エゾ中村のブログ

「藤圭子」から「現代医学の功罪」まで、思いの丈を綴ります。 ・・・ From 北海道 ・・・

ローカルスター『大泉 洋』

2021-09-01 08:17:52 | 芸能・アイドル

北海道出身の芸能人は、案外 多いと思います。  その中で「大泉 洋」(49歳)は、テレビ や 映画 で際立つ一人(スター?)です。 そんな彼の芸能界デビューは 早く、メジャー(東京)進出は少々遅かった様に感じます。 東京で活動を始めたのは、31歳と言うのですから 18年前になります。 その原因は、ローカル局を大切にして来たからだと思います。 生活拠点を札幌に置き、仕事の依頼があった時だけ現場に赴く、出稼ぎ と言うのか 出張 と言うのか、芸能活動に制約があったのは確かです。 それでいて、スターの座を勝ち取った役者「大泉」は流石です。 正に、遅咲きの大輪と言えます。

「大泉 洋」が、芸能界を志したのは、生まれ故郷の北海道でした。  彼は 教師を目指し札幌の大学を受けるも、入試に失敗(二浪)やむなくマイナーな大学に方向転換したのが、役者を目指す分岐点だったと思います。 そこで出会った 同級生 や 後輩 と立ち上げた「TEAM NACS」(演劇集団)が、ローカルテレビ局に出演する土壌をつくったと言えます。 学業より演技 彼等の行動力(タレント性)が、北海道の某テレビ局を動かしたのです。 ユニークな発想で深夜番組を 企画・制作、放映するとたちまち北海道の若者から大きな支持を得ました。 納得です。 あの頃、彼等が出演する番組は本当に楽しかった。 原付バイクでヨーロッパを縦断し様々な名所を案内したり、マイクロバスでアフリカのサバンナを駆け抜け大小の野生動物に遭遇したりetc. 多少粗削りながらも自由気ままな行動や言動が視聴者に受けた。 「大泉」と愉快な仲間達は、身体をはって番組を盛り立てたと思います。  番組名は「水曜どうでしょう」です!  それは、今でも続く長寿番組になっています。(ただし、ローカル?)  

「大泉 洋」は 東京に進出して 18年、数々のテレビ(大作ドラマ)や映画(探偵はバーにいる 等)に主役を張っているのですから、誰しも認める スター です。 しかし、彼が若い時から時折みせる 二面性 を危惧します。 ドラマや映画で観る 硬派 と、バラエティーやトークショーで観る 軟派 の落差が、何故か気になります。 どちらが「大泉」なのか?  硬派と思いたい!  バラエティーにおける 軟派 な立ち振る舞いは、己を偽っている様に感じます。  勝手な憶測ですが、学生時代に教師を目指し挫折した、そんな過去(教師失格)に拘りがあると思います。 役者より、苦楽を共にして来た仲間を優先したい。 ビックになっても、チーム・ナックスの絆を大切にしている様に感じます。  メジャーの「大泉」と マイナーの「大泉」 目に見えない 二つの顔 があるのではないか?  本来「大泉」は、軟派 が持ち味の役者ではないのです!

* “硬派とは正義感や信念が強く真面目な人。(乱暴とか不良とは違います



“チーム・ナックス”は、左から「森崎 博之」(仲間からごり押しされたリーダー)「安田 顕」「戸次 重幸」「大泉 洋」(気配りのリーダー)「音尾 琢真」からなる 5人組です。 現在 各々北海道と東京を行き来し、テレビ・映画で活躍する実力派タレントです。 将来、誰が伸びる(ビックになる)か未知数です。 「全員、ビックになって欲しい」 それを ファンは期待し、暖かく見守っていると思います。 あえて、北海道に拘るなと言いたい。 いつまでも 道産子タレント と言われない為にも、北海道を旅立ち全国区(メジャー)で活躍する事を願っています。  「大泉 洋」を始めとする“チーム・ナックス”は、北海道民の誇りです!  


