2007年は食品の表示偽装を中心に、食品に対する信頼が揺れた年だった。しかし残念ながら、そのことが食品について真剣に考えることにつながったとは、必ずしも思えない。ケッサクだったのは、崎陽軒がシュウマイの原材料の表示順位が間違っていたとして製品を自主回収したことだ。それは、あれだけ騒がれた食品の問題が、どうでもいいような法律を巡る些細な違反に収斂していく、象徴のような出来事だったからである。
自分の感覚を鍛える訓練も兼ねて、AK(アプライド・キネシオロジー)の筋肉反応テストを使って、今、自分が食べていいものを決めることを始めて、もう3年くらいになるだろうか。相変わらず、体がOKを出す「食べられるもの」を探すのに苦労している毎日だが、最近少し感じていることがある。それは「いいものを食べると、腹が空かない」ということである。
私はとにかく食べることが好きだが、いわゆるグルメではない。うまい物でも少ししか食べられないより、そこそこのものでもたくさん食べたい派、なのだが、年を取ってきたせいか、定食屋でご飯のお代わりを頼むと腹にもたれるようになった。最近は、徐々に食べる量を減らしている。だから、「腹が空かない」というのは、そのせいもあるのだが、しかしそれだけが理由でもないようだ。
例えば、私の最近の晩メシで多いのは、バームクーヘン1切れとお茶である。本当はそれだけでいいようなのだが、それだけではさすがに食べた気がしないので、センベイを加えているが、それでもそんなものだ。ちなみに、そのバームクーヘンは、最近できた「切り株の店」というバームクーヘン専門店のもので、私の体が認めた数少ない食べ物の1つである。値段は1個840円。実はもう1つ別の店のバームクーヘン(こちらは1個315円)も買うのだが、(別に宣伝するわけではないが)体に聞くと「切り株の店」の840円のバームクーヘンは、もう1つの315円のものの3倍の価値がある、という(←本当かぁ?とも思うが、体に聞いた結果はそうだった)。
いや、別に私はことさらバームクーヘンが好きなわけではない。どちらかというとケーキ屋で売っているようなショートケーキの方が食べたいのだが、体がOKを出さないのだ。加えて、体が夜はそのバームクーヘンだけでいい、というので(←基本的に、体からの答には従う方針)「面倒がなくていいか」と食べているワケで…。
ちなみに、朝はご飯に納豆にキムチ、昼は近所の定食屋だったりする。まぁ、その間にチョコレートを2、3粒食べたり、菓子をつまんだりもするが、食べる量はそれ以前に比べると明らかに大きく減った。別に食費を抑えるために、無理に質素にしているわけではなく、食べてもいい?と体に聞くとNOという答が返ってくることが多いためである。正直なところ、全体としては、特に栄養面でかなり偏った食事だと思うのだが、特にそれが原因で体調を崩すようなことはないようだ(人並みに腹が痛くなったり、頭痛があったり、鼻水がひどかったり、といったことは、もちろんあるが)。
で、そのバームクーヘンの晩メシを食べながら、ふと思ったのは…
食べ物というと、栄養がどうとかカロリーがどうとかで語られてしまうが、実はもっと重要なことがあるのではないか、ということである。そのもっと重要なこととは、食べ物には「命を与えてくれるもの」と「命を奪っていくもの」があるのではないか、ということだ。
誤解されないように述べておくと、ここで言う「命を奪っていくもの」とは、いわゆる毒物、劇物のことではない。広い意味ではそれらも含むが、ここでは普通に食品として売られ、普通に食べられているものを対象として述べている。
食べる、というのは、そのものの命を奪うことを意味する。我々は、植物にせよ動物にせよ、他のものの命を奪うことで、自分の命をつないでいるわけだ。言い換えれば、他のものの命をもらって自分の命に変える行為が「食べる」ということなのである。つまり、「いい食べ物」とは栄養豊富だから云々という前に、「我々により多くの命を与えてくれるもの」ということになる。ということは、「悪い食べ物」=「我々からより多くの命を奪っていくもの」ということになるが、では「悪い食べ物」とは何だろう?
