代官山音楽院の中陣孝男さんが他界されて2ヶ月になる。昨年(2007年)のクリスマスの晩、肺梗塞により入院先の病院で亡くなった。51歳だった。
20年前僕が楽器店の指導スタッフとして入社した頃、中陣さんはエレクトーン講師のチーフで、会社から駅に向かう路上、数人の女性講師を引き連れて歩く姿を拝見した。
スーツのブランドにこだわるダンディーだった。夏の社員旅行で「趣味は何ですか?」と、にこやかに話しかけてくれた。
間もなく中陣さんは講師から音楽教室運営の社員へ転属した。社内報の一言欄に「子供の運動会、学芸会には必ず行く」と書く父親でもあった。
リトミックや電子ピアノコースの運営を経て営業にも転属し、その後再び音楽教室運営に戻られた。
講師採用説明会でご一緒した時、ピアノフェスティバル(現コンクール)の講評で、僕が自分の生徒を「ちゃん」で呼んだことにお客様からクレームが来た、と優しく諭して下さった。
講師論文集を編集した際、抜粋のせいで文章のつながりに不具合が生じた箇所を細かく指摘して頂いた。僕が付けたタイトルがいい、と褒めてくれた。
代官山音楽院の職員となって設立に携わり、軌道に乗ってから僕を講師に誘って下さった。ピアノコースのコンセプトを一緒に作成し、「これでは一般の音楽大学とどう違うのか分からない」と食い下がられた。たまたま口にした「超・音大」という言葉を大変気に入って下さった。
最寄駅が同じことから、残業を終えた後、一度だけ深夜に自宅を訪ねてくれた。仕事の話を終えて、ブランデーを一緒に舐めた。作曲への夢も持っておられるようだった。この短い間、僕と中陣さんとの関係は最も熱かった。
ピアノコースの1期生が入ると、HP.の拡充や、学内コンサートの準備などに尽力された。「学内コンサートの直後、学生がみんな練習室にこもった」と感心しておられた。
卒業式では「学生、講師一同、起立!」と厳しい声で号令をかける、意外な側面を発見した。
翌年の2期生の卒業式は僕の都合でピアノコースだけ違う日に小部屋で行い、珍しく長々ととりとめの無い送辞を話したら、「学生たちは感激していた」と言って下さった。しかし一番感激してくれたのは中陣さんだったかも知れない。事故に遭われて松葉づえをついておられたのは、その前だったろうか…。
そして今期、3期目の学生の入学審査は中陣さんと2人で行った。謙虚で熱意のある学生だ。中陣さん、ありがとう。
先生のお導きで、現在まで約30年音楽を仕事にさせて頂いております。
先生が若くして亡くなられたこと、こちらのブログで知りとても哀しく、残念です。 またいつかお会いしたかった。突然のコメント、失礼致しました。