邦画選『 その人は昔 』

2021-08-16 08:17:30 | 芸能・アイドル

映画 『 その人は昔 』を、覚えている方は少ないと思います。 上映は 1967年ですから、半世紀前の映画です。 実は、私も忘れていました。 偶々 YouTubeで「舟木 一夫」の楽曲を検索すると、映画「その人は昔」が予告欄で紹介されていました。 意外にも 抽入歌は10曲ほどあり、順番に楽曲とサンプル動画を閲覧している内に、当時の記憶が蘇って来たのです。 「その人は昔」 それは、異色の邦画でした。

歌手「舟木 一夫」が デビューして間もなく、初の主演と話題になった映画でした。 ヒット曲 高校 3年生 を映画化したストーリーと思っていましたが、内容は全く違うものでした。 青春恋愛物語 ではなく、むしろ 社会問題 がテーマの様でした。 また、主演が「舟木 一夫」にも関わらず、共演の「内藤 洋子」が目立った 悲劇 でもあり ロマンチック な、素晴らしい映画でした。

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映画 『 その人は昔 』 1967年公開

* 監督 松山 善三 

* 主演 舟木 一夫 (歌手・22歳)

* 共演 内藤 洋子 (女優・16歳)

(ストーリーは、私の記憶です。 間違いや勘違いは、多々あると思います)

北海道・日高地方で、漁師の家に生まれた「舟木」と 競走馬を飼育する家に生まれた「内藤」が、東京に夢を求め 駆け落ち(逃避行)同然の旅立ちが始まりでした。 「舟木」は 印刷会社に・「内藤」は 喫茶店に、住み込みの仕事は簡単に見つかりました。 若い二人は 休みの日に合い、将来の夢を語っていました。 しかし 東京と言う魔性は、純粋な「内藤」の心を襲って来ました。 妻子ある男に騙され、身も心も傷付いてしまったのです。 それを知った「舟木」は、一緒に故郷に帰り再出発しようと説得しようとしました。 その話し合いをする日「舟木」は、印刷機に手を挟まれ怪我をし、待ち合わせの場所に行く事が出来なくなりました。 何時間も待った「内藤」は、「舟木」に愛想を尽かされたと勘違いし、悲しみの余り東京湾で入水自殺してしまいました。・・・ 「内藤」の死を知った「舟木」は、お骨を抱いて一人北海道に帰る決断をしました。 故郷に着く寸前「舟木」は 幻 を見たのです。 昔「内藤」が世話をしていた 白馬 に乗り、列車を追って「舟木」に微笑む、天使の様な彼女の 幻 でした。 そこで「内藤」が歌う「白馬のルンナ」が流れます。

♪  ルンナ・月の浜辺のルンナ・・・ ルンナ・星を見つめてルンナ・・・ ルンナ・お伽話をしましょう・・  

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映画のストーリーは、至って単純でした。 しかし、挿入曲が良かった。 「舟木 一夫」は 勿論「内藤 洋子」の爽やかな歌声が、映画のイメージを盛り上げたと思います。 特に 終盤の「白馬のルンナ」は、素晴らしく 胸を打ちました。  中学生時代の私には、天使の歌声 に聞こた美しい楽曲でした。

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どうしてなのでしょうか? その後、「舟木 一夫」の活躍は度々目撃しても「内藤 洋子」の噂は聞こえません! 確か、現在 70歳の筈です。 そう言えば、女優の「喜多嶋 舞」が「内藤 洋子」の娘と聞いた事があります。(多少、面影がある?)  

私は 子供の頃から、数多く映画を観て来ました。 ただし「エディ・マーフィー」主演・監督の「星の王子様・ニューヨークに行く」(1988年上映)を最後に、映画館に行く事を止めました。 「余りにもくだらない」「観る価値が無い」と、呆れたからです。 正直 ハリウッド映画が、嫌になりました。 昨今の 特撮 や コンピューター・グラフィック、確かに迫力は有ります。 しかし、私は称賛できません。 本当は「映画好き なのですが」


昭和のヒーロー『力道山』

2021-08-10 08:06:49 | 芸能・アイドル

慰安婦問題 や 徴用工問題 を政治利用する韓国は、「力道山」のサクセスストーリーを知っているのでしょうか? 日本統治下の朝鮮から来日し、相撲界を経てプロレス業を興し、昭和のヒーロになった「力道山物語」を! 
 


