戦前 北海道の春は、産卵で押寄せるニシン(鰊)で埋め尽くされた様です。 その頃 我が町の“ニシン漁”は、絶頂期だったと聞いています。 特に、漁師を束ねる網元(漁労長)の羽振りは、想像以上に良かったそうです。 その網元の屋敷が、我が家の近くにありました。 ただし 私が中学の頃には、過去の栄華など夢物語でした。 既に網元は破産し、大きな屋敷は荒れ果て、家主は亡くなり 残された二人の姉弟は、直ぐにも屋敷を追い出される運命だった。 その屋敷に、私より 7~8歳年上の息子 A (K・O)がおり、多少面識がありました。 正義感が強く、逞しく優しい好青年でした。 その後 姉弟は町を離れ、私はすっかり彼等を忘れていました。
数年後(1980年) A を観たのは、テレビの報道番組でした。 道南で起きた「平取事件」の犯人として、近く逮捕状が出ると噂され、テレビ局が張り付いていたのです。 テレビでは 以前より少し太った容貌の A が、自身の営む壮瞥町の剥製(はくせい)店の前で、穏やかに掃除をしている姿が映っていました。 私は一目見て「平取町で、一家 4人をライフルで殺害した凶悪犯が、A である筈がない」と、直感しました。 しかし、放映直後に逮捕された様でした。 その後 新聞や雑誌を数々読みましたが、証拠も自白もない別件逮捕だった事が分かりました。 それから、20年に渡る裁判が始まったのです。
◎ A が使用したとされる“ライフル銃”
「平取事件」 1980年、平取町の剥製業一家 4人を、ヒグマやシカなどの害獣駆除用のライフル銃で射殺した凄惨な事件です。
残念な事に、裁判は一審から高裁まで、全て有罪で死刑判決でした。 司法判断を批判するつもりはありませんが、証拠も自白もない判決は、何か合点が行きません。 それは、A についた 32人の(人権派)弁護士も同じ疑問があったと思います。 被害者(S)男性は、A と同じ剥製業であり元暴力団員で、近隣の住人とトラブルが絶えなかった様です。 他にも闇で金融業を営み、強引な取り立てで 借り手から恨まれていたそうです。 そんな事から、A 以外に容疑者に成り得る人物は数人いた。 しかし、真犯人に結び付く目撃者や物的証拠が何もなかった。 勿論 A とする証拠も!
最大の疑問は、A が逮捕後に警察・検察に対し「貝になった」事でした。 それは、単なる黙秘権の行使ではなく、誰かを庇うかの様に“口をつぐみ”、裁判を愚弄した? まるで“武士”が 拷問を受けても「絶対に口は割らない」そんな魂の叫びかも知れません! そうして、証拠も自白もないまま 死刑が決定したのです。
◎ 日本の処刑台(絞首刑)
果たして、凶器となった A 所有の“ライフル銃”は、何処に行ったのか? 警察は、“洞爺湖”に捨てたと推測し、数か月に渡り湖底を捜索したものの、銃は見付からなかった。 物的証拠は、唯一“ライフル銃”でした。 真犯人は、一体誰なのか? A が、頼まれて X に貸したと自白すれば、死刑判決は即座に覆った筈です! X の名前は、死んでも言い出せなかったのか? 永遠の“謎”です。
A は、1999年に亡くなりました。 55歳でした。 そこは、刑務所の処刑台ではありません。 札幌拘置所の風呂場でした。 髭剃り用に支給されたカミソリの刃を使い、頸動脈を切り出血多量で 沈黙のまま死んだのです。 誰も 潔い最期と、泣いてくれる人はいません。 しかし 私は、若い頃の A を偲びつつ、今でも真犯人でないと信じています。
この事件は、A の 自殺 で収束しています。 しかし A の沈黙は、何を語っていたのか? 本来、死刑判決を受けた囚人は、自ら死を選ぶ必要がないのです。 一家 4人の殺人は、法務大臣が執行書類にサインすれば、即座に処刑台送りです。 その日を、待たなかった。 何故か?
私は、この様に考えます。 A の自殺は、警察や裁判の強権に対する 無言の抗議であったと!