北海道開拓史において、蝦夷地 を知り尽くした 初代判官「松浦 武四朗」が、名実ともに知られています。 残念な事に「松浦」は、蝦夷地が北海道と改名されて間もなく、開拓使判官の職を辞して故郷の三重県に 無念の帰還となりました。 思うに、アイヌ民族を無視した明治政府の強権に、遣る瀬ない不満があったと思います。 それは、次期開拓使判官を就任した「島 義勇」(1822年生まれ)にしても、似た様な経緯があると思います。
佐賀県出身の「島」は、藩主「鍋島 直正」の家臣として実力を発揮し、蝦夷地や樺太(現・サハリン)の探検を担う任務に就いています。 その功績を明治政府が認め、北海道開拓使判官を「鍋島」の後押しもあって任命した様です。 果たして「島」の就任が適任だったのか、蝦夷地(札幌)の開拓に少々疑問が湧きます! 功績 と言うには、実績が伴っていないと感じるのです。
◎「北海道神宮」に建てられた「島 義勇」の銅像
「島義勇」は、開拓判官に就任し真っ先に訪れたのが、札幌市街を見下ろせる 円山 および 宮の森 地区だった様です。 現 北海道神宮 の高台に立ち、開拓の 青写真 を模索したそうです。 京都の街並みを参考に、札幌 を 日本一の都市にしたいと構想したのです。 無謀だったのかも知れません。 極寒の状況下で、札幌の開拓事業は困難を極めた。 一年分の予算(約7万両)を、4ヶ月で使い果たしたのです。 疑問を持った明治政府から、即座に解任を言い渡されたのですから「島」の札幌開拓に些か疑念を抱きます。 僅か 4ヶ月で、開拓使判官を解任された。 それでも、蝦夷地開拓の先駆者・「北海道(札幌)開拓の父」と、呼ばれるのですから不思議です! 「島」の武勇伝(活躍)は、本物だったのか?
◎ 現在の「札幌市」の街並み
明治政府による 蝦夷地開拓 および 札幌開発 は、「松浦 武四郎」「鍋島 直正」「島 義勇」の尽力により、スタート を切ったと思います。 しかし 明治政府は、アイヌ民族 を無視したまま、放漫な開拓を続けます。 少なくとも「松浦」と「島」は、政府の強行に対し 半旗を掲げた 人物だと思います。 「松浦」は、北加伊道 の命名を譲らず 「島」は、札幌 をアイヌ語の “サツ・ポロ”(意味:乾いた広い場所)と、地名に拘った事で両者の 蝦夷地 および アイヌ民族 に対する愛着を感じます! 旧幕府軍の二人と 明治政府の考え方が、大きく違っていたのか? それであれば、多少は納得できます。
「島 義勇」は、開拓使判官を解任された後 佐賀県に戻り、若い仲間らと 佐賀の乱 を起こし、政治犯として逮捕されています。 首謀者として、裁判の上 打首 で処刑された。 「松浦」にしろ「島」にしろ、北海道開拓 に纏わる不可解な出来事が、明治初期に連続しています。 明治時代「軍国主義」が齎した 暴走 でしょうか? 蝦夷地(札幌)開拓は、明治政府の穿った思想(強権)が、あらゆる場面で窺えます!
それ故に,土人法などと言う差別的な支配をしていったのでは。
と思うのですが。