エゾ中村のブログ

「藤圭子」から「現代医学の功罪」まで、思いの丈を綴ります。 ・・・ From 北海道 ・・・

ふたりの「神様」

2020-11-29 08:08:05 | 日記
同級生の中に、“神社” と “神霊院” の後を継いだ 二人の “神官” がいます。 家業を継ぐのは、至って簡単です。 しかし、業績を維持したり より繁栄させるのは、神事としても至難の業(神業)です。 二人は、成功したのか? 友人を批判するつもりはありませんが、双方とも失敗と言わざるを得ません!

“神社” の神主を引き継いだ “彼” は、次男でした。 神主を嫌った長男は、無理矢理 弟に家督を譲ったのが、“トラブル” の始まりでした。 彼の人生設計が、大きく狂ってしまったのです。 試練は、高校卒業と共に訪れた。 真面目に神主の仕事を続けるも、ストレスが溜まり若くして “アル中” になってしまいました。 夜な夜な、バー や スナック を梯子する毎日でした。 10年も過ぎると、容姿が豹変し “相撲取り” 並みの(ビア樽)体型になってしまいました。  
気の弱い彼は 一大決心し、自分の性格を変え様と勇気を奮い出しました。 1990年代に流行った「とんねるず」が司会する『ねるとん紅鯨団』への出演を決断したのです。 「田舎の神主が、テレビに出る」快挙です。 一般の男15人と女15人が、面白おかしく “お見合い” する娯楽番組でした。 何度もロケ地に向かいましたが、結果はさんざん 町の “笑い者” になっただけ。 そんな彼も来年は70歳、貧しい神社に跡継ぎはいません。

◎ 1990年代の「とんねるず」
  

もう一人は、“神霊院” の後継者です。 こちらは、規模が大きかった。 恒例の “月例祭” では、数十台のバスで “信者” が押し寄せ大盛況でした。 おそらく “お布施” は、町の神社の 100倍はあったと思います。 彼の家族は、“裕福” どころか “大富豪” でした。 教祖であった父親は、息子を後継者にするべく、宗教系の大学に送ったのが間違いでした。 就学中に、新興宗教に嵌まってしまったのです。 そんな中 教祖である父親が急死し、急遽 後を継ぐ事になったのですから、状況は複雑です。 帰郷した彼は、心霊院に新興宗教の教義を持ち込んだのですから、信者や関係者は戸惑います。 数年で “神霊院” が  “ガタガタ” になったのは当然です。 「信者は 離れてしまった」

“神霊院” は、崩壊したのか? 心霊院の関係者達は、後継者の怪しい教え(新興宗教)を嫌い 札幌市に “相川神霊院・本院” を創設したのです。 結果、信者の呼び戻しに成功しました!
本家の “心霊院” は、その後 廃墟同然です。 同級生はどうなったのか? 私と同じく、暇を弄ぶ “しがない老人” です!

◎ 札幌市・厚別東に建つ “相川神霊教院・本院”
  

懐・薪ストーブ

2020-11-27 08:24:01 | 日記
北国の弱点は、何と言っても 冬の寒さ です。 氷点下の中で “暖” を取らなくては、凍えてしまいます。 それを救うのは、ストーブ(暖房)です。 
 50年以上前、我が家の暖房は “薪ストーブ” でした。 静かに燃える “薪” の暖かさは 懐かしい。 
 “薪ストーブ” を思い出したのは、goo blog(hana 256930)さん 最近の記事でした。 大分県在住で、キャンピング(カー)旅 と 猟犬(ハナ)を愛する お元気な方です。 今年も北海道に 123日間、走行距離 1万キロを超える “長旅” に来られています。 本人は否定するかも知れませんが、“旅の達人” です。 camper「いのさん」は、帰郷後 居間に “薪ストーブ” を準備している様子を、詳しくブログで紹介しています。(是非 ご覧ください) 
驚きです「九州で 薪ストーブ」。 拝見した瞬間、昔の思い出が 蘇りました。 我が家で使っていたストーブと、ほぼ同じ形だったのです!  

