

映画 『 その人は昔 』を、覚えている方は少ないと思います。 上映は 1967年ですから、半世紀前の映画です。 実は、私も忘れていました。 偶々 YouTubeで「舟木 一夫」の楽曲を検索すると、映画「その人は昔」が予告欄で紹介されていました。 意外にも 抽入歌は10曲ほどあり、順番に楽曲とサンプル動画を閲覧している内に、当時の記憶が蘇って来たのです。 「その人は昔」 それは、異色の邦画でした。
歌手「舟木 一夫」が デビューして間もなく、初の主演と話題になった映画でした。 ヒット曲 高校 3年生 を映画化したストーリーと思っていましたが、内容は全く違うものでした。 青春恋愛物語 ではなく、むしろ 社会問題 がテーマの様でした。 また、主演が「舟木 一夫」にも関わらず、共演の「内藤 洋子」が目立った 悲劇 でもあり ロマンチック な、素晴らしい映画でした。
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映画 『 その人は昔 』 1967年公開
* 監督 松山 善三
* 主演 舟木 一夫 (歌手・22歳)
* 共演 内藤 洋子 (女優・16歳)
(ストーリーは、私の記憶です。 間違いや勘違いは、多々あると思います)
北海道・日高地方で、漁師の家に生まれた「舟木」と 競走馬を飼育する家に生まれた「内藤」が、東京に夢を求め 駆け落ち(逃避行)同然の旅立ちが始まりでした。 「舟木」は 印刷会社に・「内藤」は 喫茶店に、住み込みの仕事は簡単に見つかりました。 若い二人は 休みの日に合い、将来の夢を語っていました。 しかし 東京と言う魔性は、純粋な「内藤」の心を襲って来ました。 妻子ある男に騙され、身も心も傷付いてしまったのです。 それを知った「舟木」は、一緒に故郷に帰り再出発しようと説得しようとしました。 その話し合いをする日「舟木」は、印刷機に手を挟まれ怪我をし、待ち合わせの場所に行く事が出来なくなりました。 何時間も待った「内藤」は、「舟木」に愛想を尽かされたと勘違いし、悲しみの余り東京湾で入水自殺してしまいました。・・・ 「内藤」の死を知った「舟木」は、お骨を抱いて一人北海道に帰る決断をしました。 故郷に着く寸前「舟木」は 幻 を見たのです。 昔「内藤」が世話をしていた 白馬 に乗り、列車を追って「舟木」に微笑む、天使の様な彼女の 幻 でした。 そこで「内藤」が歌う「白馬のルンナ」が流れます。
♪ ルンナ・月の浜辺のルンナ・・・ ルンナ・星を見つめてルンナ・・・ ルンナ・お伽話をしましょう・・・ ♪
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映画のストーリーは、至って単純でした。 しかし、挿入曲が良かった。 「舟木 一夫」は 勿論「内藤 洋子」の爽やかな歌声が、映画のイメージを盛り上げたと思います。 特に 終盤の「白馬のルンナ」は、素晴らしく 胸を打ちました。 中学生時代の私には、天使の歌声 に聞こた美しい楽曲でした。
どうしてなのでしょうか? その後、「舟木 一夫」の活躍は度々目撃しても「内藤 洋子」の噂は聞こえません! 確か、現在 70歳の筈です。 そう言えば、女優の「喜多嶋 舞」が「内藤 洋子」の娘と聞いた事があります。(多少、面影がある?)
私は 子供の頃から、数多く映画を観て来ました。 ただし「エディ・マーフィー」主演・監督の「星の王子様・ニューヨークに行く」(1988年上映)を最後に、映画館に行く事を止めました。 「余りにもくだらない」「観る価値が無い」と、呆れたからです。 正直 ハリウッド映画が、嫌になりました。 昨今の 特撮 や コンピューター・グラフィック、確かに迫力は有ります。 しかし、私は称賛できません。 本当は「映画好き なのですが」
◎ 慰安婦問題 や 徴用工問題 を政治利用する韓国は、「力道山」のサクセスストーリーを知っているのでしょうか? 日本統治下の朝鮮から来日し、相撲界を経てプロレス業を興し、昭和のヒーロになった「力道山物語」を!