私は、例えば、その存在の尊厳を傷つけられるような、ひどい環境に置かれた動・植物などが、それに当たると考えている。以前、『おいしいハンバーガーのこわい話』(思草社刊)という本についてブログを書いたが、その本に出てくる、ハンバーガーショップで出される牛肉や鶏肉がどんな状態で生かされ、どんなふうに殺されているか、の下りは、私の頭の中に今も残っている。そんなふうに作られたものが、我々に命を与えてくれるなどとは、私にはとても思えない。栄養学的には、どんな環境にあった鶏肉でも、鶏肉は鶏肉でしかないのかもしれない。しかし、「命のやり取り」という視点で見てみると、そこから食べ物の全く違った姿が見えてこないだろうか。
もちろん、栄養素やカロリーなど全く考える必要はない、とは言わない。だが、「食べる」ことの基本は、「命を与えてくれるもの」を注意深く選ぶことだ。そうすれば、多くの量を食べる必要はない。昔の人は、現代より遙かに乏しい食生活でありながら、あれほどエネルギッシュに生きていたのだから。
それから書き忘れていたが、どんな「命を与えてくれる」食べ物であっても、体が求める以上に食べれば「命を奪っていくもの」に変わる。そうならないためには、何らかのストッパーが必要になる。実は…私も晩メシがそれだけだと、やっぱりちょっと心配で、それにもっと何か食べたいという欲求もあって、近所の24時間営業のスーパーに行くのだが、そこにある食品に体がことごとくNOを出すので、何も買わずに手ぶらで帰ってくる、ということを毎晩のように繰り返している次第で…
自分の感覚を鍛える訓練も兼ねて、AK(アプライド・キネシオロジー)の筋肉反応テストを使って、今、自分が食べていいものを決めることを始めて、もう3年くらいになるだろうか。相変わらず、体がOKを出す「食べられるもの」を探すのに苦労している毎日だが、最近少し感じていることがある。それは「いいものを食べると、腹が空かない」ということである。
私はとにかく食べることが好きだが、いわゆるグルメではない。うまい物でも少ししか食べられないより、そこそこのものでもたくさん食べたい派、なのだが、年を取ってきたせいか、定食屋でご飯のお代わりを頼むと腹にもたれるようになった。最近は、徐々に食べる量を減らしている。だから、「腹が空かない」というのは、そのせいもあるのだが、しかしそれだけが理由でもないようだ。
例えば、私の最近の晩メシで多いのは、バームクーヘン1切れとお茶である。本当はそれだけでいいようなのだが、それだけではさすがに食べた気がしないので、センベイを加えているが、それでもそんなものだ。ちなみに、そのバームクーヘンは、最近できた「切り株の店」というバームクーヘン専門店のもので、私の体が認めた数少ない食べ物の1つである。値段は1個840円。実はもう1つ別の店のバームクーヘン(こちらは1個315円)も買うのだが、(別に宣伝するわけではないが)体に聞くと「切り株の店」の840円のバームクーヘンは、もう1つの315円のものの3倍の価値がある、という(←本当かぁ?とも思うが、体に聞いた結果はそうだった)。
いや、別に私はことさらバームクーヘンが好きなわけではない。どちらかというとケーキ屋で売っているようなショートケーキの方が食べたいのだが、体がOKを出さないのだ。加えて、体が夜はそのバームクーヘンだけでいい、というので(←基本的に、体からの答には従う方針)「面倒がなくていいか」と食べているワケで…。
ちなみに、朝はご飯に納豆にキムチ、昼は近所の定食屋だったりする。まぁ、その間にチョコレートを2、3粒食べたり、菓子をつまんだりもするが、食べる量はそれ以前に比べると明らかに大きく減った。別に食費を抑えるために、無理に質素にしているわけではなく、食べてもいい?と体に聞くとNOという答が返ってくることが多いためである。正直なところ、全体としては、特に栄養面でかなり偏った食事だと思うのだが、特にそれが原因で体調を崩すようなことはないようだ(人並みに腹が痛くなったり、頭痛があったり、鼻水がひどかったり、といったことは、もちろんあるが)。
で、そのバームクーヘンの晩メシを食べながら、ふと思ったのは…
食べ物というと、栄養がどうとかカロリーがどうとかで語られてしまうが、実はもっと重要なことがあるのではないか、ということである。そのもっと重要なこととは、食べ物には「命を与えてくれるもの」と「命を奪っていくもの」があるのではないか、ということだ。
誤解されないように述べておくと、ここで言う「命を奪っていくもの」とは、いわゆる毒物、劇物のことではない。広い意味ではそれらも含むが、ここでは普通に食品として売られ、普通に食べられているものを対象として述べている。
食べる、というのは、そのものの命を奪うことを意味する。我々は、植物にせよ動物にせよ、他のものの命を奪うことで、自分の命をつないでいるわけだ。言い換えれば、他のものの命をもらって自分の命に変える行為が「食べる」ということなのである。つまり、「いい食べ物」とは栄養豊富だから云々という前に、「我々により多くの命を与えてくれるもの」ということになる。ということは、「悪い食べ物」=「我々からより多くの命を奪っていくもの」ということになるが、では「悪い食べ物」とは何だろう?
私は、例えば、その存在の尊厳を傷つけられるような、ひどい環境に置かれた動・植物などが、それに当たると考えている。以前、『おいしいハンバーガーのこわい話』(思草社刊)という本についてブログを書いたが、その本に出てくる、ハンバーガーショップで出される牛肉や鶏肉がどんな状態で生かされ、どんなふうに殺されているか、の下りは、私の頭の中に今も残っている。そんなふうに作られたものが、我々に命を与えてくれるなどとは、私にはとても思えない。栄養学的には、どんな環境にあった鶏肉でも、鶏肉は鶏肉でしかないのかもしれない。しかし、「命のやり取り」という視点で見てみると、そこから食べ物の全く違った姿が見えてこないだろうか。
もちろん、栄養素やカロリーなど全く考える必要はない、とは言わない。だが、「食べる」ことの基本は、「命を与えてくれるもの」を注意深く選ぶことだ。そうすれば、多くの量を食べる必要はない。昔の人は、現代より遙かに乏しい食生活でありながら、あれほどエネルギッシュに生きていたのだから。
それから書き忘れていたが、どんな「命を与えてくれる」食べ物であっても、体が求める以上に食べれば「命を奪っていくもの」に変わる。そうならないためには、何らかのストッパーが必要になる。実は…私も晩メシがそれだけだと、やっぱりちょっと心配で、それにもっと何か食べたいという欲求もあって、近所の24時間営業のスーパーに行くのだが、そこにある食品に体がことごとくNOを出すので、何も買わずに手ぶらで帰ってくる、ということを毎晩のように繰り返している次第で…
『いいものはお腹がすかない!』のは
いいエネルギーを摂取しているからでしょうね
外食で食べられるものが減っていて、
それでも、たまにケンタが食べたくなり
食べて気持ち悪くなってます、、、
だんだん、食べる前に気持ち悪さが思い出されて、食べなくなっているところですね!
『少食美食』いいものを少し食べて健康に
なることを広めてます!
>『少食美食』いいものを少し食べて健康になることを広めてます!
『少食美食』というのは、いい言葉です。いい食品とは原産地がどこだとか、添加物がどうだとか、ブランドが…といったものじゃないことを、もっと広く知ってもらう必要がある、と私も思います。