◎ 我が家で使っていた “薪ストーブ”(同型)
 
薪ストーブ” は、北海道の定番でした。 寒い冬を乗り越える為の 必需品と言っても過言ではありません。 ただし、手間が掛かる “弱点” があります。 薪の調達・薪の処置が 大変です。 夏になると、一年分の “” を注文し配送して貰います。 約 1メートルの 丸太 が、トラックに山積で運ばれて来ます。 次に、巻き切りを専門にする業者に、ストーブの大きさに合わせた長さ(約 30㎝)に切って貰います。 それからが、家族の仕事です。 切った丸太を割り、“薪” にしなければならないのです。 大仕事でした。 父親は日曜日・我々子供は放課後、鉈(ナタ)で薪を割り 雨の当たらない風通しの良い場所に運び 乾燥させます。 その作業は、寒い冬を乗り切る為の 大切な “行事” でした!  

◎ 巻き割り風景

“薪ストーブ” は、管理・手入れが必要です。 薪を運ぶ・火を起こす・ストーブに薪を入れる・・・ 家族の誰かが、火の番兵(管理)をしなければなりません。 雑に扱うと、火傷 や 火事 の危険があります。 一時間もストーブから離れると、薪が燃え尽きる事もあり 再着火に時間が掛かります。 我が家の場合 “ストーブ番” は、概ね “祖母” でした。 ストーブの前に正座し、茶の間の温度管理を任され、誇らしそうな 祖母の姿を思い出します。

ストーブの用途は 勿論 暖房ですが、ヤカンでお湯を沸かしたり、鍋で煮炊きする事も出来ます。 餅やスルメを焼いたり、用途は無限です。 ストーブは、ほぼ一年中 設置していました。 取り外すのは 真夏の一時で、ストーブの掃除やメンテナンス(塗装)と、宝物の様に扱っていました。
 
また、“薪ストーブ” は、煙筒に煤(すす)が溜まりやすい欠点があります。 煤が溜まると、ストーブの火力は半減します。 風の強い日は 煤が煙突から逆流し、茶の間に黒い雪が降る “大惨事” でした。 それを防ぐ為に、月に一回ほど “煙突掃除” が必要です。 相手は粒子の細かい煤です。 煙突を外した瞬間、煤の塊が落ちて来ると大変です。 頭から顔 体中が真っ黒になり、簡単に取れません。 手や顔を洗っても、煤は 中々 落ちません。
良い面・悪い面 色々ありましたが、“薪ストーブ” の暖かさは “格別” でした!

その後、“石油ストーブ” に変わり 便利になりましたが、いつまで “化石燃料”(石油)に頼れるか心配です。 “オール電化” にすれば良い。 良い発想ですが、火力発電の燃料も 石油ですから、“石油ストーブ” と大差ありません。 再び “薪ストーブ” に戻す冪か? camper「いのさん」とは違い ズボラな私ですから、便利な“石油ストーブ” を 手放す事は出来ません!    

土人保護法

2020-11-25 08:18:27 | “アイヌ文化”関連

北方四島は日本固有の領土だ!」 果たして、そんな主張は 国際的に承認されるでしょうか?  確かに 1869年、アイヌ人の聖地 “蝦夷”(エゾ)を、明治政府は日本に統合し “北海道” と命名しました。 しかし 昔(151年前)だからと言って 統合という名の “収奪” が、人道的に許されるでしょうか? 明治政府は、1899年に “土人保護法” を制定しアイヌ人を日本人と同化させる奇策に出ました。 要するに、“アイヌ民族” は 元々存在しない「日本人が縄文時代から蝦夷の地を守って来た」と、世界にアピールする愚策です。 その為に、アイヌ人の墓を掘りおこし “DNA 鑑定” する悪事(国が関わる犯罪)に手を染めています。 日本人とアイヌ人の血の繋がりを 立証したかったのか? 結果、一切 血筋は無し!(お粗末) 

そんな愚策は、日本人よりロシア人の方が良く知っています。 “日露戦争” で奪い取られた領土が「第二次世界大戦後 “サンフランシスコ条約” によって返還された」その事実は、揺るがないのです。 条約の署名捺印で、政府が日本の領土を間違えたのか? それは、条約を覆す為の方便です! 

2007年「先住民族の権利に関する国連宣言」が採択されました。「先住民族が収奪された土地や資源の原状回復と補償を受ける権利」を、国連が決めたのです。 そんな国際社会の流れを、日本政府は受け入れたのでしょうか? 全く、国連の採択を無視しています! 実行したのは「旧土人保護法」を廃止して「アイヌ文化振興法」を、形式的に設けただけです。 一体それが、アイヌ人に対する “補償”・“賠償” になるのか理解できません。 政府は、国益の為に国連を最大限に利用します。 しかし、国益に叶わない案件は聞く耳を持ちません。 それは、二枚舌外交です。 日本の良識が問われます!

