土人、支那人の漢字変換は、一回ではでてこなかった。おそらく差別用語であることから
忌避されている固有名詞なのだろう。当然といえば当然であるが。
この土人発言について、肯定的な発言が、ネトウヨどころか閣僚や公党の党首に見られる
ことは何とも腹立たしい限りだ。
彼等は、差別しかない沖縄の歴史を学んでいるのだろうか。
ここで、あえて沖縄の成り立ちや棄民としか言えない差別的扱いを述べる気はない。
沖縄基地村に巣くう日米軍産の強欲、官僚の忖度、土建屋の都合で要りもしない基地を造ろ
うとしている沖縄の民意を一顧だにしない横暴な政権の為すことすべてを良しとし、それに
異を唱える沖縄県民を悪とする冷酷な本土の国民達。
強者の論理に加担する決して強い側にいない人間のなんと多いことか。
やはり、この国はどこかでボタンの掛け違い(故意)をしてからというもの、外して掛け直
すにはあまるにも遠くまで来てしまったようだ。
沖縄の構造的差別に対しては、今に始まったことではない。沖縄の悲惨の歴史に一旦でも触れ
れば今の沖縄の成り立ちを知れば知るほど、憤り以外の感情は湧かない。
差別は、障がい者、弱者、マイノリテイーに対して行われる。あるいは出自に対しても行われる。
経済力が劣る国、文明的に劣っている国の者に対しても行われる。かつて植民地だった国の者に
対しても行われる。それはほとんどが先入観など、自らの裏付けのない価値観の中で差別者を選
択する。
差別する者は、強者の立場に身をおいてみて被差別者に対して優越感を味わうのだろうか。。
人として違う立場の人間を理解することもしないし、受け入れることを否定する不寛容な時代が
益々色濃くなっている気がする。
今回の機動隊員達の土人やシナ人発言は、彼等の精神の深層に、生まれながらにしてあったもの
だとは思わない。成長の過程や周りの環境、或いは組織の上意下達なるものかも知れない。
いずれにしても、沖縄県民に寄り添う真の気持ちを安倍晋三等にまかせるのではなく、本土の国民
(日本人)に少しでも欲しい気がする。
忌避されている固有名詞なのだろう。当然といえば当然であるが。
この土人発言について、肯定的な発言が、ネトウヨどころか閣僚や公党の党首に見られる
ことは何とも腹立たしい限りだ。
彼等は、差別しかない沖縄の歴史を学んでいるのだろうか。
ここで、あえて沖縄の成り立ちや棄民としか言えない差別的扱いを述べる気はない。
沖縄基地村に巣くう日米軍産の強欲、官僚の忖度、土建屋の都合で要りもしない基地を造ろ
うとしている沖縄の民意を一顧だにしない横暴な政権の為すことすべてを良しとし、それに
異を唱える沖縄県民を悪とする冷酷な本土の国民達。
強者の論理に加担する決して強い側にいない人間のなんと多いことか。
やはり、この国はどこかでボタンの掛け違い(故意)をしてからというもの、外して掛け直
すにはあまるにも遠くまで来てしまったようだ。
沖縄の構造的差別に対しては、今に始まったことではない。沖縄の悲惨の歴史に一旦でも触れ
れば今の沖縄の成り立ちを知れば知るほど、憤り以外の感情は湧かない。
差別は、障がい者、弱者、マイノリテイーに対して行われる。あるいは出自に対しても行われる。
経済力が劣る国、文明的に劣っている国の者に対しても行われる。かつて植民地だった国の者に
対しても行われる。それはほとんどが先入観など、自らの裏付けのない価値観の中で差別者を選
択する。
差別する者は、強者の立場に身をおいてみて被差別者に対して優越感を味わうのだろうか。。
人として違う立場の人間を理解することもしないし、受け入れることを否定する不寛容な時代が
益々色濃くなっている気がする。
今回の機動隊員達の土人やシナ人発言は、彼等の精神の深層に、生まれながらにしてあったもの
だとは思わない。成長の過程や周りの環境、或いは組織の上意下達なるものかも知れない。
いずれにしても、沖縄県民に寄り添う真の気持ちを安倍晋三等にまかせるのではなく、本土の国民
(日本人)に少しでも欲しい気がする。