もう少し、父のことを書いておこうと思う。
どんどん忘れちゃうからね(苦笑)
あの日、深夜0:57に姪っ子から電話。
いつかかってきてもいいように、枕元に携帯を置いていたし
鳴った瞬間、「その時だ」ってわかったけど
動揺して、手が滑りなかなか電話に出られず。
姪っ子は意外にも落ち着いた声で
「血圧がね、もう下がってきているんだって」
私の方は声にならなかった「うん、わかった」
とーたんとはシュミレーションしていたんだよね。
夜中だったら、そらうみはどうするか。
とーたんは晩酌をしてしまっているから、お留守番してもらおうか…とか。
でも、電話の後は、迷いなくとーたんを起こし
着替えて準備。
友だちのアドバイスがあったから
いざという時の荷物はまとめてあった。
実家の方に居続ける場合の泊まりの準備。
喪服、靴。
でも、一刻も早く出よう、間に合いたいという思いで
何も持たずに家を出る。
(そらうみは朝まで大人しくしていてくれたみたい)
とーたんが運転しようかと言ってくれたけど
万が一事故でも起こしたら、絶対酒気帯びだから、私が。
心臓が口から飛び出るような思いで、約40分。
父は待っていてくれた。
少しだけ、血圧は回復していたけれど
間遠になった呼吸は、そう長く続かないと思わせる。
母、兄夫婦、姪っ子とその夫くん
私たちと叔母夫婦も駆けつけて
4:25頃、呼吸が止まり
先生がようやくやってきて、4:40死亡確認。
忘れるから書くと言ったけど、実は何度も観た映画のように
思い出せるんだよね。
冷たくなっていく手足、苦しそうな呼吸。
それでも止まってしまえば、父はもう本当に逝ってしまうんだという絶望感。
”血を分けた” ”肉親”とはよく言ったもの。
悲しみとか寂しさは時間とともに少しずつ薄れるけど
気づけば「もういないんだ」という喪失感がとにかく大きい。
これは永久に消えないのかな。
父と母のことを少し書いておこう。
5月に入って、面会ができるようになって
その日も母と一緒に病院に行って、実家に送っていったとき
母が今まで聞いたことがない話をしだした。
要約すると
自分は農家に嫁ぐつもりはなかった。
(それは知ってた。だから、洋裁と和裁を習って、洋裁店にお勤めしてたんだものね)
でも親は食いっぱぐれがないからと勧めたんでしょうね。
来てみたら、案の定
仕事ができない嫁を姑はネチネチ言い
この当時は嫁いびりなんて普通のことで、母だけが特別ではないと思うけどね。
ちなみに祖母は私たちにはとってもいいばあちゃんだったよ。
それに私が知ってる母と祖母の関係は本当の母娘のようだったんだけどね。
それはたぶん後のこと。
その時、父はと言うと
これまたあるあるで、仕事のできない嫁のことを祖母にチクっていたらしい。
ひど~い!
(介護してるとき、たまに父を冷たくあしらったのはその仕返し?)
私は母と寝た記憶がない。
物心ついたときにはばあちゃんと一緒に寝てたもの。
もしかしたら、それもばあちゃんが意地悪して、母からとりあげたのかもね。
その頃の父と母。
この写真は初めて見たぞ。
姪っ子が見つけてきて、写メしてくれた。
若い!
そして父は兄に、母は私にそっくり(逆か?)
でもこの頃の母には一切笑顔がない。
幼い頃の私の写真は父が撮るせいか
ほとんど父と写ったものはない。
探して見つけたのは
小学校に入ったくらいかな?
めっちゃかわいい(爆)
このくらいの時だと思うけど、母がいない時期があった。
幼かったから、別居とか離婚とかという言葉も知らなかったけど
母は実家に帰っていたのだ。
嫁入り箪笥を運び出したのか、運び入れたのか曖昧だけど
その記憶もあって
母は「出てきた方がいい」という姉3人の意見より
「子どもを置いてきて、これからなんの幸せがあると思う」という
両親の説得で戻ってきたらしい。
「あの時戻らねば、おめ(あんた)なんか後妻にいじめられだべな」
と言いながら不敵な笑み。
その後、父や祖母が母に優しかったかどうかは
2人がすでに鬼籍に入ったため、時効といたします(爆)
この後、父母は前にも増して
懸命に働き、私たちを育て、家を建ててくれた。
なんでも新しいもの好きだった父は
車を持つのも、電子レンジなどの家電も
よその家よりかなり早かったし
8ミリのビデオカメラや
カメラ、カラオケとうちにはなんでもあったよ^^
(8ミリのビデオテープがあれば、小学生の私やなくなった祖父母に会えるんだよね)
これは中学校に入ったくらいかなぁ。
この頃から丈夫になり始め
高校に入る頃にはずいぶんと…お・デ・ブ
きっと母が撮ったんでしょうね、ピンボケだもの。
などと思い出に浸り、楽しく綴って
いざ更新!と予定していたら
なんとあひる一家を中心に巨大台風が!
次回に乞うご期待(誰もしてない?ー爆)