ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

あの頃、ビアハウス:ワルツィング・マチルダ(1)

2018-03-14 11:57:08 | あの頃、ビアハウス
2018年3月14日

わたしが若い頃、よく耳にした歌で、オーストラリアの第二の国歌とも言われるのに、「ワルツィング・マチルダ」がある。渡米の資金調達のために、わたしは、昔バイトで大阪梅新のアサヒ・ビアハウスの歌姫をしていた時に、よくこの歌をリクエストしたのが日本人の奥さんを持つオーストラリア人のマーチンさんだった。

マーチンさんがビアハウスに来るようになったいきさつがおもしろい。
梅新のビアハウスで歌姫のバイトを終えた後、帰路の電車でよく同じ車両に乗り合わせる外国人がいた。午後10時ともなるとさすが電車の乗客は少なく、若くて背の高い、色が真っ白な外国人青年は否が応でも目立つ。後で知った話だが、あちらもしょっちゅう乗り合わせるわたしの顔だけは知っていたようだ。

それが、ある日偶然アサヒビアハウスへマーチンさんとイギリス人のロブとで現れたのだ。その時のわたしたちは互いを指差しあって「ウォー!」(笑) 

マーチンさんの学校のグループ

マーチンさんは大阪梅田界隈に英語学校を経営しており、くだんのわたしが電車でよく会う青年は、交換留学生として京阪沿線にホームステイしており、バイト英語講師を引き受けていたという。

マーチンさんの学校の講師はみなネイティブ・スピーカーで、わたしもわずかの間だが試験を受けて通ったことがある。結局、アメリカ留学資金を貯めていた最中だったため、わたしは途中で辞めたのだが。

そうして、マーチンさんの学校グループもビアハウスにしょっちゅう来るようになった。ワルツィング・マチルダ」を歌うときは、ステージにマーチンさんたちを呼び出して一緒に歌ったりもした。


ワルツィング・マチルダを一緒に歌うマーチンさんとブルース君

愉快なマーチンさんは、わたしに「痩せすぎです。もっと食べなさい」と言っては1キロの上等の牛肉をプレゼントに持って来たりして実は困ったわたしであった。この1年後にマーチンさん一家は学校を畳み祖国のオーストラリアに帰ったと聞く。そして、この時わたしが友人になったアメリカ青年ブルース君と連れ立ってきたイギリス人のロブとは、アリゾナで再会することになるのだが、その話はこの「あの頃、ビアハウス」エピソードが終わってからになる。

「ワルツィング・マチルダ」については、もう一章、次回に書き加えたいと思う。