ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

アリゾナの空は青かった:最終章「ケンターッキー・イン、今も変わらぬままで」

2018-06-11 19:31:21 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年6月11日

さて、皆様、「アリゾナの空は青かった」、実はまだまだお話していないことはあるのですが、ずらずら書き連ねて、もう24までも来てしまいました。そろそろ閉じてもいいとこまで来たと言えましょう。

思い立ったら前後も考えずすぐ実行するわたしのその即行動力に一番驚いたのは、恐らく春に母国ポルトガルへ帰国することとなっていた彼の人(現夫)でしょう(笑) 

空港まで出迎えに来てくれた二人の友人とそのままアサヒ・ビアハウスに向かったわたしをいつものように迎えてくれたのは、相変わらずの常連たちである愉快なアサヒの仲間でした。アパートは引き払い、家財道具という道具は一切合財売り払って渡米したわたしです。行くアテもなく、まさに「ふうてんのyuko」の名にふさわしく(笑)、その日の宿のことも考えず、アサヒの仲間達との再会にビールで乾杯し、歌姫カムバックでした。


オフィス時代のチーフと仲間たちがさっそくビアハウスに顔出しに^^



翌年、1979年3月の婚姻の事務的手続きまで、わたしはどこにいたかと言いますと、今では「かつらぎ山房」の持ち主となっている我が親友、みちべぇのご両親宅にしばらく居候したのでした^^

今は亡き我が親友のお父上の「娘3人がもう一人増えて4人になったとて、どうということはなし。うちへいらっしゃい。」の一言には、人を大きく包む人生哲学がうかがえます。わたしは親友みちべぇの三姉妹の家に転がり込み、乙女四人で枕を並べて寝たのでした。

みちべぇとわたしの関係はと言うと、彼女はわたしが勤務していたオフィスの後輩で、7つ8つ年下です。後先考えずに行動に移すわたしとは対照的に、彼女はおっとり型。それもそのはず、京都のダ○女卒ですが、芯はしっかりしています。どういうわけか気が合い今もって交流が続いています。

さて、3月のわたしたちの婚姻届には二人の証人が要り、一人はみちべぇ、そしてもう一人は、これまたいつの間にか帰国していた、かつての会社の同僚であり、アメリカ留学の下宿時代の同僚でもあった「ザワちゃん」であることを付け加えます^^

ザワちゃんと我が親友みちべぇ

夫とわたしはセレモニーは特別にしませんでした。届けを出した当日の夕方に、常連や友人達がアサヒに集いそこでお祝いを受けました^^いかにもアサヒの歌姫、ふうてんにふさわしい。わたしはそれで満足なのです^^

後年、我がモイケル娘に、「おっかさん。結婚式の写真はないの?」と聞かれたことがありますが、はい、ござんせん^^あるのは、二人で正装して写真館で撮った記念写真のみです。

3月、我が夫となった人は、一足先にポルトガルへ一人帰国し、ミセスとなったわたしは、5月の渡航まで今度は横浜の叔母の家に居候。あっちでもこっちでも、居候しては皆様に迷惑かけててきたのでありました。

1979年5月、ポルトガルを3人で新婚旅行することとなる、夫の日本人の親友Dr.D氏と二人で、パリ経由で成田を飛び立ち、生まれて初めてポルトガルという地に足を踏み入れのでした。

この後のわたしの生活は、「ポルトガルよもやま話」につながります。

最後に、先だって初めて、ツーソンの我が下宿先が今はどうなっているかと、住所を覚えているので、検索してみました。当時の女主人が存命かどうかも分かりません。住所と下宿名「ケンタッキーイン」で探ってみましたが出て来ませんでした。何しろ37年も昔のことです。ほとんど諦めかけたとき、ストリートビューで見つけることができました!見つけることができたのは、いやもう、建物が昔と変わりない姿であったからです。
 

1978年のケンタッキーイン。       


現在。

ほとんど変わっていません。まだ、下宿やなのでしょうか。看板はあがっているのでしょうか。こんなこともあるんだ、ここにわたしの青春の一コマがあったのだ。変わらぬ姿でツーソンに建つこの家に再会したわたしは懐かしさと嬉しさで、しばし写真の家に見とれて思い出に浸ってしまいました。


ケンタッキー・イン玄関にて。下はインの飼い猫。


ということで、「アリゾナの空は青かった」、また、面白いエピソードを思い出しましたら、追記させていただくとして、いったんここで閉めようと思います。

今で言う、貧困女子だっわたしが、「アリゾナ大学留学」に漕ぎつけるところまでに興味のある方は、左メニューにもありますが、「あの頃、ビアハウス」までどぞ。 


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