大友克洋の『スチームボーイ』を、やっと観ることができた。公開は2004年だから、2年遅れである。かつて『AKIRA』で、サイバーパンク(←死語?)の騎手と呼ばれた大友が、今度は19世紀末のイギリスを舞台に、きっちりスチームパンクしている。何より、アナーキーなストーリー展開に、久しぶりに心が晴れる思いだった。
この2004年は、この『スチームボーイ』のほかに、押井守の『イノセント』、宮崎駿の『ハウルの動く城』が公開されるということで、世界的にも注目された年だったと記憶しているが、その後は何故か『ハウル』以外は忘れ去られてしまったかの感がある。『スチームボーイ』も、公開当時の批評は、あまりいいものでなかったと思う。そんなこともあって、今まで観ずに来てしまったのだが、はっきり言おう。『スチームボーイ』はイイ。
時は、蒸気機関の発明により産業革命が成った19世紀末のイギリス。その蒸気機関の究極の駆動力となる、考えられないほどの超高圧を封じ込んだ球”スチームボール”を巡って繰り広げられる争奪戦を描いた物語が、この『スチームボーイ』なのだが、これは、究極の超能力を持った少年、アキラを巡る争奪戦を描いた『AKIRA』と、全く同じ物語構造を持っていることがわかる。その裏にあるのは、いずれも。「圧倒的な力への偏愛」と「突き動かされるような、破壊への衝動」だ。
『AKIRA』では、解放されたアキラの力によってネオ東京が崩壊し、『スチームボーイ』では、スチームボールによって駆動された巨大蒸気機関、スチーム城がロンドンを破壊する。その様は、観ていて最高に胸躍る時である。『AKIRA』のネオ東京崩壊のシーンはクライマックスの数分だけだが、『スチームボーイ』では後半1時間ほぼ丸ごとかけて、スチーム城が自己崩壊を繰り返しながら、まわりを破壊の渦に巻き込み、万博会場からロンドン中心部へと進んでいく、その過程が事細かに描かれる。そのシーンがまた、ワクワクするほどスリリングで美しいのだ。
劇中、2人の科学者が議論を戦わすシーンがある。
「お前は悪魔に魂を売った」
「あなたこそ、現実を見ていない」
しかし、誰よりも悪魔に魂を売りそうなのは、大友克洋自身だ(と私は思う)。メカが好きで、テクノロジーが好きで、そしてその肥大化したテクノロジーが世界そのものを破壊するところを見たいと願っている。もし、悪魔から「魂と引き替えに、それを見せてやる」と持ちかけられたら、大友なら喜んでその取引に応じそうな気がする。
宮崎駿には、テクノロジーに対する深い絶望と、肉体そのものが持つ力への希望のようなものがある。
押井守には、テクノロジーが否応なく押し寄せてくる中で、肉体と機械がシームレスに融合していく、そのことへの「おののき」と「畏怖」を感じる。
大友克洋にあるのは、。他を破壊しながら自己崩壊していくものとしての、テクノロジーへの限りない愛、だろうか。
考えてみれば、私が子供の頃、天才科学者が作るのもと言えば、巨大ロボットか宇宙戦艦と決まっていた(少なくとも、天才科学者が端末に向かってデバッグしている、なんて姿は考えも及ばなかった)。巨大ロボットか宇宙戦艦も、(正義のためとか平和を守るため、といった能書きはあるが)、破壊するためのテクノロジーであり、そんなテクノロジーの「原風景」のようなものが、大友の作品には詰まっている。
この2004年は、この『スチームボーイ』のほかに、押井守の『イノセント』、宮崎駿の『ハウルの動く城』が公開されるということで、世界的にも注目された年だったと記憶しているが、その後は何故か『ハウル』以外は忘れ去られてしまったかの感がある。『スチームボーイ』も、公開当時の批評は、あまりいいものでなかったと思う。そんなこともあって、今まで観ずに来てしまったのだが、はっきり言おう。『スチームボーイ』はイイ。
時は、蒸気機関の発明により産業革命が成った19世紀末のイギリス。その蒸気機関の究極の駆動力となる、考えられないほどの超高圧を封じ込んだ球”スチームボール”を巡って繰り広げられる争奪戦を描いた物語が、この『スチームボーイ』なのだが、これは、究極の超能力を持った少年、アキラを巡る争奪戦を描いた『AKIRA』と、全く同じ物語構造を持っていることがわかる。その裏にあるのは、いずれも。「圧倒的な力への偏愛」と「突き動かされるような、破壊への衝動」だ。
『AKIRA』では、解放されたアキラの力によってネオ東京が崩壊し、『スチームボーイ』では、スチームボールによって駆動された巨大蒸気機関、スチーム城がロンドンを破壊する。その様は、観ていて最高に胸躍る時である。『AKIRA』のネオ東京崩壊のシーンはクライマックスの数分だけだが、『スチームボーイ』では後半1時間ほぼ丸ごとかけて、スチーム城が自己崩壊を繰り返しながら、まわりを破壊の渦に巻き込み、万博会場からロンドン中心部へと進んでいく、その過程が事細かに描かれる。そのシーンがまた、ワクワクするほどスリリングで美しいのだ。
劇中、2人の科学者が議論を戦わすシーンがある。
「お前は悪魔に魂を売った」
「あなたこそ、現実を見ていない」
しかし、誰よりも悪魔に魂を売りそうなのは、大友克洋自身だ(と私は思う)。メカが好きで、テクノロジーが好きで、そしてその肥大化したテクノロジーが世界そのものを破壊するところを見たいと願っている。もし、悪魔から「魂と引き替えに、それを見せてやる」と持ちかけられたら、大友なら喜んでその取引に応じそうな気がする。
宮崎駿には、テクノロジーに対する深い絶望と、肉体そのものが持つ力への希望のようなものがある。
押井守には、テクノロジーが否応なく押し寄せてくる中で、肉体と機械がシームレスに融合していく、そのことへの「おののき」と「畏怖」を感じる。
大友克洋にあるのは、。他を破壊しながら自己崩壊していくものとしての、テクノロジーへの限りない愛、だろうか。
考えてみれば、私が子供の頃、天才科学者が作るのもと言えば、巨大ロボットか宇宙戦艦と決まっていた(少なくとも、天才科学者が端末に向かってデバッグしている、なんて姿は考えも及ばなかった)。巨大ロボットか宇宙戦艦も、(正義のためとか平和を守るため、といった能書きはあるが)、破壊するためのテクノロジーであり、そんなテクノロジーの「原風景」のようなものが、大友の作品には詰まっている。
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