◎ 蝦夷地の先住民族「アイヌ」


【 旧土人保護法 】

◍ アイヌの共有財産は、北海道庁長官が管理する。
◍ 自由な土地の売買や小作権設定の禁止。
(アイヌの土地没収)(収入源の漁業・狩猟の禁止)(日本語使用の義務)
(日本名へ改名)(戸籍の編入)
◍ その上で、土地・医療品・埋葬料・授業料の供与。
◍ 供与に関する費用は、アイヌの共有財産から徴収。

明治政府は、“土人保護法” でアイヌの “地位” も “財産” も “人権” も、全て奪い取ったのです。 

私は、“日本人” である前に “北海道人” と 自負しているから言うのです。 どこに、アイヌに対する “誠意” があるのでしょうか? “アイヌ人” を “日本人” に “同化” させる為、全てを奪って “日本名” だけ与えた。 それを “侵略”・“奪略” と言わずして、何と言うのでしょうか?

◎ 民族共生象徴空間「ウポポイ」

2020年、国は「道南・白老町に、アイヌの為に “民族博物館” を 建てて遣った。 “ウポポイ” で、過去の無礼(奪略)を清算したい」 ご立派な “政策” です。 それで “アイヌ民族” は、喜ぶでしょうか? 寧ろ、彼等の心情を “逆撫で” するだけです! “国連” は兎も角、良識ある世界の人々に軽蔑されます。 「民主主義国・日本は、基本中の基本 “人権問題” &  “民族問題” を、21世紀になっても 解決できないのか」と! 

沖縄県民(琉球人)も、アイヌ人と同じ “冷遇” を受けていると思います。 数年前、ヘリパットの建設に反対する沖縄県民に対し、若い機動隊員がフェンス越しに「土人が・・・」と罵ったのは 記憶に新しい。 機動隊(警察)の中に、“偏見” “差別” を 啓蒙する指導者が存在する証です。 そもそも「土人保護法」をつくったのは、“明治政府” であり 我々 “日本人” なのです! 


「菊池 寛」小説『マスク』

2020-11-23 08:03:51 | “現代医学の功罪” 関連
1918年(102年前)、世界中で約 5,000万人が死亡したとされる “スペイン風邪” について、あれこれ調べてみました。 日本で約 37万人が亡くなっている “伝染病”(インフルエンザ)ですが、正確なデータは少ない様です。 そこで、当時活躍していた “小説家” の随筆の中に、“スペイン風邪” に関する “ヒント” はないか、色々と探ってみました。 第一候補の「江戸川 乱歩」の小説の中には ありませんでした。 同時代の小説家を探すと、唯一「菊池 寛」の短編小説『マスク』が あったのです。

菊池 寛」1888~1948年(享年59歳)小説家・実業家。
・・・ 作品 ・・・
「父帰る」「真珠夫人」「藤十郎の恋」「蘭学事始」など
“文藝春秋社” を創設し、現代文学の基礎を作った人物。
“芥川賞” & “直木賞” を設立。  

◎ 着物と丸眼鏡の「菊池 寛」

・・・ 短編小説『マスク』の概要 ・・・

「菊池 寛」は、骨格が広く小太りで 健康そうに見えても、少年時代から心臓が弱かったと 小説の中で告白しています。 そんな事情で、当時 蔓延していた 伝染病(スペイン風邪)に 人一倍敏感だった様です。 「感染すれば命取りになる」と、自覚していたのです。 日頃から『マスク』の内側に何枚ものガーゼを重ね、罹患する事を恐れていたのです。 特に、仕事の打ち合わせなどで人と接する際は、常に用心を怠らなかった。 その時点で 全国の感染死亡者は、3,337人と記しています。 春になると、流行が下火になったが「菊池」は『マスク』に拘り、外す事を止めなかった。   
5月になり、シカゴから “日米親善野球団” が来日し「菊池」は、帝大(現・東大)の試合を観戦に向かったそうです。 野球場を目指して歩いていると、同じ方向に向かう青年を見て、なぜかマスク姿が “異様” に映った。 自分と同じ感性を持った青年に、不快を感じた様です。 「青年は勇敢だ」と思いつつ、“自己本位な心持” と 文章を締め括っています。 

