小田一の『気と気診』には大いに触発されたが、これを読んで特に強く感じたのが、哲学の重要性である。『気と気診』には、小田一がインターンの頃から、哲学教授の主催するカントの勉強会に20年通い、それが気診というものを作り上げるのに役立った、という話が出てくる。
私は哲学について無知なので全くの素人考えかもしれないが、哲学というのは要するに人に対して、ある視座と視点を与えるものだと思っている。同じ物を見るにしても、どこにいて、どの方向に目を向けるかによって、見えるものは全く異なってくる。
例えば現代医学では、解剖学と生理学というものを二大柱にして人体というものを見ていく。ほとんどの人はそのことに疑問を感じることはないが、考えてみれば人体は解剖学的と生理学的という在り方や区分で存在しているわけではない。こうした見方は多分、近代以降のヨーロッパ的な視座や視点に由来するもので、そこに絶対的な真実があるわけではない。そう、視座や視点を変えることによって見えるものは変わるのである。
つまり、我々がそうした見方に特に疑問を感じないのは、それが揺るぎない真実だからではなく、無意識的にその近代ヨーロッパ的な視座や視点を共有しているからに他ならない。だとするなら、そうした視座・視点=哲学を知らずに解剖・生理を語るなど、チャンチャラおかしいということになる。
──とまぁそういうわけで、ハイデガーを勉強することにした。
が、なぜハイデガーか? いや特にコレといった理由はないのだが、強いていえば「西洋哲学の極北」とも称される『存在と時間』には以前から何とな~く興味があって、どうせ哲学をやるなら、いきなりその最高峰?を目指そうと思っただけである。
amazonで『存在と時間』のレビューを調べてみると、何種類か出ている日本語版の中で、ちくま学術文庫から出ている細田貞雄による訳が一番良さそうだと思われた。市立図書館の蔵書にもあったので、さっそく借りてきて、フォトリーディングで5回通読した。その後に(どういういきさつでかは忘れたが)出合ったのが古東哲明の『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書)である。
この部分は本筋と関係ないので、飛ばしていただいてかまわないが、これによりハッキリわかったことがあるので、そのことについて記しておきたい。
フォトリーは基本的に、目の焦点をずらしたソフト・フォーカスという状態にしてページをパラパラめくり、ただそれを眺めているだけのものなので、やっても「読んだ」という気はしない。実はこの後、潜在意識にダウンロードしたとされる情報を意識化するための、アクティベーションというプロセスを行うことになっているのだが、面倒くさがりの私は、このアクティベーション以降を全くやっていない。だからかもしれないが、フォトリーをやっても「直感が冴えてくる」とか「未来のことがわかるようになる」といった経験はない。
で、『存在と時間』も同じようにアクティベーション以降を全くやっていないのだが、最初に上下巻をフォトリーした後、全身にドッと異様な疲れを感じた。ページ数が多かったのは事実だが、もっと多くのページ数を一度にフォトリーしたことは何度もあるので、それが理由とも思われなかった。そして何日か置いて2度目にフォトリーした時、下巻の途中で、頭の中のどこかが「あ、わかった」と言ったような気がした。もちろん私は、意識的なレベルでは『存在と時間』を全く読んでいないので、何がわかったのかもわからなかったのだが。
今まで下手の横好きと言うか、ダメもと、みたいな感じでずっとフォトリーをやってきたが、今回『存在と時間』を読んでみて、本当に何かが起こってるんだということを実感した次第。
この『ハイデガー=存在神秘の哲学』、一言で言えば「凄い本」だ。世の中には数多くの「いい本」や「素晴らしい本」はあるが、「凄い本」と言えるものは稀だ。だが、この本は紛れもなく「凄い本」だと言える。何が凄いのか? それはこの本が、難解の極致と言われるハイデガー哲学の全容を、ほとんど誰にでもわかる平易な言葉で完全に解き明かしているから、である。
まずは、難解で知られるハイデガーの文章の意味を、古東はこう解き明かす。
哲学の解説書と言われるものはたくさんあるが、こんなにもやさしい語り口で、こんなにもわかりやすく、こんなにも深いレベルの理解に読み手を連れて行ってくれる本があろうとは
そして速い人なら2時間程度で読めるかもしれない、この280ページの中に
と語る著者の、その20年に渡るハイデガーとの格闘の精華がギュッと詰め込まれているのだ。
だから、この本は「危険な本」でもある。この本だけで、ハイデガーの著作を苦心して読み解くことなく、ハイデガー思想の根幹をつかみ取ってしまえるのだから。果たしてこんなことでいいのだろうか? そんな疑問が今も私の中にある。
いや、多分いつか、この本を頼りにハイデガーの用意した「道」を実際に自分で歩く日が来るのかもしれない。本当はその日のために、この本『ハイデガー=存在神秘の哲学』はあるのだ。
私は哲学について無知なので全くの素人考えかもしれないが、哲学というのは要するに人に対して、ある視座と視点を与えるものだと思っている。同じ物を見るにしても、どこにいて、どの方向に目を向けるかによって、見えるものは全く異なってくる。
例えば現代医学では、解剖学と生理学というものを二大柱にして人体というものを見ていく。ほとんどの人はそのことに疑問を感じることはないが、考えてみれば人体は解剖学的と生理学的という在り方や区分で存在しているわけではない。こうした見方は多分、近代以降のヨーロッパ的な視座や視点に由来するもので、そこに絶対的な真実があるわけではない。そう、視座や視点を変えることによって見えるものは変わるのである。
