BAR SR

ある時はSRのガレージ、ある時は小皿料理やお酒を楽しめる、小さく狭いからこそ居心地のいい空間を時々開店します。

また出てきた懐かしの帽子

2011年06月27日 22時16分27秒 | BAR SR plus
前回投稿の、94年サンマリノGP・F1観戦で購入した帽子に引き続き、帽子の話題を。

同じく94年のサッカーワールドカップ・アメリカ大会で購入した帽子です。
F1の帽子と一緒に保管していたのでこっちも出てきました。ついでに投稿です。



こうやって見ると遊んでばっかりのようですが、アメリカに出張で来ており、
たまたまサッカー観戦したものです、念のため。




レンガの隙間から芽を出したこの植物は?



少し大きくなるとこんな風になり、



大きくなるとこのくらい、この木で高さ5m程です。
さて、この植物の名は…シマトネリコです。
自宅にあるこの木からこぼれおちたタネか芽吹いて、いろんなところから、ミニトネリコ?が出てきています。

自宅の庭木には、日差し・風向き・土などなどに繊細なものから、どこでに植えても元気な木がある中、
シマトネリコは1番2番の丈夫さでしょうか。


さて、丈夫といえば健康。最後に人間ドックの話題で終了にしましょう。
日帰りのコースとはいえ、診断してもらうのも疲れるものです。
息を大きく吸ったりはいたり、いろんなところの測定に撮影…
…何といっても胃カメラ!今回コースの〆に飲ませていただきました。
あれだけ調べてもらうと、そりゃ、なんか出てきそうなものですがさて。


2011夏 最初のツーリング

2011年06月26日 17時59分49秒 | touring (by SR)

雨の降る確率50%付近の微妙な数字ににもかかわらず、この土・日曜日の、京都周辺で移動した範囲は、
真夏の天気を思わせる強烈な日差しでした。日差しを浴びると“じりじり”と肌の日焼けを感じます。

さてこの画像はいつもの走行コース、SRで高山ダム近くの駐車場での画像です。時間は午後2時を過ぎたあたり、
この雲の形は真夏のそれです!走行ルートの温度表示は34℃、一方、なぜか数字ほどの暑さは感じません。




近くに、ラベンダーがありましたので撮影しました。これだけ見ると、北海道・富良野みたいでしょ?
標高も高く、気温は低目、ラベンダーだけでなく、蝶や蜂が元気です。



しかしながら、まだ6月!走行ルートのあちこちにアジサイがきれいに咲いています。
お伝えできませんが、セミの鳴き声もありませんね!やはり本格的な夏は少し先なのでしょう。




・・・
さて、ガラリと変わって、少し過去の話題。アイルトン・セナ さんについて。
この帽子をかぶって応援した事は覚えているのですが、事故死を知ったのはその翌日、ピサの街でした。




学校を卒業し就職、イタリアで働いていた1994年。休日にサン・マリノGPの観戦にやってきました。
写真をほんの数枚だけ撮影していました。あのような不幸な出来事があったとは知らず、
翌日訪れた観光地のピサで朝食時に新聞で知りました。驚き、そして悲しい気持でいっぱいでした。



当時、自分で撮影した写真を、先ほどデジカメ撮影し投稿しています。
かたずけをしていたいた時に、あの帽子が出てきて、懐かしくなり写真を探しました。
セナのウイリアムズとその後ろはシューマッハのベネトン。



観戦してる人々の画像に、YAMAHAの文字、片山右京さん?かな。
この画像はセナと同じウィリアムズ・ルノーですがデーモン・ヒルです。


…他にも、写真はあるのですがこのあたりで。



明日、自身初の人間ドックです。日ごろの不摂生を数値で示される怖さと、
あのいやな、胃カメラを飲み込みます…。カメラは2回目。
夜9時以降は飲み食いダメらしいので、今から、飲み・食いですよ。。。





日本最初のウイスキーづくり

2011年06月04日 15時58分05秒 | drink
世界の5大ウイスキーの1つとして、品質と生産量で高い評価を受けている日本のウイスキー。
では、初めてつくったのは、いつ・誰なんでしょうか?