我々がヒーロー「力道山」 空手チョップ で相手を薙倒す 比類稀な 正統派プロレスラーでした! 50年以上前、不慮の事故で亡くなっていますので、現役時代を知っている方は少ないと思います。 「ジャイアント馬場」や「アントニオ猪木」を育てた、日本プロレス の創設者と言った方が分かるかも知れません。 とにかく、暗かった戦後の日本を、明るく照らしてくれた功労者です。 そんな「力道山」の人生は、波乱万丈 一言では語れないドラマがありました!

15歳の時 日本統治下の朝鮮半島から日本に渡り、大相撲の二所ノ関部屋に入門した経緯があります。 「力道山」の名前は 大相撲時代の 四股名 で、日本名は「百田 光浩」と言います。 朝鮮名:金 信洛 1950年 将来を期待されるも、大関を目前に人間関係のトラブルで、アッサリと相撲界を引退しています。 その後、アメリカに渡り プロレスの修業を経て、1953年に 日本プロレス協会 を旗揚げし、自らリングに立ち活躍しました。 しかし、試合会場でプロレスを観られる観客は限られています!

◎街頭テレビに群がる“プロレスファン” 

「力道山」が脚光を浴びたのは、始まったばかりの テレビ放送 でした。 娯楽が少なかった時代、テレビを通じてプロレスは 瞬く間に広まったのです。 テレビが普及していない時期でしたので、街の電気屋さんの店頭には、プロレスを観たい人達で大盛況でした。 私が子供の頃は、近くにテレビがある家に「プロレスを見せて下さい」と、仲間を連れてお邪魔したものです。 皆、正座してテレビに映る「力道山」を、英雄の如く応援したものです。 我が家にテレビが来て間もなく「力道山がナイフで刺された」と 噂が流れました。 まさか 不死身?の「力道山」が、死ぬ とは思いませんでした!  

正統派レスラーだと思った「力道山」は、テレビでは見せない 裏の顔 が あった様です。 莫大なテレビ放映料を手に入れ、様々な事業に乗り出したのが原因で、ヤクザ や 同業者 との間でトラブルが絶えなかったそうです。 性格が粗暴?な「力道山」は、酒に酔う度に リング外で大暴れしていた様です。 そんな中、ナイトクラブで泥酔した「力道山」は、些細な理由で用心棒 であるヤクザを、鉄拳で叩きのめしたそうです。 殺されると焦ったヤクザは、持っていた 登山ナイフ で「力道山」の脇腹を刺し、大怪我を負わしたのです。 しかし 「力道山」の武勇伝は、そこで終わりません。 刺された脇腹を押さえながら、酒を飲み続けたと言うのです。 ナイトクラブを出た後 行きつけの病院に向かったものの、内臓を損傷する怪我を かすり傷 程度と放置し、治療後も暴飲暴食を止めなかったのが、命を縮める原因になったとか? 数日後 我らが ヒーロー「力道山」は、呆気なく 亡くなってしまいました!

◎巨漢「ジェス・オルテガ」と戦う「力道山」 
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今 顧みても「力道山」は強かった! 「ルー・テーズ」戦・「フレット・ブラッシー」戦・「シャープ兄弟」戦・「ジェス・オルテガ」戦・「カール・ゴッチ」戦・・・ WWA世界ヘビー級タイトルマッチ「ザ・デストロイヤー」戦は最高でした。 実際に テレビ視聴率は、64%(歴代4位)だったそうです。  また、「プロレスはショーだ」と皮肉った 柔道界最強の「木村 政彦」と異種格闘技戦で、相手の急所蹴りに激怒した「力道山」が、空手チョップの連打で「木村」を 血祭り にした「昭和の巌流島」が、プロレス・ブームに 拍車をかけた のは、偽りのない事実です! そんな実績があったから、後輩の「ジャイアント馬場」・「アントニオ猪木」・「ジャンボ鶴田」など、檜舞台(テレビ)で活躍する土壌が 出来たと思います?   

