか「言葉で問うことによって世界はその姿を現す」などといった、よくわからない解釈が今もまかり通っているが、この部分が述べているのはそんなことではない。
そういう、よくわからない解釈がされてしまう大きな理由は、訳に問題があるためだ。「ヨハネ福音書」の冒頭で「言葉」と訳されているものは、もともとはlogosとなっている。logosとは英語のlogicの語源となったことからもわかるように、一般的な自然言語のことを指すのではなく、論理体系(=数学体系)を指している。
あらゆるものが変化し流転する中で、どれだけ遠く隔たっても、どれだけ時を経ても、1+1は2だし、三角形の内角の和は180°だし、円周率はπだ。そういう永久不変の数学的原理がまずあって、この世界はそうした原理の上に形作られ、機能している。その永久不変の原理こそが世界の創造主たる神と言えるものなのだ──「ヨハネ福音書」の冒頭で語られてるのは、そういうことだ。そう、まさに
始めにlogosありき。logosは神とともにありき。logosは神なりき。
なのである。
ウィトゲンシュタインは若い頃、数学、特に論理学に傾倒し、その著作も数学書の体裁にならった。当時、数学者が目指していたのは、論理という武器を使って世界(注1)をくまなく照らし出すことだった。数学的論理によって全てが明るく照らし出された、一片の闇も存在しない世界──バートランド・ラッセル、ダフィット・ヒルベルトら名だたる数学者たちが、その目標に向けて思索を巡らしていた。
(注1)ここで言う世界とは、現実世界のことではなく数学的世界(=数学体系)のこと。
しかし、ゲーデルの不完全性定理によって、数学者たちのその夢は潰えた。論理によってどれだけ世界を上手に照らそうとしても、光だけに包まれることはなく、必ず闇の部分ができてしまう(注2)。論理だけでは決して届かないところが絶対的に存在してしまうことを、不完全性定理は示している。「ヨハネ福音書」の冒頭に戻ると、それはつまり、神(=論理体系=数学体系)すらも完全ではあり得ない、ということになる。
(注2)つまり、世界はどこまで行っても陰陽の二極一対ということだ。
絶対的に存在する、言葉(=論理)だけでは到達し得ないところ──それがウィトゲンシュタインの言う「語りえぬもの」だったのではないか。言葉(=論理)だけでは到達し得ないところでは、言葉(=論理)は無意味だ。つまり
語りえぬものについては沈黙しなければならない。
ということである。
では、その「語りえぬもの」とは決して手の届かないところなのか? いや、そんなことはないだろう。「言葉」ではない手段を使えばいいのだ。例えば、密教とはそうしたものだろう。
時代の大きな変動が、ある種の位相反転を引き起こすのだとしたら、そうした「語りえぬもの」が大きく表に出てくることになるのだろうか?
いやー、ホントに祝『銀の匙』アニメ化です。
でも、アレまだ連載途中ですよね。まぁ『もやしもん』の例もあるし、特に無理にラストを作って完結させなきゃならない作品でもないので、それもアリかな。
そういう意味では、心配なのが『進撃の巨人』です。途中からアニメ・オリジナルになるのか、第2期『ハガレン』みたいにマンガとアニメで同時完結を目指すのか、そこが気になります。
>個人的には進撃の巨人は同時完結でいってほしいです
理想を言えば、そうですよね。
第1期『ハガレン』みたいに、原作を越えた高みに行っちゃった例もあるので、アニメ・オリジナルも侮れませんが。
仏陀は、弟子に「死後の世界はあるのか」を問われ、沈黙を答えとしました。
また孔子は、怪力乱神を語らず、と言いました。
語りえぬものは、沈黙…沈黙がする事で語る。
お久しぶりです。お元気ですか。
仏陀や孔子とは並ぶべくもありませんが、私も沈黙をもって答えるやり方は重宝してます(笑)。