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(先日、歴史の地を訪ねたおりに見かけた、珍しい光景やモノを紹介しております。さて・・・今回は・・・)
『とんと十津川御赦免どころ 年貢いらずのつくりどり』
昔のお百姓さんは、高い年貢を納めなくてはなりませんでした。米が採れなくても、まして不作であった年でも、年貢として納めなくてはなりません。
でも、ここ十津川郷では、山岳地で水田がなく、米が採れず、アワ・ヒエ・トチの実などを食べるだけの生活で、年貢としての「米」はなし。
取り立てる方も、米がなければ仕方なし・・・・。
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奈良県五條市より大塔村を通り、村境の城門トンネルを抜けるとすぐ右手に十津川村観光案内図とともに建っているのが、この御赦免歌碑。
『とんと十津川御赦免どころ 年貢いらずのつくりどり』
この歌を村人は口ずさんでいたという。
作ったモノは自分のモノ。
年貢はいらないし、作り得く。とは言うものの・・・作りたくても作れない。
辛い、厳しい生活を自嘲気味に表現したものだろうか?
十津川村・村づくり推進課の解説によると・・・・
「伝えるところによると、壬申の乱で十津川郷は大海人皇子の加勢をした。勝利した皇子は後、第40代天武天皇となられたが、このとき戦功を賞して、三光の御旗と、御製『遠津川吉野のくすのいつしかと仕へぞまつる君がはじめに』をたまわり、併せて無年貢地とされた。
以後約1200年の間、即ち明治の地租改正まで十津川郷は御赦免地となった。このことがいつか俚謡となり、現在まで村人にうたいつがれてきた。」
『古代から明治維新まで、極端にいえば十津川郷(村)はだれの領地でもなかった。江戸期、行政上、天領(幕府直轄地)になっていたが、免租地だったということから考えると徳川家の領地とは厳密に言いがたい。領地というのは本来、領主がそこから租税をとりあげる土地ということである。そういう四捨五入の整理の仕方でいえば十津川郷は古来、日本国における所領関係の空白地だったといえるであろう。』
『十津川郷の場合は、外界から軍勢をさしむけるのに天嶮がこれをはばむ上に、たとえ入ったところで租税がとれるわけではなかった。』
---(「街道をゆく」司馬遼太郎より)---
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なにびとも寄せ付けない山岳地・・・陸の孤島・・・遠津川、遠つ川、十尾津川とも呼ばれた十津川・・・。凄い、凄いところです。<o:p></o:p>
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<マムシにご注意!>いつか、このトイレにマムシがいたのでしょうね。
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▲こんな忠告があっても・・・入るときは入らなければなりません。でも、怖いですねぇ。
猿谷ダムのトンネル手前にあった駐車場トイレ入り口に・・・なんとこの「マムシにご注意ください。」の貼り紙が・・・。
用を足すため、恐る恐る入って、周りを確認し、隅を確認し、天井も確認して・・・こんなところ早く出ないと・・・気が気でなくて、出すもの出して飛び出しました。
免租の里謡の話し「街道をゆく」でこの文章を読んでいました。十津川に限らず、山峡の地は免租(または一色)の地が多いです。天草などは大名領から天領に変えたほどです。
今回の紀行文ですっかり十津川を旅行したような気分になりました。