1963年12月8日 「力道山」は、39歳で一生を終えました。 日本での生活は、わずか25年と短くも華々しい人生だったと思います。 たしか「力道山」は、徴用工 として日本へ遣って来た筈です。 韓国が言う「慰安婦 や 徴用工 は、強制的に日本へ連れられ、自由も財産も奪われた」は、本当でしょうか? 少なくとも「力道山」は、反日“文大統領 の言い分とは違います。 なぜなら「戦後日本の 我らがヒーロ」ですから! 「徴用工問題」の悲惨な実態は「力道山」の サクセスストーリー が、全てを語っていると思います。     


悲運のシンガー『坂本 九』

2021-07-27 08:06:56 | 芸能・アイドル

 

上を向いて歩こう”  作詞・「永 六輔」 作曲・「中村 八大」

♪ 上を向いて歩こう~ 涙が止まらないように~ 思い出す~ 春の日~一人ぽっちの夜~ 

ご存知「坂本 九」のヒット曲「上を向いて歩こう」です。 日本 は元より 世界中 で愛され、今もなお歌い継がれる名曲です。 昭和 38年 アメリカのビルボードで 3週連続一位を獲得し、アジア圏ではベスト歌謡と称賛されています。 その「坂本 九」は、1985年(昭和 60年 12月 10日) 群馬県上野村の御巣鷹山で 亡くなっています。 日航・ジャンボ機の 墜落事故 でした。 「上を向いて歩こう」「明日があるさ」「幸せなら手を叩こう」「涙くんさよなら」・・ 数々のヒット曲を残し、惜しくも帰らぬ人になったのです!(享年 43歳)

「坂本 九」は、世界的に有名な歌手です。 日本の歌謡界で、頂点に登りつめた ビック・スター です。 誰しも、そう思っている筈です。 しかし、事実は全く違います! 生前の彼は、歌謡界の 嫌われ者 でした! 当時 「坂本 九」は、業界から冷たく扱われメジャーな仕事を奪われていたのです。 何故かと言うと、歌謡界の重鎮らの 醜い嫉妬 です。 「坂本は歌が下手だ」「日本語の詩を正しく歌えない」「声が汚い」・・・ アメリカを始めとする諸国で「上を向いて歩こう」 通称 SUKIYAKI を称賛さたのが気に食わなかったのです。 権力者による謂れのない バッシング でした。 

その結果 仕事の多くは、地方(ローカル)に追い遣られ 最後のテレビ出演が、北海道・札幌テレビ(STV)の「ふれあい広場サンデー九」(障害者向け番組)でした。 放映は毎週日曜日 am 9:30~10:00でしたので、私は何度か観ました。 決して、スターとして脚光を浴びる様な番組ではありませんでした。 俗に言う、地味な つなぎ番組 です。 それでも彼は、明るく振る舞っていたのが、思い浮かびます。 「坂本 九」は、日本で華々しい スポットライト など 受けていなかったのです!

「坂本 九」の事故死により、バッシングの件は忘れ去られたと思います。 歌謡界の重鎮達は、安堵した筈です。(厄介者がいなくなった) しかし、ファンの感情は変貌しました。 特に、演歌離れ は顕著でした。 若者は、演歌を否定し始めたのです。 そこには「坂本 九」&「上を向いて歩こう」の影があると、私は思います。 歌謡界に対する 不信 と 疑惑 です。 「一曲売れると名が知られ」「二曲売れると飯食えて」「三曲売れると蔵が建つ」 要するに、音楽業界へ忠誠を尽くさなければ、業界から干されるのです。(権力者に嫌われるとアウトです) 「演歌の花道」とは、歌い手における 辛く厳しい「いばらの道」なのでしょうか? 若い歌手が、演歌を敬遠するのは 当たり前です。 歌謡曲は「石の上にも三年」などと言う 修行僧 ではないのです。 日本で稼ぎ活躍しなければ、業界は本物と認めない? 余りにも、了見が狭過ぎます! それが証拠に「坂本 九」亡き後、世界に羽搏く ビック・シンガー は 一人も出ていません。 

◎ 洞爺湖畔の彫刻 「九ちゃん」の悲しみを感じます。

 

* 今年は「坂本 九」が亡くなって 37回忌 になります。 昭和期に 金字塔 を建てた「坂本」も、今では忘れ去られた存在です。 しかし、記憶 と 記録 に残る 名曲 は少なくありません。 一度「坂本」の楽曲を聞いて、在りし日を偲んでみては 如何でしょうか?      


