世界の5大ウイスキーの1つとして、品質と生産量で高い評価を受けている日本のウイスキー。
では、初めてつくったのは、いつ・誰なんでしょうか?
明治維新後の日本では、イギリスの文化に対するあこがれのようなものが膨らむ、
そのような中で、国産のウイスキーを作りたいという夢があったわけなんです。
最初に実現させようとしたのは、摂津酒造という酒造メーカー。
しかしながら、当時はスコッチウイスキーの製造法というのは、
国家機密なので教えるはずはありません。文献でもそのようなものはないということで、
それでは本場のスコットランドに誰か留学生を送ろうということになりました。
そこで、白羽の矢が立ったのは竹鶴政孝という青年。彼は広島のつくり酒屋の息子で、
醸造学を勉強していて、就職口を探している時に、摂津酒造からその話があったとか。
1918年、竹鶴は単身、スコットランドのグラスゴーに渡り、それから約2年の間、
ロングモーン蒸留所やヘーゼルバーン蒸留所などで実地にスコッチづくりを学びました。
しかし、戻ってきたときには、日本はちょうど大正末~昭和初期にかけての大不況時代で、
摂津酒造には、もはや財力がありませんでした。
国産ウイスキーづくりの話は宙に浮いてしまったわけなんです。
その竹鶴の夢を実現させたのが、サントリーの前身でもある寿屋の鳥井信郎。
鳥井にも竹鶴と同じ夢があり、1923年、今の山崎の地に国産第1号蒸留所が建設されました。
これが、現在のサントリー蒸留所です。
そして、1929年に国産ウイスキー第1号「白礼」が誕生しました。
この白礼がジャパニーズウイスキーの祖になるわけですが、すべてのつくりかたをスコットランドで
実地に学んだ通りに、まったく同じものをつくろうとしたという点で、白礼はかなりスコッチに似た
ウイスキーだったといえます。ジャパニーズウイスキーはある意味ではスコッチの弟分です。
その当時、世界を席巻していたのは、ブレンデッドウイスキーであって、竹鶴や鳥井の中に頭にあったのも
当然ブレンデッドウイスキー。シングルモルトではありませんでた。
やがて、竹鶴と鳥井はお互い相容れないことがわかってきます。
竹鶴は、樽詰め約8年は寝かせないといけないと主張する。それは、スコットランドでは
8年寝かせるのが一般的だったから。
一方、鳥井の考えでは塾成は、年数にかかわらず最高の状態で瓶詰すべきで、
日本は気候風土が違い、ジャパニーズウイスキーをつくるのであって、スコッチウイスキーをつくるのではない、
ということで、考えが対立してしまいました。
それではということで、竹鶴は山崎蒸留所を退所して、スコットランドの気候風土に近い、北海道の余市に
余市蒸留所をつくりました。これが国産第2号の蒸留所、現ニッカウヰスキーの余市蒸留所です。
当時の社名は、大日本果汁といいました。
ところで、ウイスキーをつくるということは、創業してから製品になるまでに10年近くかかるわけで、
その間、経営をどうするかという大問題があります。
そこで、彼が考えたのが、余市の近くでたくさん栽培されているリンゴを絞ってジュースにし、
それを売るということでした。大日本果汁という社名はそこからつけられたものです。
ニッカウヰスキーという現社名は、大日本果汁の日と果からきているんですね。
竹鶴があくまでもスコッチウイスキーにこだわったのに対して、
鳥井はオリジナルのジャパニーズウイスキーを目指したというのは、非常に興味深いものです。
その後、ジャパニーズウイスキーは、世界の5大ウイスキーとして独自の地位を築く…。
(参考文献:スコッチ三昧 著者 土屋 守、Whisky Book 非売品)
左:スピリッツセーフ。ガラス張りの小さな箱のようなもので、セーフ(金庫)というんですね、
これは…書き出すと長くなるので、またの機会に!
