キリスト教的英文テキストに半年以上どっぷり浸かり、合唱曲を完成させた。次に何を書こうかと思っていたところ、尺八を使った室内楽の作曲募集が目に入った。
多少風変りな楽器編成でもあり、その時はそれほど興味を惹かなかったが、書くなら日本的なタイトルにしようと仏教用語を調べながら、いつもの様にPC.で気楽に断片的なスケッチを作っているうちに、「これはやり遂げるべき」という気になった。
ひとつの作品を書けば、書いたことによって書けなかった部分が明白になる。
キリスト教的英詩合唱曲を完成させたことによって、それだけでは語れない別の一面を語らねばならない状況になった。
その手段として、邦楽器を使った作品は極めて打って付けだろう。仏教用語からタイトルを付ければ、曲の中身も自ずと仏教的になる。仏教風五重奏曲とでも言えようか。
僕は特定の宗教に入っている訳では無いので、何の宗教にも平等に関心を寄せることができる。キリスト教的作品の次に仏教的作品を続けて書くことに何の抵抗も無い。むしろ必然。
作曲とは音楽による音楽への信仰告白。足りない部分を一作品ずつ、徐々に埋めていく営みなのだろう。(2007-11-14/写真:池袋、芸術劇場前)
邦楽は「円環的音楽」と言えようか。無から始まり、ある時は厳しく、ある時は優しく、激昂する時があればすすり泣く時もあり、最後は再び無に帰す。
2、3分聴けば次の2、3分が予測でき、ドラスティックな激変はまず起こらない。
ある部分を削除したり、または自由に何度もしつこく繰り返したりしても、音楽自体に殆ど影響を及ぼさないし、どこから始まり、どこで終わってもおかしくないような音楽。
器の大きい、海のような。
一方、西洋のクラシック音楽は発展的。音楽という名のドラマであり、建造物。
1小節たりとも順番を入れ替えることは出来ない。音にはそれぞれ意味があり、音を入れ替えると意味が違ってしまうか、消滅してしまうから。
…と単純に思っていたが、そうでも無かった。
西洋音楽にも円環的な音楽はある。グレゴリオ聖歌、ノクターン、それに…近代の管楽器や弦楽器(特にチェロ)の曲でも、無伴奏で聴くと東洋的に聴こえたりもする。
ここ数日、会社の弦・管・声楽講師の契約更改で実技を拝聴し、無伴奏で時に渾身の演奏を聴く、という得難い体験をしている。
伴奏とは一種の説明であり、定義付けでもあるので、それが無いと時に伴奏を妄想し、時に生の旋律に掻き立てられる。
「このクラリネット・ソナタのソロ部分をもし尺八でやったら、ものすごい名曲になるな」と。歴史に残っている作品というのは、無名の曲でもすごいものだ。
西洋楽器を伴奏に、尺八が主役を演じる目下の作品は、自分にとっては初の円環的音楽となるだろう。
ギターで琵琶風の音が出せないか、楽器をいじりながらあれこれやっていたら、気に入ったものが2種類出来た。
2種類で十分。琵琶っぽい音をあまり増やしてしまったら、だんだん境界が曖昧になり、効果がなくなる。妥協せず厳選したものだけ、ここぞという場面で使う。
作曲とは、音の発明。音の演出。
(写真:フルートフェスティバルの頂き物)
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