執筆は 30代半ばで「マスクは文明人の勇気」と、“スペイン風邪” に対する警戒心を強調する作品になっています。

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短編小説『マスク』を読んで、執筆したのは 1918年の冬から 1919の春までの日常を 綴ったと思います。 短い文章ですが、重大な問題 に気が付きました。 “スペイン風邪” は 3年間 続いていますが、一年目の感染死亡者は、3,000人強だった事です。 当時の情報(新聞・雑誌)は正確でなかったとしても、被害者の数が少な過ぎます。 3年間で “スペイン風邪” による死亡者は、37万人ですから 凡そ “百分の一” です。 伝染病の感染拡大が 第二波~第三波が深刻だとしたら、今の日本は 新型コロナの第一波”(一年目)として警戒する必要があります。 “新型コロナ” が “スペイン風邪” と似ているすれば、来年~再来年がより恐ろしい! 場合によっては、現在の 100倍のスピードで感染拡大するかも知れません?

◎ “新型コロナウイルス” とされる画像
      

また 小説の中で、“日米親善野球大会” の開催が記されています。 確か “スペイン風邪” の発生源は、アメリカと聞いています。 どうして、“スペイン風邪” が猛威を振るう最中、アメリカの野球団と日本の大学チームの試合を実施したのか? 日本政府が計画する「GO TO キャンペーン」と、同じ様に感じます。 102年前も現在も、伝染病に対する “警戒心が 余りにも低い” と!

菊池 寛」の 短編小説『マスク』を読んだ感想です。 私の考えは、間違いでしょうか? 結果は、半年後~一年後に数字となって現れる筈です! その時「お前の判断は “大袈裟” だ」と、笑って貰えると幸いです。    

ささやき「ザ・スリーディグリーズ」

2020-11-19 08:14:31 | 芸能・アイドル
時折、“テレビ” や “ラジオ” の “BGM” で 懐かしい “アメリカン・ポップス” が流れると、思わず聞き入ってしまいます。 その曲は「ザ・スリーディグリーズ」の「天使のささやき」 1970年代、世界を魅了した “名曲” です。 日本には 何度も来日(公演)しているので、ご存知の方は多いと思います。 「ザ・スリーディグリーズ」は、結成し 50年以上続く黒人女性 3人組です。 正に “天使の歌声” でした。(現在も活躍中) 

◎ 1970年代の「ザ・スリーディグリーズ」
左から、バレリー・シンシア・ピンクニー

私が初めて「ザ・スリーディグリーズ」を知ったのは、1974年 LPレコード「天使のささやき」を買った 46年前 でした。 当時 “ステレオ” に凝っていて、ダイレクトドライブ・レコードプレーヤー、カートリッジ(シュアー)、プリアンプ&メインアンプは 真空管+トランジスタを使った自作、スピーカーは アルテック でした。 レコードは沢山ありましたが、常に新鮮な音源を探していました。 そんな時、街のレコード店から流れる「天使のささやき」を耳にして、迷わず購入した。 それが「ザ・スリーディグリーズ」に 魅了された 始まりです。 素晴らしい “楽曲” でした。 また バックの演奏が、360度 回転する様に聞こえる 疑似 3D サラウンド だったのです。 勿論 3人の、リズム・メロディー・ハーモニーは、最高 でした!

そんな「昭和ロマン」が、今 若者に人気とか? 音楽には、“国境” も “時代” もありません! 「ダイアナ ロス」「バーバラ ストライザント」「トム ジョーンズ」「ビリー ジョエル」 良い楽曲は、心に残ります。 中でも「ザ・スリーディグリーズ」は、 “癒しのボーカル” でした。 「荒野のならず者」「ミットナイト・トレイン」「苦い涙」「恋はシャンソン」など、想い出の曲が沢山あります。

1970年代の “邦楽” でも、魅力ある楽曲があります。 ある意味、音楽の洪水でした。 歌謡曲でしたら、北海道出身の大御所「北島 三郎」「中島 みゆき」ドリカム「吉田 美和」など、個人的な趣向として「藤 圭子」は “ベスト” です。 貧しかった幼少期と、歌謡界で成り上がった “ドラマ” が 凄い! 現役期間が短かった(喉の手術で引退)とは言え、“浪曲” から始まり “演歌”・“ブルース”・“ポップス”、誰にも真似できない “迫力ある歌声” は、今 聴いても新鮮です。(娘の「宇多田 ヒカル」が 唯一の後継者か?) 

◎ 10代の「藤 圭子」映画から