ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

毎日が日本語英語ポルトガル語:第2話「家庭語と教育の選択」

2019-04-07 22:24:08 | 毎日が日本語英語ポルトガル語
2019年4月7日

母親であるわたしと子供との伝達言語は日本語と決まったが、父親とはどうなるのか?この点はわたくしの決めることではないので、放って置いたのでありました(笑)

夫は子供達とは、ポルトガル語よりも英語、日本語で話しかけてました。ポルトガル語については、当時同居していた義母や夫のおばたちから耳に入るのですから、当初は大した問題ではないと判断したのでしょうか。

生れ落ちたとき、日本語、英語、あげくの果てはポルトガル語まで耳に入ったのですから、赤ん坊の息子はさぞかしびっくりしたのではないか。いや、案外「この世界では、これが極当たりまえのことだ」と、すんなり受け入れたのかも知れない。聞くよしも無し。

こういう具合にして、わが子の日本語教育は決まりました。

生後4ヶ月の息子、ジョンボーイ

息子が3歳になり、「この国でどんな学校教育を授けるか」の方針を決めるべき時が来ました。義母の家のすぐ裏にある公立学校の様子を垣間見てきたわたしは、子供たちがバス停で喫煙してても、注意をしない大人たちを目にしていましたし、なぜだか、しょっちゅうパトカーが学校に向かって走ってるし、これはまずいな、と思っていました。

東洋系がほとんどいなかった40年近くも前のことです。わたしはポルトに住み着いた最初の日本人でしょう。
街を出歩くたびに、「シネーザ、シネーザ(chinesa=中国人女性)」と指さされ、これが頭にくることに、最初の頃はポルトガル語が分からなかったもので、「死ね~死ね~」と聞こえたのであります(笑)

我が子は、東洋系の容貌を持つと言う、自分が望んだものでもないことで、囃されたりいじめられたりすることは、目に見えています。公立の学校へはやるまい。私立の学校となると、当時はどれもカトリック系です。これもわたしはクリスチャンではないのでやりません。そして、日本人学校はない・・・

これは言葉の勉強ではなく、後の我が子の人生に大きな影響を与えることになるであろう、学校教育の選択問題です。

夫とは随分話し合うことになるのでした。


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