ウチは、「症状に対してアプローチする治療」ではなく、「患者の体が求める治療」をすることを目指している。それによって、驚くほどいい結果が得られることは多いのだが、治療してもさっぱり結果が出ないこともある。この間も、ある患者から「症状の変化が全く感じられない。何のために来ているのかわからない」と言われてしまった。「私には治せなかった患者はいない」と言い切れる、「治療の達人」がうらやましくなる瞬間である。
かつてはウチも「症状に対してアプローチする治療」を中心にしていた。要するに、「腰が痛い」と言われれば、腰まわりの骨、筋肉、あるいは皮膚のひきつれなどを中心に置いて診ていく治療である(ただし、局所だけを診て治療するようなことだけはしないように戒めてきた)。それがいつの頃からか、主訴とは関係ないところの問題が先に見えるようになってしまった。例えば、患者は「腰が痛い」と言って来ているのに、横隔膜や肺の弱さがまず見えてしまう、というふうに。
そうなると、主訴である腰痛の件を脇に置いても、まずそれを取らなきゃな、ということで、まずは横隔膜や肺の治療を始めざるをえない。すると今度は、頚部の問題が見えてくる。そこで頚部を治療する。すると今度は…といった具合だ。そんなことをやっていると、不思議なことに、全く腰を診ていないにも関わらず、いつの間にか腰の痛みが消えていたりするのだ。あるは、その時点では腰の痛みは全く変わっていないが、次の一押しの治療でそれが取れることも。
そういう経験が重なり、ある時から自分の治療のやり方が大きく変わったのを感じた。主訴が腰痛であっても、積極的に腰を治療するということはしなくなった。主訴は主訴として、頭の隅に留めてはおくけれど、治療はその人の体が求める部分を求める順に、淡々と進めていく、という形に。オステオパシーの発展に重要な功績を残した、ウィリアム・サザーランドなどは、「人の体は、それを治癒するために必要な、全ての情報を持っている」という考えを持っていたらしいが、それは多分、正しいと思う。
が、そういうふうに治療を進めても、目に見える症状の変化が全く得られないことがある。これが困りモノだ。まだ治療が、主訴が変わるレベルまで到達していないのかもしれない。あるいは、私に大きな見落としがあるのかもしれない…。もっと体からの指示通りに治療を進めていけば、(体感できる症状の変化という)結果が得られるのか。あるいは、(体からの指示を完全に正しくを認識できているわけではないと考えて)ここで取りあえず体からの要求/指示を無視して、(その場限りのものでも)症状を軽くするための処置をすべきなのか…。いつもそこで迷うのだ。
実際、あれこれ余計なことを考えず、「痛い」「コっている」と言われるところを、とにかく汗をかいて揉んでいた方が、楽になったように感じさせることができるかもしれない。しかし、多分それでは、問題は何も解決していない…と私には思えてならない(マッサージ師には異論があるかもしれないが)。
症状は(一時的にせよ)取れても問題の解決しない治療と、症状は取れないが問題は(多少なりとも)解決している(と私は思う)治療と、果たしてどちらを優先すべきなのだろう??
かつてはウチも「症状に対してアプローチする治療」を中心にしていた。要するに、「腰が痛い」と言われれば、腰まわりの骨、筋肉、あるいは皮膚のひきつれなどを中心に置いて診ていく治療である(ただし、局所だけを診て治療するようなことだけはしないように戒めてきた)。それがいつの頃からか、主訴とは関係ないところの問題が先に見えるようになってしまった。例えば、患者は「腰が痛い」と言って来ているのに、横隔膜や肺の弱さがまず見えてしまう、というふうに。
そうなると、主訴である腰痛の件を脇に置いても、まずそれを取らなきゃな、ということで、まずは横隔膜や肺の治療を始めざるをえない。すると今度は、頚部の問題が見えてくる。そこで頚部を治療する。すると今度は…といった具合だ。そんなことをやっていると、不思議なことに、全く腰を診ていないにも関わらず、いつの間にか腰の痛みが消えていたりするのだ。あるは、その時点では腰の痛みは全く変わっていないが、次の一押しの治療でそれが取れることも。
そういう経験が重なり、ある時から自分の治療のやり方が大きく変わったのを感じた。主訴が腰痛であっても、積極的に腰を治療するということはしなくなった。主訴は主訴として、頭の隅に留めてはおくけれど、治療はその人の体が求める部分を求める順に、淡々と進めていく、という形に。オステオパシーの発展に重要な功績を残した、ウィリアム・サザーランドなどは、「人の体は、それを治癒するために必要な、全ての情報を持っている」という考えを持っていたらしいが、それは多分、正しいと思う。
が、そういうふうに治療を進めても、目に見える症状の変化が全く得られないことがある。これが困りモノだ。まだ治療が、主訴が変わるレベルまで到達していないのかもしれない。あるいは、私に大きな見落としがあるのかもしれない…。もっと体からの指示通りに治療を進めていけば、(体感できる症状の変化という)結果が得られるのか。あるいは、(体からの指示を完全に正しくを認識できているわけではないと考えて)ここで取りあえず体からの要求/指示を無視して、(その場限りのものでも)症状を軽くするための処置をすべきなのか…。いつもそこで迷うのだ。
実際、あれこれ余計なことを考えず、「痛い」「コっている」と言われるところを、とにかく汗をかいて揉んでいた方が、楽になったように感じさせることができるかもしれない。しかし、多分それでは、問題は何も解決していない…と私には思えてならない(マッサージ師には異論があるかもしれないが)。
症状は(一時的にせよ)取れても問題の解決しない治療と、症状は取れないが問題は(多少なりとも)解決している(と私は思う)治療と、果たしてどちらを優先すべきなのだろう??
もし問題が、治療途中の患者さんが、症状が改善されないからと途中で離れていってしまうことと、自分がやりたくない施術(やみくもにマッサージすること等)をしなくてはならないということとのどちらが先生にとって良いかっていうことだけなら、答えは結構簡単かも。
私も含めてハードマッサージ嫌々派の人も結構いるので、やりたくないことはやらなくてもよいのでは~って私は思います。が、あまり症状と異なる部分ばかりに固執されてしまうと、患者さんは自分の気持ちを無視されているっていうふうに感じてしまうかもしれませんね。
と、何も分からないのに生意気言ってすみません!!
今回も勉強になりました!次回も楽しみにしています
私自身は、見せかけだけの無意味な治療はやるまい、と考え、前はルーチンでやっていた揉みも、治療として意味があると判断した場合を除いて、やめてしまいました。おかげで、揉みをやるのは半年に1回もなくなって、手順を忘れてしまう状態ですf(^^;
そういう「わがまま」な治療をさせてもらっているだけに、結果が出ないと、内心、忸怩たる思いがあります。
患者の「体が求めていること」をきちんと理解し、正しく処理できているか…迷いながら、試行錯誤しながら、やっています。