我々がヒーロー「力道山」 空手チョップ で相手を薙倒す 比類稀な 正統派プロレスラーでした! 50年以上前、不慮の事故で亡くなっていますので、現役時代を知っている方は少ないと思います。 「ジャイアント馬場」や「アントニオ猪木」を育てた、日本プロレス の創設者と言った方が分かるかも知れません。 とにかく、暗かった戦後の日本を、明るく照らしてくれた功労者です。 そんな「力道山」の人生は、波乱万丈 一言では語れないドラマがありました!
15歳の時 日本統治下の朝鮮半島から日本に渡り、大相撲の二所ノ関部屋に入門した経緯があります。 「力道山」の名前は 大相撲時代の 四股名 で、日本名は「百田 光浩」と言います。 朝鮮名:金 信洛 1950年 将来を期待されるも、大関を目前に人間関係のトラブルで、アッサリと相撲界を引退しています。 その後、アメリカに渡り プロレスの修業を経て、1953年に 日本プロレス協会 を旗揚げし、自らリングに立ち活躍しました。 しかし、試合会場でプロレスを観られる観客は限られています!
◎街頭テレビに群がる“プロレスファン”
「力道山」が脚光を浴びたのは、始まったばかりの テレビ放送 でした。 娯楽が少なかった時代、テレビを通じてプロレスは 瞬く間に広まったのです。 テレビが普及していない時期でしたので、街の電気屋さんの店頭には、プロレスを観たい人達で大盛況でした。 私が子供の頃は、近くにテレビがある家に「プロレスを見せて下さい」と、仲間を連れてお邪魔したものです。 皆、正座してテレビに映る「力道山」を、英雄の如く応援したものです。 我が家にテレビが来て間もなく「力道山がナイフで刺された」と 噂が流れました。 まさか 不死身?の「力道山」が、死ぬ とは思いませんでした!
正統派レスラーだと思った「力道山」は、テレビでは見せない 裏の顔 が あった様です。 莫大なテレビ放映料を手に入れ、様々な事業に乗り出したのが原因で、ヤクザ や 同業者 との間でトラブルが絶えなかったそうです。 性格が粗暴?な「力道山」は、酒に酔う度に リング外で大暴れしていた様です。 そんな中、ナイトクラブで泥酔した「力道山」は、些細な理由で用心棒 であるヤクザを、鉄拳で叩きのめしたそうです。 殺されると焦ったヤクザは、持っていた 登山ナイフ で「力道山」の脇腹を刺し、大怪我を負わしたのです。 しかし 「力道山」の武勇伝は、そこで終わりません。 刺された脇腹を押さえながら、酒を飲み続けたと言うのです。 ナイトクラブを出た後 行きつけの病院に向かったものの、内臓を損傷する怪我を かすり傷 程度と放置し、治療後も暴飲暴食を止めなかったのが、命を縮める原因になったとか? 数日後 我らが ヒーロー「力道山」は、呆気なく 亡くなってしまいました!
今 顧みても「力道山」は強かった! 「ルー・テーズ」戦・「フレット・ブラッシー」戦・「シャープ兄弟」戦・「ジェス・オルテガ」戦・「カール・ゴッチ」戦・・・ WWA世界ヘビー級タイトルマッチ「ザ・デストロイヤー」戦は最高でした。 実際に テレビ視聴率は、64%(歴代4位)だったそうです。 また、「プロレスはショーだ」と皮肉った 柔道界最強の「木村 政彦」と異種格闘技戦で、相手の急所蹴りに激怒した「力道山」が、空手チョップの連打で「木村」を 血祭り にした「昭和の巌流島」が、プロレス・ブームに 拍車をかけた のは、偽りのない事実です! そんな実績があったから、後輩の「ジャイアント馬場」・「アントニオ猪木」・「ジャンボ鶴田」など、檜舞台(テレビ)で活躍する土壌が 出来たと思います?
1963年12月8日 「力道山」は、39歳で一生を終えました。 日本での生活は、わずか25年と短くも華々しい人生だったと思います。 たしか「力道山」は、徴用工 として日本へ遣って来た筈です。 韓国が言う「慰安婦 や 徴用工 は、強制的に日本へ連れられ、自由も財産も奪われた」は、本当でしょうか? 少なくとも「力道山」は、反日“文大統領 の言い分とは違います。 なぜなら「戦後日本の 我らがヒーロ」ですから! 「徴用工問題」の悲惨な実態は「力道山」の サクセスストーリー が、全てを語っていると思います。