明治維新後の日本では、イギリスの文化に対するあこがれのようなものが膨らむ、
そのような中で、国産のウイスキーを作りたいという夢があったわけなんです。

最初に実現させようとしたのは、摂津酒造という酒造メーカー。
しかしながら、当時はスコッチウイスキーの製造法というのは、
国家機密なので教えるはずはありません。文献でもそのようなものはないということで、
それでは本場のスコットランドに誰か留学生を送ろうということになりました。
そこで、白羽の矢が立ったのは竹鶴政孝という青年。彼は広島のつくり酒屋の息子で、
醸造学を勉強していて、就職口を探している時に、摂津酒造からその話があったとか。

1918年、竹鶴は単身、スコットランドのグラスゴーに渡り、それから約2年の間、
ロングモーン蒸留所やヘーゼルバーン蒸留所などで実地にスコッチづくりを学びました。

しかし、戻ってきたときには、日本はちょうど大正末~昭和初期にかけての大不況時代で、
摂津酒造には、もはや財力がありませんでした。
国産ウイスキーづくりの話は宙に浮いてしまったわけなんです。

その竹鶴の夢を実現させたのが、サントリーの前身でもある寿屋の鳥井信郎。
鳥井にも竹鶴と同じ夢があり、1923年、今の山崎の地に国産第1号蒸留所が建設されました。
これが、現在のサントリー蒸留所です。

そして、1929年に国産ウイスキー第1号「白礼」が誕生しました。

この白礼がジャパニーズウイスキーの祖になるわけですが、すべてのつくりかたをスコットランドで
実地に学んだ通りに、まったく同じものをつくろうとしたという点で、白礼はかなりスコッチに似た
ウイスキーだったといえます。ジャパニーズウイスキーはある意味ではスコッチの弟分です。
その当時、世界を席巻していたのは、ブレンデッドウイスキーであって、竹鶴や鳥井の中に頭にあったのも
当然ブレンデッドウイスキー。シングルモルトではありませんでた。

やがて、竹鶴と鳥井はお互い相容れないことがわかってきます。
竹鶴は、樽詰め約8年は寝かせないといけないと主張する。それは、スコットランドでは
8年寝かせるのが一般的だったから。
一方、鳥井の考えでは塾成は、年数にかかわらず最高の状態で瓶詰すべきで、
日本は気候風土が違い、ジャパニーズウイスキーをつくるのであって、スコッチウイスキーをつくるのではない、
ということで、考えが対立してしまいました。

それではということで、竹鶴は山崎蒸留所を退所して、スコットランドの気候風土に近い、北海道の余市に
余市蒸留所をつくりました。これが国産第2号の蒸留所、現ニッカウヰスキーの余市蒸留所です。
当時の社名は、大日本果汁といいました。

ところで、ウイスキーをつくるということは、創業してから製品になるまでに10年近くかかるわけで、
その間、経営をどうするかという大問題があります。
そこで、彼が考えたのが、余市の近くでたくさん栽培されているリンゴを絞ってジュースにし、
それを売るということでした。大日本果汁という社名はそこからつけられたものです。
ニッカウヰスキーという現社名は、大日本果汁の日と果からきているんですね。

竹鶴があくまでもスコッチウイスキーにこだわったのに対して、
鳥井はオリジナルのジャパニーズウイスキーを目指したというのは、非常に興味深いものです。

その後、ジャパニーズウイスキーは、世界の5大ウイスキーとして独自の地位を築く…。


(参考文献:スコッチ三昧 著者 土屋 守、Whisky Book 非売品)


  

左:スピリッツセーフ。ガラス張りの小さな箱のようなもので、セーフ(金庫)というんですね、
これは…書き出すと長くなるので、またの機会に!

右:仕込み槽。麦芽を細かく砕き、温水と共に仕込み槽へ。