右:仕込み槽。麦芽を細かく砕き、温水と共に仕込み槽へ。
では、初めてつくったのは、いつ・誰なんでしょうか?
明治維新後の日本では、イギリスの文化に対するあこがれのようなものが膨らむ、
そのような中で、国産のウイスキーを作りたいという夢があったわけなんです。
最初に実現させようとしたのは、摂津酒造という酒造メーカー。
しかしながら、当時はスコッチウイスキーの製造法というのは、
国家機密なので教えるはずはありません。文献でもそのようなものはないということで、
それでは本場のスコットランドに誰か留学生を送ろうということになりました。
そこで、白羽の矢が立ったのは竹鶴政孝という青年。彼は広島のつくり酒屋の息子で、
醸造学を勉強していて、就職口を探している時に、摂津酒造からその話があったとか。
1918年、竹鶴は単身、スコットランドのグラスゴーに渡り、それから約2年の間、
ロングモーン蒸留所やヘーゼルバーン蒸留所などで実地にスコッチづくりを学びました。
しかし、戻ってきたときには、日本はちょうど大正末~昭和初期にかけての大不況時代で、
摂津酒造には、もはや財力がありませんでした。
国産ウイスキーづくりの話は宙に浮いてしまったわけなんです。
その竹鶴の夢を実現させたのが、サントリーの前身でもある寿屋の鳥井信郎。
鳥井にも竹鶴と同じ夢があり、1923年、今の山崎の地に国産第1号蒸留所が建設されました。
これが、現在のサントリー蒸留所です。
そして、1929年に国産ウイスキー第1号「白礼」が誕生しました。
この白礼がジャパニーズウイスキーの祖になるわけですが、すべてのつくりかたをスコットランドで
実地に学んだ通りに、まったく同じものをつくろうとしたという点で、白礼はかなりスコッチに似た
ウイスキーだったといえます。ジャパニーズウイスキーはある意味ではスコッチの弟分です。
その当時、世界を席巻していたのは、ブレンデッドウイスキーであって、竹鶴や鳥井の中に頭にあったのも
当然ブレンデッドウイスキー。シングルモルトではありませんでた。
やがて、竹鶴と鳥井はお互い相容れないことがわかってきます。
竹鶴は、樽詰め約8年は寝かせないといけないと主張する。それは、スコットランドでは
8年寝かせるのが一般的だったから。
一方、鳥井の考えでは塾成は、年数にかかわらず最高の状態で瓶詰すべきで、
日本は気候風土が違い、ジャパニーズウイスキーをつくるのであって、スコッチウイスキーをつくるのではない、
ということで、考えが対立してしまいました。
それではということで、竹鶴は山崎蒸留所を退所して、スコットランドの気候風土に近い、北海道の余市に
余市蒸留所をつくりました。これが国産第2号の蒸留所、現ニッカウヰスキーの余市蒸留所です。
当時の社名は、大日本果汁といいました。
ところで、ウイスキーをつくるということは、創業してから製品になるまでに10年近くかかるわけで、
その間、経営をどうするかという大問題があります。
そこで、彼が考えたのが、余市の近くでたくさん栽培されているリンゴを絞ってジュースにし、
それを売るということでした。大日本果汁という社名はそこからつけられたものです。
ニッカウヰスキーという現社名は、大日本果汁の日と果からきているんですね。
竹鶴があくまでもスコッチウイスキーにこだわったのに対して、
鳥井はオリジナルのジャパニーズウイスキーを目指したというのは、非常に興味深いものです。
その後、ジャパニーズウイスキーは、世界の5大ウイスキーとして独自の地位を築く…。
(参考文献:スコッチ三昧 著者 土屋 守、Whisky Book 非売品)
左:スピリッツセーフ。ガラス張りの小さな箱のようなもので、セーフ(金庫)というんですね、
これは…書き出すと長くなるので、またの機会に!
右:仕込み槽。麦芽を細かく砕き、温水と共に仕込み槽へ。