つまり、我々がそうした見方に特に疑問を感じないのは、それが揺るぎない真実だからではなく、無意識的にその近代ヨーロッパ的な視座や視点を共有しているからに他ならない。だとするなら、そうした視座・視点=哲学を知らずに解剖・生理を語るなど、チャンチャラおかしいということになる。
──とまぁそういうわけで、ハイデガーを勉強することにした。
が、なぜハイデガーか? いや特にコレといった理由はないのだが、強いていえば「西洋哲学の極北」とも称される『存在と時間』には以前から何とな~く興味があって、どうせ哲学をやるなら、いきなりその最高峰?を目指そうと思っただけである。
amazonで『存在と時間』のレビューを調べてみると、何種類か出ている日本語版の中で、ちくま学術文庫から出ている細田貞雄による訳が一番良さそうだと思われた。市立図書館の蔵書にもあったので、さっそく借りてきて、フォトリーディングで5回通読した。その後に(どういういきさつでかは忘れたが)出合ったのが古東哲明の『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書)である。
この部分は本筋と関係ないので、飛ばしていただいてかまわないが、これによりハッキリわかったことがあるので、そのことについて記しておきたい。
フォトリーは基本的に、目の焦点をずらしたソフト・フォーカスという状態にしてページをパラパラめくり、ただそれを眺めているだけのものなので、やっても「読んだ」という気はしない。実はこの後、潜在意識にダウンロードしたとされる情報を意識化するための、アクティベーションというプロセスを行うことになっているのだが、面倒くさがりの私は、このアクティベーション以降を全くやっていない。だからかもしれないが、フォトリーをやっても「直感が冴えてくる」とか「未来のことがわかるようになる」といった経験はない。
で、『存在と時間』も同じようにアクティベーション以降を全くやっていないのだが、最初に上下巻をフォトリーした後、全身にドッと異様な疲れを感じた。ページ数が多かったのは事実だが、もっと多くのページ数を一度にフォトリーしたことは何度もあるので、それが理由とも思われなかった。そして何日か置いて2度目にフォトリーした時、下巻の途中で、頭の中のどこかが「あ、わかった」と言ったような気がした。もちろん私は、意識的なレベルでは『存在と時間』を全く読んでいないので、何がわかったのかもわからなかったのだが。
今まで下手の横好きと言うか、ダメもと、みたいな感じでずっとフォトリーをやってきたが、今回『存在と時間』を読んでみて、本当に何かが起こってるんだということを実感した次第。
この『ハイデガー=存在神秘の哲学』、一言で言えば「凄い本」だ。世の中には数多くの「いい本」や「素晴らしい本」はあるが、「凄い本」と言えるものは稀だ。だが、この本は紛れもなく「凄い本」だと言える。何が凄いのか? それはこの本が、難解の極致と言われるハイデガー哲学の全容を、ほとんど誰にでもわかる平易な言葉で完全に解き明かしているから、である。
まずは、難解で知られるハイデガーの文章の意味を、古東はこう解き明かす。
(前略)かれはそもそも、ふつうの哲学書のように、中身がびっしりつまった思想体系を、提出したつもりなどなかったからだ。みずから正直に何度もいうように、ハイデガーは「道」をこしらえただけ。ある究極地点へ読者みずからが歩いていくための、道路をつくっただけだ。
その道は、「形式的指標」(die formale Anzeige)でできている。つまり、存在神秘という極点を「かたちばかり指標するにとどめる叙法」で、編みあげられている。
だから厳密にいえばハイデガーは、自分の思想内容を盛りこみ表現した書物など、一冊も公刊していないのである。かれの書物には<何>が書いてあるのかさっぱりわからない。よくそう嘆かれたのも当然である。肝心なことなど<何>も直接書いていないからだ。
それについて語りがたいから、なんていう平凡な理由からではない。ソレについて語ってもしかたがないからである。たとえていえば、月世界旅行のようなもの。月世界の凄さについてべらべらしゃべる。できないわけじゃないが、それではたんなる自己満足。そんなことより重要なのは、ぼくたち読者を実際に月面へ運ぶことである。月面に降り立てば、、月世界の凄さはすぐにだれにも、わかるからだ。
(中略)
そんな、月世界へぼくたちも行くための準備と宇宙船と航路図。それが、ハイデガーが提示してくれた道(著書)なのである。
哲学の解説書と言われるものはたくさんあるが、こんなにもやさしい語り口で、こんなにもわかりやすく、こんなにも深いレベルの理解に読み手を連れて行ってくれる本があろうとは
そして速い人なら2時間程度で読めるかもしれない、この280ページの中に
『存在と時間』も<道>である。自己変容にいざない、存在の味(意味)へとみちびこうとする道である。
ただ、かなりけわしい。複雑にいりくんだ迷路もある。しかも長距離。おまけに最後で道がとぎれている。ひとりで歩くのはかなりきつい。道ばたに、何度ぼくもへたりこんだことだろう。目的地につくまで、二十年間かかった。
と語る著者の、その20年に渡るハイデガーとの格闘の精華がギュッと詰め込まれているのだ。
だから、この本は「危険な本」でもある。この本だけで、ハイデガーの著作を苦心して読み解くことなく、ハイデガー思想の根幹をつかみ取ってしまえるのだから。果たしてこんなことでいいのだろうか? そんな疑問が今も私の中にある。
いや、多分いつか、この本を頼りにハイデガーの用意した「道」を実際に自分で歩く日が来るのかもしれない。本当はその日のために、この本『ハイデガー=存在神秘の哲学』はあるのだ。
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