津軽の魂『高橋 竹山』

2021-07-23 08:17:19 | 芸能・アイドル
1975年頃、民主音楽協会(民音)会員の友人に誘われ、札幌市の旧・厚生年金会館に向かいました。 当時、津軽三味線 のブームを巻き起こした 「高橋 竹山(ちくざん)」の独演会を 聴く為です。 開演の合図で緞帳(どんちょう)が上がると、大きなステージの中央に、三味線を抱えた紋付き袴姿の「高橋 竹山」が、小さな椅子に座っていました。 年の頃は 65歳ほどで、角ばった顔に丸刈りで、恰幅の良い オジサン に見えました。 

いよいよ演奏が始まると思いきや、張りのある声で 語り が続きました。 5分・10分・・・、自己紹介 や 昔話 が止まりません。 残念ながら 津軽弁は、殆んど理解出来ませんでした。 凡そ 30分で語り(話)が終わり、三味線の演奏が始まりました。 驚きました。 一張の三味線が、数人の合奏並みに音の広がりを醸し出すのです。 正に 魂 のバチさばきでした。 先に発売された アルバム「源流・高橋竹山の世界」で、評価が高かった 津軽じょんがら節 は、噂どうり 圧巻でした。 私も友人も、勿論 全ての観客は、終演まで 竹山の津軽三味線 に、心底 魅了されました!

「高橋 竹山」は 3歳の頃、麻疹をこじらせ 視力を失ったと聞いています。 将来を悲観した親は、幼い子を盲目の 門付(三味線や唄を芸に旅をする)を教える ボサマ に修業に出したそうです。 一通り芸を習得し、17歳で東北~北海道などに 門付 する旅に出た様です。 「竹山」が 脚光を浴びたのは、厳しい 門付 を始めて30年も過ぎた頃だと思います。 1963年、キングレコード社から、LP レコードを出版しています。 1973年、渋谷の小劇場 ジャンジャン に出演し、津軽三味線のブームを起こしました。 1977年、「竹山ひとり旅」(主演・林 隆三)モスクワ国際映画祭 に、彼の半生を描いた映画(新藤 兼人脚本・監督)を出品しています。  

1986年(75歳頃) アメリカ公演で 津軽三味線を披露し、大反響を起こしました。 普段は辛口の評価しかしない ニューヨーク・タイムズ は「まるで 魂 の探知機でもあるかの様に、聴衆の心の共振音を手探りで寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」と、最高の賛辞を贈ったと言います。 そうです。 「高橋 竹山」は、間違いなく「邦楽の巨匠」です。 「北島 三郎」が 唄った「風雪流れ旅 ♪ 破れ単衣(ひとえ)に三味線 抱けばよされよされと雪が降る泣きの十六短い指に息を吹きかけ超えて来たアイヤーアイヤー津軽八戸大湊 ♪ は、「竹山」の生き様(人生)です。 残念ながら、1998年 87歳で亡くなりました!
      
◎ 津軽三味線の第一人者 「高橋 竹山」
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余談ですが「藤 圭子」の母 & 「宇多田 ヒカル」の祖母である 旧姓・「竹山 澄子」は、女性盲人芸能者・盲御前(ごぜ)でした。 盲目の三味線奏者であり、唄(浪曲)も秀でていたと聞きます。 「竹山」と同じ 門付 で、東北~北海道を旅していた様です。 いわゆる 同業者で、姓・名に「ちくざん」と「たけやま」、何故か「竹山」が気になりました。 しかし、師弟関係は無い様です。 あるとすれば、一時期 門付のライバル関係だったかも知れません? どちらにしても、「高橋 竹山」も「竹山 澄子」(昭和の歌姫・平成の歌姫のルーツ)も 三味線だけではなく、日本人の魂 を奏でています!