竹田青嗣の『新・哲学入門』をネタ本に、竹田が展開する身体論について見ている。「1」では、レヴィ=ストロースの考察に基づく「象徴機能」の構造について述べた。
ここで「哲学の再興」をうたう竹田が、なぜ身体論といったものにここまで深く関わるのか、ということについて述べておく必要があるだろう。本書における竹田の主張は次のようなものだ(以下、太字は本書からの引用)。
哲学とは言葉による「世界説明」である(だが、哲学は社会の「真理」を捉えるのではない。言葉は真理を捉えることはできず、ただ「世界の絵」を描くことができるだけだ)。そのための哲学の方法が「普遍洞察」であり(この方法が哲学を普遍的な世界説明とする)、それが哲学の「原理」である。しかし、特に現代哲学はこの原理を否定し、解体している。だから哲学は、いまもう一度、普遍的な「世界説明」の創出の営みとして、普遍洞察の方法として再生されねばならない。そこに立ち塞がるのが、ギリシア哲学以来、現代に到るまで続く哲学の難問「認識問題」である。この「認識問題」はギリシアのソフィスト、ゴルギアスによる存在と認識についての問いに集約されるので、竹田は本書の中ではゴルギアス・テーゼの名で呼んでいる。
ゴルギアス・テーゼとは次のようなものだ。
(1)およそ存在を証明することはできない。それゆえ何ものも存在するとはいえない。
(2)仮に存在があるとしても、人間には認識(思考)できない。
(3)仮に存在が認識されたとしても、人間はそれを言葉にすることができない。
これらは、「存在」と「認識」と「言葉(言語)」が厳密に一致することはあり得ない、ということを述べている。この構図こそは、ヨーロッパ哲学の歴史全体を貫いて、ヨーロッパの普遍認識を揺るがし続けてきた「世界認識の不可能性」についての、反駁不可能な論証なのである。
「でも、そんなの哲学の話じゃん。医学や治療(施術)と何の関係がある?」という疑問を持つ人がいるかもしれないので、ここでそれに答えておこう。上のゴルギアス・テーゼからは
「人は身体(の構造や機能)を(十分に)認識することはできず、仮にそれを認識できたとしても(十分に)言語化することができない(=人に伝えることはできない)」
ということが導かれるのだ。これはつまり、どんな方法を用いても身体を完全な形で捉えることはできず、ゆえに完全な治療システムは構築できないことを示している(「いや、自分がやっている治療(施術)は完璧だ」という人もいるかもしれないが、それはただ頭の中がお花畑になっているにすぎない)。
だが、竹田はそんな「世界認識の不可能性」(=「普遍洞察」の不可能性=哲学原理の否定)をうたう「認識問題」は、実はニーチェによる「力相関性の構図」とフッサールによる「現象学的還元」によって解決されていると述べる(第二章「本体論的転回と認識論の解明」)。その具体的な理由は本書を見てもらうとして、ニーチェの力相関性の構図は「欲望相関性」へと転移し、「世界は欲望の相関者としてのみ分節される」。そして欲望相関の概念は、「内的体験」、「エロス的力動」、「世界分節」の三契機によって構成される。
ここで言う内的体験とは、全ての生物の持つ文字通り「内なる体験」のこと。「内的実存」とも言い換えられ、「内的世界」の生成の端緒である。そして、およそ「価値」とは、内的実存の世界におけるエロス的触発-情動の生起、発動を、そのすべての展開形態の源泉とする。その内的世界に情動を生じせしめる動因(エロス的触発)を、竹田は「エロス的力動」と呼ぶ。これは物理的な事物の生成変化の根本的動因とは全く異なる(つまり両者はその存在審級を異にする)。事物の生成変化は物理的因果の系列として説明できるのに対して、内的世界のそれは寓意や物語によって類似的に示すことしかできないからだ。そして、身体が対象と接触することで発動するエロス的力動が生み出す情動(快-苦)によって世界は分節(区分)される(象徴的にいえば、私に一つのエロス的情動-衝迫(=欲望)が到来するごとに、私の「内的世界」に新しい世界分節が生じる)。
このように生じた個々人の内的世界における世界分節(=価値審級)を、人間は「言語ゲーム」を通じて、絶えず他者と交換し合っていると竹田は言う。この内的体験の相互交換をとおして、「主観から主観へとはたらきかける一種の作用」として、すなわち一つの間主観的な信憑として、客観的に存在する「同一の世界」なるものがすべての人間のうちに成立する。そこに人間だけが、実存世界と客観世界という世界の二重性を生き続けることの本質的な理由がある。
上のような考察を踏まえて、竹田は「幻想的身体」という概念を提示する。
*欲望論的には、動物の世界が「環境世界」であるのに対して、人間の世界は他者との関係幻想が織りなす「関係世界」である。動物の身体は生理的な身体だが、人間はその身体を「関係的身体」として、あるいは「幻想的身体」として形成する。
幻想的身体は、人間的関係世界を、諸対象の価値性、エロス性として感受する人間固有の身体性である。
こうした議論を「哲学者によるただの言葉遊び」と考える人もいるだろうが、「世界説明」の学としての哲学を侮るべきではない。医学をどこまで突き詰めても、結局そこで捉えられるものは身体のほんの一面に過ぎないのだから。
そして話は「3」に続く。
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